27話(屈辱)
それからしばらくして、ついに舞台の初日を迎えた。
劇場は開演前から大勢の観客で埋め尽くされ、王都でも注目の公演となっていた。
そして、当日。
王太子殿下も劇場へ足を運ばれた。
もちろん、殿下がお越しになった以上、アーサーはその傍らに控えている。
さらにアルヴェール侯爵家の方々も、殿下の隣に設けられたボックス席へ案内されていた。
一方でディアナに用意された席は、貴族専用のボックス席ではあるものの、中央から外れた端の席。
誰が見ても、その差は明らかだった。
それは、アーサーがあらかじめ用意させた席でもあった。
プライドだけは誰よりも高いディアナだからこそ、その違いを嫌というほど思い知るはずだった。
そして幕が上がる。
舞台は息を呑むほどの熱演に包まれ、客席からは何度も歓声と拍手が湧き起こった。
そして、大盛況のうちに終演を迎える。
主演俳優は舞台の中央へ進み出ると、客席全体へ優雅に一礼した。
続いてロイヤルボックスへと向き直り、深く頭を下げる。
王太子殿下は満足そうに拍手を送り、その隣のアルヴェール侯爵夫妻と令嬢も惜しみない賛辞を送っていた。
終演後。
侯爵夫人は支配人を呼び寄せ、主演俳優をボックス席へ招いた。
「本当に素晴らしい舞台でしたわ」
「身に余るお言葉です」
俳優は恭しく頭を下げながらも、頬には抑えきれない喜びが浮かんでいる。
侯爵夫人や令嬢から次々とかけられる称賛に、彼は溢れんばかりの笑顔で応えていた。
その光景を、ディアナは離れた席から見つめていた。
怒りで顔を真っ赤に染めながら。
彼女の憤りは、それだけではなかった。
この国へ来てからというもの、アーサーは『仕事がある』と言って、ほとんどディアナの相手をしなかった。
王太子殿下への随行、劇団との打ち合わせ、そして他の貴族への挨拶。
どれも仕事だと言われれば納得するしかない。
何より、今回の同行は自分が無理を言って、実現したのだから尚更文句を言えるわけもなかった。
それでも……以前なら何よりも自分が優先されていたのは間違いない。
なのにこの国に来てからというもの、軽くあしらわれているようで、苛立ちが募る。それがディアナにはどうしても面白くなく、我慢ならなかった。
────
それからしばらくすると、劇団の評判は王都中へ広がっていった。
「あの劇団は別格だ」
「主演俳優は素晴らしい」
「アルヴェール侯爵家まで支援しているらしい」
そんな噂が街中で飛び交い、彼らはこの国で確かな評価を手にしていく。
劇団員たちも、この国へ腰を据えて活動する話を進め始めていた。
大物支援者を得た今、不安はなかった。
その一方で、ディアナだけが取り残されていく。
もう誰も、以前のように彼女を特別扱いしない。
その現実に耐えられなくなったのだろう。
「もう帰りたいわ。アーサー様、一緒に戻りましょう」
彼女は突然、我慢の限界だとばかりにそう口にした。
しかし、アーサーが、首を縦に振ることはなかった。
「私はまだ、こちらでの仕事が山積みなのです」
「何故、どうしてなの……。アーサー様はわたくしを想ってくださっているのでしょう?」
その時だった。
今だ。
アーサーはこの機会を見逃さなかった。
ディアナの目をじっと見つめる。
何事もないような顔をして、口を開いた。
「ディアナ嬢。私はあなたに一度だって、好きだとか愛しているなどと言った覚えはありませんよ」
「それは……たしかに、そうですけれど……」
ディアナが戸惑ったように言葉を詰まらせる。
「ディアナ嬢。私が愛しているのは、過去も今も、そしてこれから先もリリアンだけです」
ついに告げた。
長い間、心の中にしまってきた本心を。
ディアナの表情が、一瞬で凍りつく。
「え……?」
信じられないものを見るように、彼女はアーサーを見つめた。
自分ならこの国でも、特別な存在として扱われると思っていた。
それなのに、最後の砦だと思っていたアーサーの心までも、自分のものではなかった。
彼の気持ちが自分にあると信じていたことさえ、すべて勘違いだった。
それは自尊心の塊である彼女にとって、幾重にも重なる屈辱となった。
アーサーが心の底で呟く。
(そう、これこそが、私からの罰だ。これは、リリアンを傷つけた報いでもある。今こそ思い知るがいい)
────
その後、ディアナは劇団の主演俳優を呼び出した。
一人きりで母国に帰ることだけは、どうしても耐えられなかった。
「わたくしは本当はあなたのことを……わかるでしょう? あなただってわたくしのことを愛しているのでしょう?」
突然の言葉に、彼は驚いたように目を見開く。
「だったら、このわたくしがあなたの個人的なパトロンになって差し上げてもいいのよ」
ディアナにとって、それが最後の切り札だった。
自分がもう一度、気がある素振りを見せれば、彼が喜んでついてくると、思っていた。
しかし、彼は少し困ったように微笑んだ。
「お気持ちは大変ありがたいのですが……私は、こちらの国で仲間たちとどこまでできるのか、試してみたいのです」
「……え?」
聞き間違いだと思った。
いや、聞き間違いでなければならなかった。
ディアナの指先が、わずかに震える。
そんな彼女に、彼はにこやかに告げた。
「アーサー様のおかげで、私たちはここまで来ることができました。これからは、自分たちの力でどこまで行けるのか、挑戦してみたいと思っています」
その言葉が、ディアナの胸に冷たい刃のように突き刺さった。
自分の財力では足りないというのか。
自分が心を見せても彼を動かせないというのか。
「そんな……」
ようやく絞り出した声は、ひどく弱々しかった。
彼はディアナを拒絶した。
しかも、怒鳴るわけでもなく、侮辱するでもなく、ただ静かに、彼女を必要としていないと告げた。
その事実が、何よりも耐え難かった。
ディアナは、彼が本当は迷っているだけなのだと思い込もうとした。
仲間に遠慮しているだけ。
アーサーに恩義を感じているだけ。
そうでなければ、自分が拒絶されるなんてありえない。
だけど、どれだけ理由を並べても、彼の穏やかな表情は変わることはなかった。
その目にあったのは、恋でも未練でもなく、ただの感謝と決意だった。
「ディアナ様。今まで本当にありがとうございました。自分はこの国でもっともっと、羽ばたいて見せます」
その瞬間、ディアナの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
追い討ちをかけるように、その後、劇団員たちも俳優の言葉に促され、この国に残る道を選んだ。
誰一人として、彼女に合わせて帰国しようとは言わなかった。
ディアナは、彼らが自分を見捨てたのだと思った。
今まで自分がどれほど彼らを支えてきたのか、誰も覚えていない。
自分がいなければ、彼らは何もできなかったはずなのに……。
結局、ディアナは一人きりで母国へ戻ることになった。
────
馬車の扉が閉まり、ゆっくりと王都を離れていく。
窓の外へ流れる景色を睨みつけながら、ディアナは膝の上で拳を握り締めた。
「どうして……」
もう誰も自分を特別扱いしてくれない。
結局、アーサーは自分をその気にさせ、最後にはリリアンを愛していると告げた。
挙げ句の果てには、あの俳優まで、自分ではなくこの国の侯爵家を選んだ。
胸の奥で煮えたぎる怒りは、行き場を失ったまま膨れ上がっていく。
「どうして、このわたくしがこんな目に遭わなければならないの」
だが、その声は決して誰にも届かなかった。




