春ウサギ美味し夏の山(その3)
「アオィちゃんの匂い、嗅ぐべし!」
先輩はそう言うと、私に向かって一直線に突撃してきた。
私は衝撃に備え、体勢を低くして構える。
「むぅっ!」
短い叫びと同時に、ぼすっ、と先輩が私の胸に衝突した。
受け止めた身体を、そのまま抱きしめる。
すると先輩は、それよりも強い力で私を抱きしめ返した。
私の胸に顔をうずめたまま。
すんすん、と。
嗅いどる。
「先輩、匂い嗅ぐの好きっすよね」
私はとくに驚いたりはせず、それを受け入れる。
これ、いつものことなので。
「むぅぅ。落ち着くぅ」
「なんで他人の匂いを嗅いで、落ち着けるんすか」
腕の中にいる先輩が、もぞもぞと動くのが、少しくすぐったい。
私の匂いを嗅いで、なぜかチルい顔になっている先輩が、ふにゃけた声で答える。
「好きだからじゃない?」
えっ!?
すすすすす、好きっ!?
「この匂い、好き!」
「……先輩、匂いフェチっすもんね」
そう、匂いです。知ってた。
私は大きく息を吐く。
すると、先輩が私の胸から、がばっと顔を上げた。
「あ、空がキレイ!」
「晴れてるから、星がよく見えるっすね」
「アオィちゃんの好きな星空!」
たしかに今日の夜空はキレイだった。
だけど。
「私が好きなのは、満天の星空っす。この空もなかなかっすけど、本物はもっと広いとこじゃないと」
「むぅ。どこかで見たことあるの?」
「だいぶ昔っすけどね」
先輩は「そっかー満天かぁー」とつぶやきながら、そのあともしばらく星空を眺めていた。
自宅へ帰る先輩と別れたあと、私も自分の家へと向かう。
先輩はいつも「アオィちゃんも私のうちに住めばいいのに!」と言うが、そこまでお世話になる訳にはいかない。
私の家は、ギルドに近い小高い丘の上にある。
大きな建物の中に、いくつかの家が集まっている集合住宅だ。
門の前に立っている警備員に挨拶し、入口の扉を開けてもらって中に入る。
受付にいたコンシェルジュから、私あてに届いた郵便物を受け取って、自分の部屋へ向かった。
「ただいまっす」
自宅のドアを開け、帰宅の挨拶をしてはみるが、一人暮らしなので誰からも返事はない。
広い部屋にはひと通りの家具が揃っていて、無駄なものはなくシンプルだ。
シャワーを浴びて部屋着に着替えると、さっき受け取った郵便物を思い出した。
「手紙が来てたっすね」
それは、両親からの手紙だった。
親元を離れて今の仕事を始めてから、毎月欠かさず両親と手紙でやり取りしている。
封筒を開けて手紙を読み終えると、すぐに返事を書くことにした。
お気に入りの便箋にペンで文字を綴っていく。
仕事のこと、体調のこと、美味しかった食べ物のこと。
先輩がアリ相手に大活躍したこと、先輩がまた突撃したこと、先輩がまた変な歌を歌い出したこと……。
なんか先輩ばっかりだな。
まあ、私の毎日は先輩だらけだから、間違ってはいないか。
ふと顔を上げると、額縁に入れて壁に掛けてある絵が目に入った。
シンプルな部屋のなかで唯一、飾ってあるその絵は、夜空を描いたものだ。
正確に言えば、星の配置が詳細に示された星図だった。
『八百山連峰 夏の全天星図』と書かれた星図。
それは、私がまだ学生だった頃、家族と巡礼旅行に行ったときに買ってもらったものだ。
やさしい両親と、物知りな兄。
夏休みの夜、高い山の上で、家族と笑い合いながら見上げたのは、目も眩むような満天の星空だった。
360度、すべての宇宙からこぼれ落ちてきそうなほどの、あの燦然とした輝きを、今も覚えている。
その星空を見て、いつか冒険者になりたいと思った。
世界中の美しい星空を巡って、旅する冒険者に。
「……実際は、星なんて見えないダンジョンに潜る毎日っすけど」
そうつぶやきながら、私は手紙を書き終える。
そして、机にペンを置こうとした。
そのとき。
「いたっ」
ペンを持った腕に、身体を内側から叩かれたような、鈍い痛みが走った。
「……思ったより早いっすね」
<その4へつづく>




