8話(アーサーの過去)
アーサーが隣国へ留学してから、数年の月日が流れていた。
当時は胸を切り裂かれるような思いを抱え、隣国へ渡った。 言葉も文化も違う慣れない環境での暮らしは決して楽ではなかったが、かえってその日々が傷ついた心を少しずつ癒やしてくれた。 その分、勉学にも剣の鍛錬にも、全力で打ち込んだ。
どんなに辛くても、弱音だけは吐かなかった。 自分で決めて、この国へ来たのだ。 だから、ここでできる限りのことを学ぼうと思っていた。
だけど、ふとした瞬間に思い出すのはいつも一人の少女だった。
(……リリアン)
幼い頃、一緒に過ごした少女。
笑った顔も、たまに怒った顔も、今でもはっきり覚えている。
当時、自分の気持ちを伝えることに躊躇っているうちに、彼女には婚約者ができてしまった。
ギルバートが先に想いを伝え、彼女はそれに応じたのだ。すべてを知ったアーサーは何も言えなかった。
ただ、自分の気持ちを胸の奥へ押し込め、気づかれないように振る舞った。
だけど、そばで二人の仲睦まじい姿を見ることに耐えきれず、父に願い出て、隣国への留学を決めた。これで少しは忘れられると思っていた。
そう、遠く離れてしまえば、きっと……。
しかし、現実は違った。
勉強をしている時も、剣の鍛錬をしている時も、異国の街を歩いている時も、何か嬉しいことがあれば、リリアンにも見せたいと思ってしまう。
美しい景色を見れば、彼女なら喜ぶだろうと思う。
珍しい菓子を見つければ、彼女は甘いものが好きだったなと思い出す。
隣国に来ても、いつもリリアンのことが頭から離れなかった。
そんなある日。
アーサーは、学園の中庭で一人の少年と出会った。
「君、ここで何をしているんだ?」
「少し休んでいるだけです」
「そうか。なら、少し話し相手になってくれないか?」
気さくに話しかけてきた少年。
その正体が、この国の王太子だと知ったのは、その日の夕方だった。
「……王太子殿下だったのですか」
「そんなに驚かなくてもいいだろう。学園では普通の友人として接してくれ」
それから二人は、少しずつ親しくなっていった。
王太子と過ごす中で、他国の情勢や外交について学ぶ機会も増えていった。
アーサーという男は相手の立場を考えて行動することができる。
王太子が困っている時には、必要なことをすぐに察する。
意見が対立した時も、感情的にならずに話を聞く。
そんなアーサーを、王太子は次第に信頼するようになっていった。
「アーサー。卒業したら、どうするつもりだ?」
「故郷へ戻るつもりです」
王太子は少し寂しそうに笑った。
「やはり、そう答えると思っていたよ。それでも聞かせてくれ。もし気持ちが変わることがあるなら、私の側近として仕えてくれないか」
「殿下の……側近ですか?」
「ああ。君と一緒にいると、私は安心できる。それに、君には人を見る目がある」
思いがけない言葉に、アーサーはしばらく考えた。
だけど、結局は首を横に振った。
「ありがたいお言葉ですが、私は故郷へ戻ろうと思っています」
「やはりだめか」
王太子はそれ以上、何も言わなかった。
しかし、それからしばらくして、アーサーのもとに、一通の手紙が届いた。差し出し人は、王太子だった。
『君に頼みたい仕事がある。もし故郷へ戻る前に少しだけ時間があるのなら、私を手伝ってくれないか』
さすがにその頼みを断ることはできなかった。
(最後に一度だけ……)
王太子に同行したその仕事は、大貴族との会談だった。
最初は書類の整理や日程の調整を任される程度だと思っていた。
しかし、会談の最中、一人の貴族が契約書の文言を利用して殿下を不利な条件へ誘導しようとした。だが、前々からその貴族を不審に思っていたアーサーは、すぐさま過去の資料を見返し、矛盾に気づいた。
「殿下、その条項は三年前の協定と食い違っています」
その一言で、会談は一変した。
相手の企みは露見し、不正を見抜かれた貴族は逆にこちら側の要求を全て飲まざるを得なくなった。
その後、会談は無事にまとまった。
帰りの馬車で、王太子は静かに笑った。
「やはり、君を帰すわけにはいかないな」
「殿下……」
「君はただ書類だけを見ていたわけではない。その人間の裏の顔まで見抜いていた」
その言葉に、アーサーは返す言葉を失った。
「もう一度頼む。今度は正式に、私の側近になってほしい」
アーサーはすぐには断れなかった。
故郷へ帰る約束は変えたくない。
だけど、この人の力になりたいという気持ちも嘘ではなかった。
「……一つだけ、お願いがあります」
「何だ?」
「私は、いつか必ず故郷へ戻ります。その時は引き留めず、送り出してください」
王太子殿下はにっこり笑った。
「もちろんだ。君が故郷へ戻りたいと望むなら、その時は快く送り出そう。それまでは、私に力を貸してくれないか」
「はい」
こうして彼は、隣国の王太子付き側近となった。
────
故郷を離れてから、長い年月が過ぎていた。
そしてついに、故郷へ戻る機会が訪れた。
王太子殿下が親善訪問のためアーサーの母国を訪れることになり、側近である彼も同行することになった。
船の窓から遠ざかっていく見慣れた景色を眺めながら、アーサーは静かに目を閉じた。
この数年間、いろいろなことがあった。
学んだことも増えた。
自分自身も、あの頃よりずっと成長したと思う。
それでも……。
心の中にいる少女だけは、変わらなかった。
リリアン。
今、君はどうしているのだろうか。
きっと立派な淑女になっているに違いない。
そして……ギルバートとは、もう結婚したのだろうか。
そんなことを考えながら、アーサーは遠くに見える故郷を見つめた。
もうすぐ、母国へ着く。もしかしたら彼女に会えるかもしれない。
そう思うと、胸の奥がわずかに高鳴った。
(だが……もう彼女に話しかけることさえできないのかもしれないな)
数日後、アーサーは王太子殿下とともに、母国の王宮へと向かった。




