463●『ディスクロージャー・デイ』(2026)①予告編から内容を推理。これは21世紀の『美しい星』+『超生命ヴァイトン』?
463●『ディスクロージャー・デイ』(2026)①予告編から内容を推理。これは21世紀の『美しい星』+『超生命ヴァイトン』?
スティーヴン・スピルバーグ監督の新作映画『ディスクロージャー・デイ』は7月10日に公開予定。ということでネットで予告編を観ましたが……
……似てる!
三島由紀夫氏の同名小説を原作とした映画『美しい星』(2017)に!
『美しい星』は、首都圏に住むごく普通の一家がある日突然に「俺は火星人、僕は金星人、私は水星人……」と「実は宇宙人であった」ことに目覚めるという物語。
家族はそれぞれの星人を代表して行動し、人類の誤った進路を修正しようと、世界に向けて情報を発信しようとするのですが……
まあ、誰も信じないですよね。
しかしそこでくじけてはお話になりません、一家は団結してあの手この手で……
とても素敵な作品でした。さすが原作は三島由紀夫。小説はコテコテに中身が濃い思索場面が展開しますが、映画はちょっとコミカルでシニカルで「宇宙人は人類に対して、何をしてやれるだろうか?」と、しみじみ考えさせてくれます。
そこで、両作の予告編なのですが。
『美しい星』の予告編では、リリー・フランキーさん演じる父親が気象予報のお天気キャスターをされてまして、本番オンエア中に突然、「僕は火星人ですっ」と宇宙人に覚醒。
もう、しっちゃかめっちゃかなお天気レポートになってしまい、スタジオの皆様をドン引きさせてしまうのですが、世間には結構面白がられて好評だったりして……
そして『ディスクロージャー・デイ』の予告編では、主人公らしきお天気キャスターのお姉さまが、本番オンエアのさなかに、突然に宇宙人に目覚めたのかは知りませんが、人間離れした奇妙な言葉を発し始めます。
おおっ、クリソツ!
お二方とも、お天気キャスターという設定ですね。
それがオンエア中に、宇宙人に取り憑かれたかのように異変を起こします。
さらに、『ディスクロージャー・デイ』の予告編には、こんなセリフがあります。
「もし私たちだけでないとしたら?」
「全人類はその真実を知る権利がある」
「開示する。全世界に、一斉に」
「この果てしない宇宙は人類だけのもの?」
言葉尻だけで類推するなら、この作品は、「当局が永らく極秘にしてきた宇宙人の存在が、全世界に一斉に開示される。そうすべきだ!」という物語に思えてきますね。
しかしそうだとしたら、宇宙人はどこにいるのでしょう?
*
『ディスクロージャー・デイ』の予告編では、主人公を含めて、右のこめかみに電極みたいな端子を貼り付けて登場する人が何人かいます。
それは、その人物の眼、すなわち視覚に、なにか影響を及ぼす装置のようです。
ここからは私の勝手な妄想的想像ですが……
その端子を付けて特殊な信号を流すと「見えない宇宙人が見えるようになる」のではありませんか?
この場合、二つのケースが考えられます。
① 宇宙人が、地球人そっくりの外見を獲得して社会に潜んでいる。→変装。
② 宇宙人は電子的な“寄生体”で、選んだ人間に乗り移っている。→共生。
根拠はありませんが、①は面白くありませんね。TVドラマの『V』みたいに「一皮むけば爬虫類」と、使い古されたホラー路線ですし。
たぶん、②じゃないかなあ?
そんな風に想像してしまいます。
ということは……
*
宇宙人は、ずっと昔から地球にいる。
ただし、幽霊のように見えない存在。
でも、質量は有していて、人類の生活環境に影響を与えることができる。
例えば、麦畑のミステリーサークルを作ったり、とか。
そして適宜、選んだ人間の脳内に入り込み、そこで安全に共生して、その人物をときどき操って、宇宙人のアバターとして喋らせ、行動させて、人類の歴史に影響を与え続けてきた。
それは時として、人類を戦争から救うこともあり、また逆に、戦争を勃発させて人類を減少させることもあった。
ナポレオンもヒトラーも、アインシュタインもオッペンハイマーも、ナイチンゲールもマザーテレサも、宇宙人に憑依されて操られた“共生者”かもしれない。
つまり、かれら宇宙人は、神様と同様の地位に就いて、人類の総数と、その行く末をコントロールしているのだ。
人口を調節して、地球環境を致命的に破壊し自滅することを防ぐ。
そして一定レベルの人口は維持することで「まるで迷える子羊を導く神様のように、人類を養っている」のだと。
これを「人類家畜説」とか「人類家畜テーマ」と申します。
その事実を政府当局もつかんでいます。
例の、こめかみの電極装置によって、脳の感覚野を拡張することで、宇宙人の存在が見えるようになるのですね。世界はバーチャルリアリティのように変貌して見えることになり、そこに、宇宙人が蠢いている姿が浮かび上がるのです。
そうやって政府当局は、「見えない宇宙人」を可視化し、宇宙人との共生者を割り出すことに成功し、ネットを利用して、リアルタイムで監視するようになったと考えられます。
今、政府当局は、宇宙人たちと手を結ぶべきか、戦って撃滅すべきかを選ぼうとしている。
その一方で、この事実を全世界に公表して人類の共通認識とし、その上で「見えない宇宙人」と敵対すべきか融和すべきかを、人類全体で判断すべきだと考える人々もいる。
いよいよ全てが明かされる日……ディスクロージャー・デイがやってきた!!
*
そんなお話かもしれませんね。
スリルとアクションは『メン・イン・ブラック』+『マトリックス』。
暴かれるべき真実は『美しい星』+『アバター』。
……そんな作品になるのでは、と考えています。
アタリかハズレかは責任を持てませんが。
なんだか、そんな予感がするのですよ。
というのは、とても魅力的なネタ小説が存在するからです。
『超生命ヴァイトン』(書籍出版は1943)
著者は英国のエリック・フランク・ラッセル氏。
活字本は手に入りにくいですが、たぶんe-bookで読めると思います。
これは、人間の眼に見えない赤外線の領域に、遥か昔からひっそりと宇宙人っぽい異生物が棲息していて、そいつらはテレパシー力で人類を操り、人間の感情を餌として捕食していた……という設定です。
これぞ「人類家畜テーマ」の決定版!
そして奇妙なことに、類似作品が現れていない、長年手つかずのネタであるように思えます。
『ディスクロージャー・デイ』は、『美しい星』に似た手法で語られる『超生命ヴァイトン』の21世紀版ではないでしょうか?
あ、あくまで私の個人的な感想ですよ。
*
『ジョーズ』以来、『未知との遭遇』『1941』『インディ・ジョーンズ四連作』『E.T.』『太陽の帝国』『ALWAYS』『フック』『ジュラシックパーク二連作』『シンドラーのリスト』『アミスタッド』『プライベート・ライアン』『A.I.』『マイノリティ・レポート』『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』『ターミナル』『宇宙戦争』『戦火の馬』……と、もう絶対必見の大傑作しかつくっておられないという、とんでもなく偉大なスピルバーグ監督様ですが……
やはり注目点は、「新作『ディスクロージャー・デイ』は、『未知との遭遇』を超えられるか?」ということですね。
『未知との遭遇』(1977)は、ずば抜けた大傑作です。
来年、『スター・ウォーズ』と並んで公開50周年を迎えることになりますが、実際、今、両作を見比べてみると、その感動は、『未知との遭遇』の方がずっと新鮮なんですね!
『スター・ウォーズ』(1977)がカビっぽく古びて見えるほどです。
この作品に備えられた、他の作品よりもずっと優れた永遠性、最新性。
それはなぜか。
要点として、三つ挙げられると思います。
① フランス人フランソワ・トリュフォー氏の起用。米国人はNGだ!
宇宙人と音階言語でコンタクトするラコーム氏、科学者チームのトップですね。
この役に、アメリカ人でなくフランス人を充てられたことは、作品成功の決定的要因だと思います。
この役がアメリカ人だったらどうなるか。
デビルズタワーのふもとの宇宙人着陸基地の周りには星条旗が林立し、その背後にはずらりと戦車が並び、上空にはF-35戦闘機とB-2爆撃機みたいな醜悪物体が編隊飛行して無意味な威容を誇示し、例えば2026年の某国某大統領みたいな強欲お爺さんが現れて両手を広げ「イエス・キリストとローマ教皇に成り代わり、全地球を代表して歓迎する、合衆国へようこそ!」なんてやらかして、何もかもブチ壊しですよね。
もう映す価値無し、良くても『マーズ・アタック!』の火星人歓迎式典になってしまいます。たちまち宇宙戦争になってしまった、アレですね。
このあたり、銃の普及率が120%とかいう、どこぞの野蛮な国と、常識的に銃規制している欧州文明国とのムードの違いでしょう。
トリュフォー氏の、黙って立てばそれだけで礼儀正しく厳かで上品な演技あればこそ、あの音響と光の宇宙人コンタクトシーンが、まっとうな地球人の愛する芸術性と重なり、限りなく美しく、理性的な出会いと別れを演出できたものと思います。
ラコーム博士は、絶対に米国人ではダメだったのですよ。
② 説明を徹底的に排除したストーリーテリング。奇蹟に説明はいらない。
作中に「このアベンジャー雷撃機は宇宙人が返してくれたのだ」とか「我々は科学の力で宇宙人との交信に成功した」とか「ついに彼等と、デビルズタワーにて邂逅する運びとなった」といった説明的なセリフは一切ありません。
全て映像で語られて「観ればわかる」作品に仕上がっていますね。
これはスピルバーグ作品に共通する特徴かもしれませんが、『未知との遭遇』では、特にずば抜けた魅力となっています。
「神の奇蹟に説明はいらない」ということですよ、たぶん。
なので、一度観ただけでは全てが明瞭に理解できるわけがなく、終わってみると「なんかわからんけど凄かったなあ……」と、それこそ「言葉にできなく」て、ポカーンとしてしまったのを、強く覚えています。
だから二度目、三度目を観たくなるわけでして、そのたびにDVDで「特別編」や「ファイナルカット版」が出てきて、見るたびに頭の中で作中の不可解な出来事がつながってきて、全体像に合点がいく……という、なかなか面白い体験もさせていただけました。
とにかく、言葉の説明を避けて視覚的にわからせる。
それが映画ですね!
この表現姿勢は、観客にとって「説明抜きで、体験あるのみ」という受け止め方ができるので、抜群の臨場感で「事件を目撃する」ことに集中できるんですね。
たとえば『ゴジラ-1.0』では、海神作戦の手順についてかなり丁寧な事前説明をクドクドと実施します。だからその後に作戦を実施した時、観客の私たちは「レクチャーで説明された手順通り」であることを確かめながら、画面を見るわけです。
これは、やはりスリルと驚きが減退するのですね。
「おおっ、この手があるのか!」と感動するカタルシスは、乏しい。
『ゴジラ-1.0』の演出の、いわば「物語の雑さを説明で補う」手法を感じてしまう部分です。
スピルバーグ監督なら説明抜きの映像だけで作戦の全体像とその手順を明瞭にわからせてくれるでしょう。だからこそスリルと驚きが倍加すると思うのです。
③ スマホの無い時代という幸運に恵まれた。
『未知との遭遇』が公開された1977年、もちろんスマホはありません。
これが良かった!
現在なら、宇宙人着陸の現場に居合わせた科学者もスタッフも野次馬も、みんながスマホを並べて掲げてUFOを撮影しますよね。
作中では男の子の母親ジリアンがオートフォーカスの簡単カメラでジーッ・パチッとやりますが、それだけで終わっています。
これが今なら、みんながハイルヒットラーに手を挙げて、その手にスマホがずらーッと掲げられて、画面が輝きまくるのですが、これまた興醒めですよね。第一、宇宙人に大変失礼です。
宇宙人とのコンタクトの“映える”スマホ撮影なんかより、とにかくこの貴重な一瞬をしっかりと脳裏のフィルムに焼き付けようとばかりに、ただ真剣に見つめる人々の姿こそ、第三種接近遭遇の現場に最もふさわしい光景だったのではないでしょうか。
宇宙人と地球人の一期一会の感動は、スマホの画面なんかに記録させちゃいけないんです。あんな安っぽい長方形に閉じ込めた映像からは、心ゆさぶる感動など、これっぼっちも伝わらないのですから。
これほどに優れた、世紀の一作と言っても良さそうな『未知との遭遇』。
『ディスクロージャー・デイ』は、それを超えることができるのか。
予告編を観ただけでは、かなり難しそうに思えますが……
どうなるか、楽しみですね!
【次章へ続きます】




