19話(裏切り)
アーサーの怒りを含んだ声に、後ずさりながらもギルバートは応接室を飛び出した。
廊下へ響く足音が遠ざかっていく。
アーサーも思わず追いかけようとした、その時だった。
「アーサー様」
落ち着いた声が後から聞こえた。
劇団の代表だった。
テーブルの上には、隣国公演の契約書や日程表が広げられたままになっている。
「申し訳ありません。こちらも今日中に詰めなければならない話が残っております」
アーサーは拳を握り締めた。
(くそ……)
追いかけたい。しかし、この交渉は自分の計画の為に、王太子に頼み込み、許可をもらった仕事だ。
ここで投げ出すわけにはいかない。
今できることを終わらせるしかない。
そう自分へ言い聞かせながら、アーサーは再び仕事へと頭を切り替える。
だが胸の奥では、嫌な予感だけが膨らんでいく。
────
一方、その頃。
ギルバートは馬車の中で拳を握り締めていた。
「違う。僕は間違ってなどいない」
そうだ。ディアナが僕を裏切ったんだ。
その上アーサーへ乗り換えようとしている。
だったら……。
リリアンなら、あの子なら違う。優しい彼女ならきっとまた、僕を受け入れてくれる。
謝れば必ず許してくれる。
馬車は走り続けた。
しばらくすると見慣れた門が見えてきた。
アッシュフォード伯爵家だった。
「止めろ!」
御者が馬を止めるより早く、ギルバートは飛び降り、勢いよく門へ近づく。
「ギルバート様?」
門番が驚いた声を上げる。
「リリアンに会わせてくれ!」
「申し訳ございません。お取り次ぎいたしますのでここでお待ちください」
「取り次ぎなんかいい!」
ギルバートは門を押そうとした。
しかし門番がすぐに前へ立ちはだかった。
「失礼ながら、お約束のないご訪問です」
「僕は婚約者だったんだ!」
「……元、でございます」
その一言が胸へ突き刺さった。
「頼む。一度だけでいい。どうしても謝りたいんだ」
ギルバートの声が震える。
門番は困った顔で頭を下げた。
「旦那様へお伝えいたします」
その頃。
二階の窓辺にあるソファに座っていたリリアンは、庭先から聞こえてくる声が気になって、立ち上がり外を見た。
「……え?」
思わずカーテンの隙間から外を覗くと、そこには門前で必死に訴えるギルバートの姿が見える。
心が動揺した。だけど、それは何かを期待するものではない。ただの戸惑いだった。
その様子を見つめていると、今度は玄関の扉が開いた。
そこに父であるアッシュフォード伯爵が姿を現した。
その表情は険しかった。
伯爵は門の前へ行くと、ギルバートを鋭く睨みつけた。
「今さら、我が家に何の用事だ」
低く冷たい声だった。
「それより……よくこの屋敷へ足を踏み入れられたな」
ギルバートは思わず息を呑む。
「伯爵様、申し訳ありません!」
深々と頭を下げる。
「僕は間違っていました! リリアンに謝りたいんです! だからもう一度だけ話をさせてください!」
必死な声だった。
だが、伯爵の表情は一切変わらない。
「謝る?」
その一言に怒気が滲む。
「二度とリリアンの側へ近寄るな」
ギルバートの肩が震えた。
「伯爵様……」
「お前は、自分の欲のために娘を傷つけた」
伯爵は一歩前へ出る。
妻から聞かされた、お茶会での噂を思い出していた。
アーサーがディアナと観劇を楽しんでいたという話に、リリアンが傷ついていたことを。
「娘に嘘をつかせようとした挙句、捨てておいて、そして今度は、自分が捨てられそうになった途端、戻ってきたというのか」
その瞳には父親としての怒りが宿っていた。
「どういう神経をしていれば、この屋敷へ来ようなどと思える」
ギルバートは言葉を失う。
伯爵は冷たく言い放った。
「お前は、どうしようもない人間のクズだ」
その言葉が、屋敷の静寂を切り裂いた。
「帰れ! 二度と娘の前へ姿を現すな」
そう言って伯爵は踵を返す。
しかし……。
「待ってください!」
ギルバートはなおも諦めなかった。
門番の制止も振り切るように門の前へ駆け寄り、屋敷を見上げる。
「リリアン! 頼む、僕の話を聞いてくれ! お願いだ!」
その声は屋敷中へ響き渡る。
二階の窓辺では、リリアンが静かにカーテンの隙間から外を見つめていた。
するとギルバートは、さらに声を張り上げた。
「リリアン! それとも君まで、アーサーの方がいいのか!」
その言葉に、リリアンは思わず耳を傾ける。
「アーサーなら今、ディアナと一緒にローゼンベルク侯爵邸にいるぞ! 僕はそこで、彼女に婚約を解消すると告げてきたばかりだ!」
窓の下から響く言葉に、リリアンは唇をきゅっと結んだ。
(やはり……あのお茶会での噂は本当なのね)
胸の奥が、締め付けられる。
先日、お茶会で耳にした噂。
アーサーがディアナと仲良く観劇していたという話。
その時の痛みは、今も胸の奥に残ったままだった。
だけど、それとは逆に、門の前で必死に叫ぶギルバートに対しては、心は驚くほど冷めている。
少し前までなら、その姿を見るだけで胸が締めつけられていたかもしれない。
けれど、もう違う。
ギルバートへの想いは、すでに過去になっていた。
そう。
あれは恋ではなく、幼い日の《錯覚》だったのだ。
リリアンはそっとカーテンを閉じた。
もう、振り返ることはなかった。




