464●『ディスクロージャー・デイ』(2026)②少女と鹿。子供の頃、私たちは神様も幽霊も魔物も見えた。五感の闇に隠れているのは?
464●『ディスクロージャー・デイ』(2026)②少女と鹿。子供の頃、私たちは神様も幽霊も魔物も見えた。五感の闇に隠れているのは?
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『ディスクロージャー・デイ』の予告編。
少女と鹿が、互いに意思疎通できているかのように、仲良く連れ立って歩く場面がありましたね。
幼い子供の頃、私たちは動物たちと話をすることができ、妖精の姿が見えて言葉を交わすことができ、そして神様も幽霊も魔物も見えた……のかもしれません。
それは、実は宇宙人だったかもしれないけど。
そんな風にも感じますね。
この点について考えてみましょう。
ちょっと前振りの長い考察になりますが、ご容赦下さい。
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●私たち人間の五感にかけられた制限機能。
『超生命ヴァイトン』で語られた「人類家畜説」。
この作品ではヴァイトンが赤外線領域に棲む生物とされ、可視光しか感知できない人間の眼がヴァイトンを見えるようにするために、特殊な薬物が使われます。
物語の中では、人間の五感の中の「視覚」から、「赤外線領域は見えない」とする制限を取っ払う機能を発揮するわけですね。
作品中では、人間の「視覚」に範囲を絞って論議されます。
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しかし、制限されているのは、たぶん視覚だけではないでしょう。
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感の全てに、このような制限機能が、何者かによって付加されていたら、どうでしょうか?
視覚における「可視光」とは、人間の目に見える光の範囲を指し、その波長範囲はおおむね380nmから750nm の間に制限されています。
この範囲よりも短波長の紫外線、長波長の赤外線、いずれも眼球全体としては外部からの光刺激としてキャッチしているはずです。紫外線は網膜保護のため角膜や水晶体で吸収されますが、眼球が光刺激を受け止めていることは事実ですね。
聴覚では、一般に人に聞こえる周波数の範囲すなわち「可聴域」は、低音で20Hz、高音で20kHzくらいまでの間とされます。
この「可聴音」よりも周波数の高い「超音波」や、周波数の低い「超低周波音」は、「耳に聞こえない」と認識していますが、実際は耳の中に届き、鼓膜や内耳に振動を伝えていることは事実です。ただ、それを音として認識しないだけですね。
ということは……
視覚も聴覚も、見えない周波数、聞こえない周波数の光も音も、刺激としては眼や耳に達しています。
私たち人間の外界認識は、外からのナマの刺激画そのままではなく、いったんすべてが体内の神経を走る電気信号に“翻訳”され、それが脳のしかるべき受容体に届くことによって「これが外界だ」と認識されます。
しかしそれらの刺激の大部分を、脳内の何らかの仕組みで、「神経を伝達する信号としては無意味化する」ことをしているのではないでしょうか。
つまり、「可視光」や「可聴音」に含まれない範囲の光や音は、脳へ伝わっていく電気信号に翻訳されないよう、あらかじめ「制限機能」が備わっているという考え方です。
人間の視覚や聴覚は、可視光や可聴音の範囲の外界刺激のみを神経の電気信号に翻訳し、それ以外の「見なくてよい、聴かなくてよい」刺激は電気信号に翻訳しないで捨て去ってしまう……という、情報の制限機能が課せられているのではないか?
そしてこれは、視覚と聴覚だけでなく、嗅覚・味覚・触覚においても同じことが言えるのではないでしょうか。
そうでしょう? 嗅覚も味覚も触覚も、神経を伝わる電気信号に「翻訳」された情報だけが脳に伝わって「外界刺激」と認識されているはず。
嗅いでいるのに、無臭。
味わっているのに、無味。
触っているのに、無触覚。
そのような、「認識の制限機能」が、私たちの脳に、備えられているのではないか。
実際に「見ている、聴いている、嗅いでいる、味わっている、触っている」にも関わらず、その情報を伝える脳神経の電気信号が、かなりの部分において、制限機能によって、シャットアウトされているのです。
何のために?
もちろん、実際に「見ている、聴いている、嗅いでいる、味わっている、触っている」にもかかわらず、私たちの意識には全く感知できなくさせるためです。
それは、何を?
たとえば、宇宙人を。
というのが『ディスクロージャー・デイ』の物語の核心かもしれません。
しかしここでは、さらに概念を拡大してみましょう。
私たちの脳の近く範囲に制限機能をかけて、人類に「感知させたくない」対象物が、実は宇宙人ではなかったとしたら?
途方もない昔から、人類が進化してくる何万年もの時間をかけて、じわじわと遺伝子が改変されて、人類がそれまで「見ている、聴いている、嗅いでいる、味わっている、触っている」と感じていたものが、「見えない、聞こえない、嗅げない、味わえない、触れない」存在に変化していったのではないか、と仮定してみましょう。
例えば、昔々、古代の人類には普通に見えていたし聞こえていたけれど、数千年の時を隔てると、見えないし聞こえもしない存在になってしまった……と。
それは何か。
宇宙人ではないとすると……
「神様・幽霊・魔物」の類ではないでしょうか。
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●「神様・幽霊・魔物」が、実際にいるとすると……
無神論者の皆さまは別として、地球上の多くの人類は、程度の差は様々ですが、「神様・幽霊・魔物」とそれに類する霊体の存在、おおむね信じていますよね。
もちろん、既存の宗教を信じるかどうかは別の話です。
宗教の問題はあっちへ置いといて、要するに「神様・幽霊・魔物」に相当する「霊体のような何者か」の存在を“本能的に”信じるかどうか、です。
半信半疑の方が多いでしょうが、「神様・幽霊・魔物」の存在を完全に否定する根拠は確立してはいませんね。
科学万能の現代にあっても、そう。
いかに科学が発達しようとも、「神様・幽霊・魔物」は「ありえない」とは断言できない。
とすれば、それら未知の存在は、私たち人類が「見えない、聞こえない、嗅げない、味わえない、触れない」とする感覚領域に、実は今も隠れているのだと、考えるのが妥当であろうかと思います。
荒唐無稽かもしれませんが、私、結構本気で、そう思っているのです。
人間の「可視光領域」や「可聴域」って、その範囲は私たちを取り巻く膨大な光と音の、ほんの一部ですね。
私たちは、世界のほとんどの部分を、感じ取れていない。
そして、「嗅覚や味覚や触覚」も、同じような制限機能に支配されていたとすれば……
人間がその「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感」で感じ取っているのは、世界のごく一部に過ぎません。
人体の外を満たしている世界の大半は、脳内の細胞を行き交う電気信号に翻訳されることはなく、「そこにあるはずだけれど、感知できない」のです。
ならば、「感じ取れていない領域」に、「神様・幽霊・魔物」の類が存在し、そちらから私たちをじっと見つめていても、全然おかしくないということになります。
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きっと、本当にいるのですよ。
「神様・幽霊・魔物<悪魔を含む>」がうようよと動き回っていても、ただ私たちの方が「感じ取る手段を持たない」だけ。
しかし、感知できないにしても、なにかこう、不思議な気配として……私たちがいみじくも「第六感」と呼ぶ感覚領域には、うっすらとそれらの存在が感じられているのではありませんか?
そんなこと、あるでしょう?
幼い子供のころ、黄昏時のトワイライト・ゾーンで、あるいは丑三つ時の真っ暗な窓の外に、「神様・幽霊・魔物<悪魔を含む>」をチラリと垣間見た記憶なんて、ありはしませんか?
まだ脳が発達しきれていない幼小の時期は、五感の制限機能が完成しきれずに緩んでいて、ときどき、本当に「見えた」のでは?
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●遥かな昔は誰でも使えた宇宙共通の“妖精語”
そこで『ディスクロージャー・デイ』の予告編をもう一度、観てみましょう。
幼かった時代の主人公らしき少女が、鹿<ヘラジカさん? エルクかな?>と出逢っていましたね。
互いに心を通じさせているかのように、仲良く歩きます。
少女にはその鹿が、ただの鹿ではないことが「見えて」いたのでは?
そうですね、トトロが見える少女のように。
そんな少女には、きっと“シシ神様”も見えて、お話ができたことでしょう。
連れ立って歩く鹿さんのように。
このあたり、メルヘンチックな演出がお好きなスピルバーグ監督らしい設定ではないかと思います。
幼な心を持っている子供には、神様も幽霊も魔物<悪魔を含む>も見えるのです。
夢あふれるディズニーアニメを彩る美少女たちが、犬や猫やネズミといった動物たちと、ごく普通に会話できるように。
どのような言葉で対話したのでしょう。
1917年、英国は片田舎に住む二人の少女が妖精たちと対話し、写真まで撮影したと言われるハプニングがありましたっけ、「コティングリー妖精事件」です。
推理作家コナン・ドイルも本格的に研究したと言われる事案です。
ただし妖精に英語が通じるはずがありません。
とすると……
少女たちは“妖精語”で意思疎通したのです。
半ばテレパシーに近い、「脳で喋り、脳で聴く」言葉ではないかと思います。
それはまた、宇宙の万国共通語であり、神様や幽霊や魔物<悪魔を含む>とも対話できる、魔法の万能言語であると考えられます。
妖精って、普通、オトナには見えませんね。
そして妖精って、「神様・幽霊・魔物<悪魔を含む>」の範疇の一部分です。
さらに“妖精語”は、当然、人間に対しても有効ですね。
人間同士、互いに母国言語が異なっていても、“妖精語”を使えば、お互いに言語の違いを乗り越えて、正確に意思疎通することが可能になります。
実際、遥かな太古の昔、人類はオトナも含めて、普通にそうしていたのではありませんか?
“妖精語”によって、妖精を含む神様や幽霊や魔物、そして動物たちとと対話できることに加えて、使用する言語の異なる人間同士も、“妖精語”を使うことで、容易にかつ正確に意思疎通できたのです。
だから、人類は神様に挑戦するが如くに、その力を合わせて“バベルの塔”を建設しようとしたのではないでしょうか?
しかしなぜか、神様の怒りを買って、「バベルの塔は崩壊し、人類はそれぞれの民族や地域ごとに使用する言語が異なるようにされて、人類同士の意思疎通に齟齬をきたすようになった」と、聖典などに伝えられているのではありませんか。
ということは……
「バベルの塔以前」には、人類はみな妖精語を使うことができ、妖精をはじめ神様や幽霊や魔物、さらには動物たちとも普通に対話することができた。
しかし「バベルの塔の崩壊後」、人類は神様によって妖精語を使えなくされた。
そして、神様たちとの対話どころか、人間同士でも言葉の違いが壁となって、意思疎通できなくなった。
そう考えられますね。
つまり、“バベル崩壊”という時期を境に、人類の遺伝子には、妖精語を使えなくなる……という制限機能が加えられたのです
実際、そうではなかったか……と、私はけっこう信じています。
何者かの手によって、人間が外界を感知できる範囲に、長い歴史の渦中で制限が加えられ続けてきたのだと。
ただし、脳が発達途上である幼い子供たちは、制限機能も未完成であり、だから妖精語が限定的ながら、使えたのではないか。
『ディスクロージャー・デイ』の予告編では、おそらくあの幼い少女は、妖精語に似た何らかの言語システムで、宇宙人<もしかすると神様・幽霊・魔物に相当する存在かも>と語ることが出来たのではないかと思います。
ということは……
宇宙人に“寄生”されている人たちは制限機能が緩められているのですから、そういった人間同士でも妖精語のようなものを使うことで、言語の壁を超えて、互いの意思疎通ができると考えられるわけです。
『ディスクロージャー・デイ』の作品中では、宇宙人が見えて、言葉を通じ合える“共生者”同士がテレパシー的な言語で繋がり、独自のコミュニティを構成するのではないかと思います。
私たちは宇宙人とわかり合えた“共生者”。
私たちは仲間なのだと。
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私たちは、目に見えない、聞こえない、感じられないはずの、超自然の存在を、どことなく信じているし、その存在を信じようとしている。
その原因のひとつとして、遥かな太古の昔、人類には神様も幽霊も魔物<悪魔を含む>が見えていたし、対話することもできたのではないか?
そんな記憶が、私たちが大人になっても、遺伝子の中にひっそりと残されているのかもしれません。
だからこそ宗教があり、小説や映画などのファンタジー作品にも心が惹かれるのではないでしょうか。
神様も幽霊も魔物も、全く存在せず、全く無意味な事象であるとすれば、私たちが関心を持つ事も全く無いのですから。
【次章へ続きます】




