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412●『果てしなきスカーレット』(2025)④『ハムレット』は復讐の輪廻を見事に断ち切った。スカーレットはどうなのか?

412●『果てしなきスカーレット』(2025)④『ハムレット』は復讐の輪廻を見事に断ち切った。スカーレットはどうなのか?



◆なぜオフィーリアがいないんだ!


 ネットを拝見しますと、『果てしなきスカーレット』は映画館の来場者が思ったよりも伸び悩んでいるようです。

 とはいえ11月21日の公開時は「IMAXを含めて全国447館」(館数は諸説あり)という、もう絨毯爆撃な破格のビッグスケールに加えて、監督の過去作品が四本も、援護射撃とばかりに地上波放映されるなど、リア充の上にもリア充を極めた物量作戦な宣伝攻勢で上映がスタートした大盤振る舞いに対する“不入り”ですから、当初わずか6館(諸説あり)だった『時をかける少女』(2006)と比較して良し悪しを論じても、意味を為さないでしょう。


 お正月にかけて動員数は伸びると思いますが、制作者側が意図した数字には及ばないように思われます。ですからまだ「苦戦中」といったところでしょう。


 これを仮に、2025年の苦戦興行の“東の横綱”としましたら……


 “西の横綱”は……そう、沖縄のテーマパーク『ジャングリア』ですね!


 7月25日のグランドオープン以降、こちらも集客が芳しくなく、今のところ“苦戦”とされる評判が多いように見受けられます。

 細かい詮索はよしますが、“苦戦”の要因は、立地の不利、交通機関や宿泊施設の未整備、近隣の文化施設が少ないこと、など複合的に考えられるでしょう。

 しかし私個人の印象としては、「愛されるキャラクターの欠如」が最も大きいのではないかと思います。

 ほら、千葉県のあそこは世界一有名なネズミさんが統治されていて、シンデレラもラプンツェルも、アナ姫もおいでになりますし。

 大阪府のそれは、昔は逆さ吊りしたジョーズさんとお水ワールドくらいでしたが、その後、スパイダーマンや麦わら帽子の一味、ハリポタさんやドンキーなコングさんとか、入れ替わり立ち代わりで目白押しですよね。

 それら大人気の、愛すべきキャラクターがそれぞれの“物語”を伴ってテーマパークに集うことで、祝祭的にの魅力を盛り上げているんですね。

 そういった“愛されキャラ”がいなくなれば、集客はドバっと落ちるでしょう。

 あ、長崎のダッチなテーマパークでも、ここ数年、オランダゆかりのディック・ブルーナ氏が産み出したウサギさんが活躍しておられます。

 しかし『ジャングリア』にあるのはジャングルのみ。

 これが辛い。

 観覧車や絶叫マシンを導入しても、見える景色がニッポンのジャングルだけでは、“異世界感”に乏しくて、飽きられてしまうのでは。

 ここは、人々の愛情を集めるキャラクターが必須。

 ほら、あんなに前評判が悪かった万博でも、ミャクミャクさんが頑張ったら集客しちゃったじゃないですか。

 だから絶対に“客寄せパンダ”が必要です。

 そう! 提案します、来年から『ジャングリア』にこそパンダを呼ぶのです。

 「沖縄は中国の一部」とか、かの国も申しておられるではありませんか。

 そういうことなら、チョイと沖縄へと、パンダ様に百頭ほど団体で“長期国内観光旅行”していただければ……

 翌日から千客万来どっせ!

 すみません、冗談です。


 それはともかく。

 同様に『果てしなきスカーレット』も、「苦戦」の原因のひとつは、「重要なメインキャラの欠如」にあると考えられます。

 登場人物をチェックしましょう。

 ハムレットの代わりにスカーレット、まあ、これは支障ありません。

 男性キャラを女性キャラに差し替えるだけでも、物語が視覚的に華やぎますし。

 オッサンキャラが「生きるべきか死ぬべきか」と悩んでも、観客は「勝手にしな」と冷たく突き放すでしょう、大人なんだから自分で決めなさいと。

 しかしこれが可憐なスカーレット嬢なら観客の心情も「何とかしてあげなくちゃ」となりますよね。

 それはそれでいいんです。

 しかしもっと大切な、ベリーインポータントなキャラが抜けている!

 いわずと知れたオフィーリアですね。


 これだけは言えます。


 オフィーリア無くしてハムレット無し! ……と。


 ジョン・エヴァレット・ミレーのあの名画を代表格に、ドラクロワ、ロセッティ、ルドン、その他様々な19世紀以降の絵師様たちが名画を仕上げておられます。私が一番好きなのはアーサー・ヒューズのオフィーリア。幻想と色香が絶妙に溶け合い、妖精めいた美少女の命のはかなさが醸しだされています。


 命短し恋せよオフィーリア……ですね。


 原典『ハムレット』の作中には彼女の埋葬シーンもあり、悲嘆に満ちた「愛と死」を象徴する、滅びのキャラクターとして、物語の隠れたテーマを担っています。


 だからオフィーリアを描いた名画がぞろぞろと、残されているのです。

 絵になるから、ですね。

 それだけの魅力が、彼女にはあるのです!


 このオフィーリア様が、『果てしなきスカーレット』には出てこない!


 正直、オッサンだらけのオンパレードみたいです。


 これ、大問題です。

 原典『ハムレット』からオフィーリアを取ったら、残るのはオッサンとおばはんの毒殺合戦になってしまふではありまへんか!


 ええもちろん、オフィーリアの代わりが聖青年であることはわかります。

 あの名場面でオフィーリアに浴びせられる「尼寺へ行け!」という名セリフが、スカーレットから聖君に「なら寺へ行け」と発せられているというのですから。


 しかしヒジリ君は監督の化身(私の個人的推測です)。なにもオフィーリアの代打にシャシャリ出なくても、特別枠で出演すればいいはずです。スカーレットの復讐に関してはほとんど傍観者であり、“死者の国”の観察者としての役割でしょうから。


 ですからオフィーリア嬢を登場させるべし! 

 スカーレットの妹みたいな仲良しキャラとしてふるまい、もちろん劇中で亡くなりますので、“死者の国”でスカ―レットに合流すればいいのです。

 可愛くて利発で狡猾で、ちょっと妖艶でもある謎めいた美少女キャラとして。

 チラチラと肌見せでヒジリ君の煩悩を乱しながら、スカーレットとは“ちょい百合”のシットリ関係を見せつけたり。

 そして復讐劇の隠された真相を知る、陰謀の黒幕として暗躍すればいいのですよ。


 だって原典『ハムレット』では、ハムレットに父親を殺されているんですから。

 シェイクスピア先生のシナリオ通りに死ぬのをやめて、しぶとく生き延びていたら、ハムレット君に「父の仇!」と毒饅頭、いや毒林檎を食わせるくらい、するでしょう。

 そんな、“魔性の美少女”キャラはぜひとも欲しかったところです。


 虫も殺さぬ可憐な表情で、平然と毒を盛りナイフを突き刺し二刀流の免許皆伝で二丁拳銃を操る、鞍馬天狗もビックリ仰天の“復讐の鬼”として。

 そんな復讐鬼が旅に同伴してこそ、スカーレットの悩みと迷いが際立つのでは……と思うのですが。


 そして、そんなオフィーリアだからこそ、ラストシーンで物語の隠されたテーマを観客に向けて語らせる役柄にぴったりなのです。

 「生きるべきか死ぬべきか」の当事者であるスカーレットと聖君に直接に回答を喋らせたら、くどいわ説教臭いわで、いささか興ざめですね。

 スカーレットと聖君は黙って行動で示す。

 オフィーリアが、二人の行動の真意を(観客に向けて)説明する。

 シェイクスピアなど古典劇に登場する道化ピエロの役割も、オフィーリアはこなしてくれたはずなのです。


 ともあれ、「オフィーリアの不在」は、コーヒーの無いクリープ、カレーの無い福神漬け、刺身の無い大根のツマ、赤身の無い純白のロース肉、ついでに肉無しのチンジャオロースみたいなもの。

 これだけは観客として納得できない点であり、無条件で映画館へ足を運ぶには、今一つ、ためらいが生まれる原因なのです。


       *



◆『ハムレット』はそもそも、仇同士が双方を“赦し合う”結末だった。


 細田守監督は、“KADOKAWA文芸WEBマガジン カドブン”(2025.11.23)で、『ハムレット』を『果てしなきスカーレット』の作品モチーフにした経緯いきさつについて、このように述べておられます。


「それぞれに正義があって、復讐を果たした後にはまた次の復讐劇が始まるという、報復の連鎖は、やはり悲劇なのではないかと感じます。どこかでそのループから抜け出さないといけないけれど、簡単に抜けだせるほど甘いものじゃない。では、どうすれば良いのか、という想いが今作には色濃く反映されていると思います。」


 つまり、原典の『ハムレット』は、ハムレットたちの“報復の連鎖”があり、“復讐劇のループ”に陥っている。簡単には抜け出せない。


 “では、どうすれば良いのか”? 


 それが問題だ、ということになります。

 そこで、この問題に対する回答として、監督は『果てしなきスカーレット』を創作し、世に問われたのだ。……と解されます。


 しかし原典の『ハムレット』は初演から四百年の風雪に耐えて生き残ってきた、火の鳥みたいに不死身の世界名作です。

 ハムレットは“報復の連鎖”と“復讐劇のループ”に対して、観客が納得し合点がてんのいく解決方法を提示できていないのでしょうか?


 いや、そんなことはないはずですね。


 原典『ハムレット』は、“報復の連鎖”と“復讐劇のループ”に対して、何らかの回答を示しているはずです。

 では、いかに答えているのか。

 ストーリーの要点をおさらいしてみましょう。

 ただしあくまで素人である私個人の主観的な感想と要約です。学説や論文を参照したものではございませんので、その点ご勘弁を。


       *


 物語の前半。

 ハムレットは世を去った父王の亡霊に邂逅かいこうし、じつは父王自身はその弟のクローディアスによって毒殺された……と告げられます。

「そなたに人の情があるならば、彼を赦すな」と亡霊はハムレットに命じます。


 ハムレットは復讐を決意しますが、その殺意をクローディアスに悟られてはなりません。突然に剣戟けんげきの特訓を始めたり筋トレに励んだりしたら、当然、怪しまれてしまいますよね。

 そこで、父王を失った悲しみのあまり気がふれて、奇行に走るようになったと思わせます。要するに「おかしくなられた」わけですね。

 脳天パープリンでパッパラパーになったふりをするのです。


 そしてハムレットは、クローディアスが罪の意識にさいなまれて、一人きりで贖罪の祈りをささげる場面に遭遇します。

 絶好のチャーンス!

 ここで懐剣を一刺しグサリで、復讐ミッション成就コンプリートする!

 しかしハムレット、逡巡します。

 これはまだ、父の亡霊にそそのかされた暗殺行為、なので「雇われ仕事だ、(自分の)復讐ではない」と自らに反駁はんばくして、その場を去るのです。

 さすがハムレット、理知的です。

 クローディアスが本当に父の死の真犯人であることを、まずは客観的に確かめることを優先したのですね。

 その方法が、たったひとつの冴えたやりかた。

 城を訪れた旅芸人の一座に依頼して、父王の暗殺シーンを、クローディアスの前で演じさせたのです。

 いわば犯行の“再現ビデオ”を見せられたクローディアス、明らかに血圧超過で脈拍倍増、興奮し狼狽して演劇を中止させます。

 ハムレットはクローディアスが実行犯であると確信します。しかし……


 この件に激怒し、そしてハムレットが自分を父王のかたきとして狙っていることを察したクローディアスは、ハムレット抹殺に方針転換するのですね。

 生かしておくのはやめ、とにかく殺しちまえってことです。

 彼はハムレットにイングランドへの出張を命じます。

 そして異国に到着次第、ハムレットを現地で暗殺する手はずを整えます。

 ハムレットは運よく、そのことを事前に察知します。


 そうです、ここでハムレットの“復讐劇”は内容がガラッと変質するのです。

 無念の死を遂げた父王のために報復する……どころではなくなったのですね。

 クローディアスはもう、何が何でもハムレットを亡き者にするつもりだ。

 復讐の是非どころではない、何が何でも先にクローディアスを殺さなくては、ハムレットは殺されてしまう!


 殺されたくなければ、殺すしかない……という、復讐よりは、もはや戦争、仇討ちよりも自身のサバイバルのために、ハムレットはクローディアスを殺害せねばならなくなったのです。


 “復讐劇”から、“絶体絶命のサバイバルバトル”へと、物語はたちまち変貌したのでした。

 

 殺らなければ殺られる、仁義なき状況シチュエーションです。

 「復讐は愚かだ、輪廻を断とう」なんて寝言をほざいている場合じゃありません。

 もう血みどろの激戦しか残されていませんね。

 そうです、たぶん『果てしなきスカーレット』の“死者の国”がそうでしょう。

 そして私たちの現実の社会もある意味、そうでしょう。

 細田監督が直面しておられる、アニメ業界のカオスも、そうではありませんか?


 しかしそこで、ハムレットは大ドジを踏んでしまいます。

 カーテンの陰に隠れていた人物を、宿敵クローディアスと間違えてグサリと殺ってしまいました。

 人違いで昇天させられてしまったのはポローニアス。

 クローディアスの腹心の閣僚(顧問官)だったのです。

 しかも彼は、ハムレットを渾身から愛する美少女オフィーリアの父親でした。

 それ以前に脳天パープリンでパッパラパーのふりしていたハムレットから「尼寺へ行け!」とケチョンケチョンになじられたうえ(これ、じつは好意を寄せる男の子のイジワルにしか見えない)、父を(ハムレットに)惨殺されたオフィーリアは、精神に異常をきたしてしまいます。

 「♪死に装束は雪の白、泣いてお墓にお参りしない……」と、ほうけて歌い踊るオフィーリアに、周囲はドン引きとなります。

 哀れオフィーリア、狂い死にモードに突入です。

 ハムレット以上に脳天パープリンのパッパラパーな症状で川辺をさまよった彼女は、ついに入水死を遂げてしまいます。


 これは全面的にハムレットが悪い。

 身から出た錆とはこのことですね。

 ハムレットの復讐計画が稚拙で、出たとこ勝負だったのがいけないのです。


 暗殺のメインターゲットであるクローディアスは無傷でピンピンしているのに、ハムレットはポローニアスを誤認殺人、しかも愛らしいオフィーリアまで死に追い込んでしまいました。

 何やってんだハムレット!

 この展開の皮肉さは、さすがシェイクスピアですね!


 そしてオフィーリアには、仲の良い兄上がいました。

 外遊先のフランスから飛んで帰ってきたその男レアティーズは、ハムレットへの復讐を決意します。

 父ポローニアスを殺し、可愛い妹オフィーリアを狂い死にさせた、憎っくきかたき、ハムレット! お前には必ず死んでもらうぞ! と。


 つまりここで“第二の復讐劇”が幕を開けるのです。

 

 レアティーズはハムレットに、フェンシングの試合を申し入れます。

 これは決闘ではなく娯楽、クローディアス王の前で戦う御前試合であり、賭け事の対象であると。まあ公営ギャンブルですね。

 しかしレアティーズの剣の切っ先には猛毒が塗布してありました。

 (これが公営ギャンブルなら、八百長の極みですが)

 激しい剣戟けんげき、レアティーズは本気でハムレットを殺しにかかります。

 一方クローディアス王は、意図に反してハムレットが勝った場合に備えて、彼に飲ませる勝利の祝杯に毒を仕込んでおりました。

 首尾よくハムレットに猛毒の切っ先で傷を負わせたレアティーズ、しかしドタバタの挙句、いつの間にか二人の剣が入れ替わってしまい、レアティーズも猛毒の傷を受けてしまいます。

 直後、ハムレットは毒剣でクローディアスをグサリ。

 その直前、王妃ガートルード(ハムレットの母)も何か間違ってか、覚悟の上か、そこは不明確ですが、毒杯をあおっておりました。


 文庫版ハムレットのわずか三ページ分で、主要キャラことごとく全滅。

 これで本編は一巻の終わりとなるのですが……


 ここでレアティーズ、絶命する最後の言葉で、告げるのです。


   「気高いハムレットよ、互いに赦し合おう。

    私や父の死は、君の責任にならぬように。

    そして君の死が、私の責任にならぬように」


       *


 すげーぞ、シェイクスピア!

 『ハムレット』は単なる復讐譚ではなく、復讐が復讐を呼ぶ輪廻の果てに、互いを「赦す」ことで負のループを断ち切り、人のタマシイを救済する物語だったのです。


 ただし、二人が互いを赦し合うには、戦慄すべき残酷な条件が付されていました。

 二人とも、「数分以内に自分が死ぬ」と自覚した場面だったからです。


 死の直前に至ったからこそ、心底から憎き敵を赦す事ができた。


 そう解釈できると思います。

 といいますのは、亡くなったオフィーリアが埋葬される場面で、墓堀人と会話するハムレットが、こんなことを語っているからですね。

「アレクサンダー大王の遺骸も、(土に還って)酒樽の栓になるやも。(中略)ジュリアス・シーザーも死んだら土になる」

 どれほど偉大な人物も、死んだら土にかえっていく。

 土に還る前は、ただの髑髏されこうべだ。

 強者であれ弱者であれ、貴賤の区別なく、死ねば誰もが等しく、ひとつかみの骨屑でしかなくなる。


 そう考えれば、復讐と報復の連鎖も、死神を前にしたら、何の意味もなくなる。

 人が死の直前にできるのは「赦す」ことだけだ……と。


 このあたりが、原典『ハムレット』の重要なテーマの一つではないかと思います。

 原典『ハムレット』は、キッチリと語りました。


 死を前にすることで、人は「赦せる」のだと。


 ただしこの真実を逆読みするならば……

 「人は死ななきゃ赦せない」

 と解することもできます。


   “人間の渾身の憎しみと復讐心は、死ぬまで消え去ることは無い。

       しかし死の直前ならば、赦す事ができるだろう。”


 これが、『ハムレット』のラストシーンが残す貴重なメッセージだと思います。


       *



◆では『果てしなきスカーレット』の結末は何を語るのか?


 前掲の“細田監督コメント”に戻りましょう。

 『ハムレット』を『果てしなきスカーレット』のモチーフにした経緯いきさつを、こう述べておられましたね。


「それぞれに正義があって、復讐を果たした後にはまた次の復讐劇が始まるという、報復の連鎖は、やはり悲劇なのではないかと感じます。どこかでそのループから抜け出さないといけないけれど、簡単に抜けだせるほど甘いものじゃない。では、どうすれば良いのか、という想いが今作には色濃く反映されていると思います。」  

  (KADOKAWA文芸WEBマガジン カドブン 2025年11月23日より)


      *


 先にご説明しましたように、監督のコメントに対して、原典の『ハムレット』は、このように明瞭な解答を残していますね。


  ““自己の死を自覚したとき、初めて人は他者を心から赦せるのだ””


 これでハムレットとレアティーズは、“第二の復讐”の輪廻を断ち切りました。

 これ、わたし的には物凄く納得できるシェイクスピアの名解答だと思います。


 さて『果てしなきスカーレット』は、そのラストシーンで、いかなる回答を明示してくれるのでしょうか?


 私は無責任にも、まだ映画館で観ていませんので、今は勝手に想像するしかありません。


 しかし細田監督は原典『ハムレット』の、1947(1948公開)年版と1996年版の映画は絶対にご覧になっておられるはず。文庫の『新訳ハムレット 増補改訂版』も、じっくりと分析しておられることでしょう。


 ならば原典『ハムレット』の結末を乗り越える、超越的な結論が、『果てしなきスカーレット』に語られているはずです。

 それがどのように演出されているのか、期待を込めて、ノベライズ本などを読み解かせていただこうと思います。



   【次章へ続きます】



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