第9章:過去を昇華させ、自分の足で立つ
公園のベンチで流した涙の跡が、朝になってもまぶたの縁に残っている気がした。
日曜の朝、葵はいつもより早く目を覚ました。カーテンの隙間から、薄い冬の光が差し込んでいる。ベッドの中で、天井を見つめながら、昨日の言葉を一つずつ、頭の中でなぞった。
「誰にでもいい顔をして、その場の空気を壊さないように笑顔で取り繕うのって、優しさだけじゃなくて、自分を守るための逃げでもあるんじゃないかな」
昨日の拓海の声を思い出し、葵は布団の端を握った。
布団を抜け出して、ローテーブルの前に座った。ノートを開く。木曜の夜に破り捨てた、あの比べるだけの箇条書きではなく、白いページの一番上に、今度は、こう書いた。
——本当は、どうしたい?
ペンが止まる。長いこと、止まっていた。時計の秒針が、一周、二周した。
書き始めたのは、いちばん小さなことからだった。
・笑いたくないときは、笑わなくていい人でいたい
・怒ったときは、怒っていいと思いたい
・好きな色を、好きだって、会社で言いたい
次の行で、ペンが震えた。けれど、書いた。
・子どもが欲しい
・それを、重いって思われるのが怖い。でも、本当は欲しい
・昼間の道を、堂々と手をつないで歩きたい
・「待たされる人」じゃなくて、「選ぶ人」になりたい
最後の一行を書き終えたとき、息をするのを忘れていたことに気づいた。深く吸って、ゆっくり吐く。紙の上に並んだ文字は、小学生の字みたいに、まっすぐで、飾り気がなかった。
——誰かに選ばれたいと、ずっと思っていた。選ばれなければ、価値がないのだと。
でも、そうじゃなかった。欲しかったのは、「選ばれる」ことではなくて、自分で選んだ誰かと、同じ方向を向いて歩くことだった。
七年の恋を思い返す。あの人の「いつか」を信じ、自分の時間を預けたこと。それは、愚かだったのだろうか。——愚かだったと、昔の葵なら思った。そして、自分のせいだと責めた。
けれど今は、違った。あの頃の自分は、あの頃の自分なりに、必死だった。人を好きになる力が、確かにあったのだ。ただ、その力の使い方を、誰にも教わらなかっただけで。そして、自分を守るために、「待つ」ことと「大丈夫」と言うことだけを、覚えてしまった。
——もう、逃げない。
立ち上がって、台所へ行った。水切りかごの隣に、白と青のマグカップが二つ、並べてあった。ひとつは、真由美に言われてから使い始めたもの。もうひとつは、まだ食器棚の奥にしまってあったのを、昨夜遅くに取り出して、洗っておいたものだった。
二つ並べて眺める。二人分のつもりで買ったものだった。けれど、色を選んだのも、レジに持っていったのも、自分だった。
「……そうだったんだよね」
声に出して、うなずいた。誰も、あの人の持ち物ではなかった。この二つとも、私のものだった。
紅茶を淹れて、片方のカップで、ゆっくり飲んだ。もう片方は、テーブルの向かいに置いたまま、湯気の立たない白を、しばらく眺めていた。
喉の奥に、熱いものが溜まっていった。
「……七年、返してよ」
声に出してみると、思っていたより小さかった。息を吸い直す。拓海に教わったとおり、お腹の底に石を置いて、そこから投げる。
「待たせたのは、あんたでしょ。『いつか』って言ったのは、あんたでしょ。私の三十歳の誕生日に、ロウソクのないケーキを食べさせたのは、あんただよ」
向かいのマグカップは、何も言わない。それでも、止まらなかった。
「クリスマスに『愛してる』の一行だけ送ってきて。領収書を私に捨てさせて。最後は、あんなに静かに終わらせて、ほっとした顔して」
最後のほうは、ほとんど怒鳴り声になっていた。
「ふざけんな。ふざけんなよ」
息が切れた。手が、白いカップに伸びかけて、止まった。投げたら割れる。割れたら、また自分が片づけるだけだ。そう思った途端、真由美の「物を投げてもいい」を思い出して、可笑しくなった。
「ごめん、投げないよ」
宙に向かってそう言って、カップを両手で包んだ。冷めた陶器が、掌にちょうど収まった。
怒ったあとの部屋は、静かだった。けれどその静けさは、金曜の夜のそれとは、違う種類のものだった。
午後は、ひとりで街へ出た。理由は、なかった。ただ、家にいると、昨日の言葉を何度も反芻してしまいそうだったから。
百貨店のストール売り場で、何気なく足を止めた。棚には、色とりどりのストールが畳まれている。手が伸びたのは、いつものようにベージュだった。無難で、どんな服にも合う、あの色。
「そちら、人気ですよ」
店員さんが、にこやかに声をかけてきた。
「はい……」
ベージュを手に取って、鏡の前で首元に当てる。似合わなくは、ない。誰も何も言わない色だ。ふと、その隣の棚の、一番端に目が止まった。
深い藍色のストールだった。光沢のない、粗めの織り。夕暮れ前の空の端の色。
気がつくと、ベージュを棚に戻して、藍を手に取っていた。首に巻いてみる。鏡の中の自分は、いつもより、顔が引き締まって見えた。
「お客様、とてもお似合いです。お顔が明るく見えますよ」
「そうですか」
「ええ。この色、実は肌がきれいに見えるんです」
そんな知識は、仕事柄とっくに知っているのに、葵は嬉しくなってしまった。
「これ、ください」
その言葉は、驚くほどあっさりと口から出た。お金を払うのと、勇気を払うのは、違う種類の動作だったと思う。袋を受け取ったとき、掌に、小さな重みが残った。自分で選んだものの、重みだった。
帰りの電車で、二か月前に撮ったままのスクリーンショットを開いた。婦人科クリニックの予約画面は、拍子抜けするほど簡単だった。再来週の土曜の午前。名前を打ち込んで、送信を押す。誰かに選ばれるのを待つ前に、自分の体のことくらい、自分で知っておきたかった。
*
その夜、葵は、真由美に電話をかけた。
呼び出し音が、三回で途切れた。
「もしもし、葵? どうしたの、日曜の夜に。珍しい」
「うん、あのね」
喉が、渇いた。
「ちょっと、聞いてほしいことがあって。長くなるかもしれないんだけど」
「いいよ、全部聞く。洗い物終わったから、ソファに座ったとこ」
そこから先は、自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出てきた。ここ一週間のこと。打ち上げのあと、同僚に告白されたこと。拓海に、そのことを正直に打ち明けたこと。彼に言われたことと、彼自身の話。泣いたこと。——一度も途中で笑いを挟まなかった。
聞き終えると、真由美は、しばらく黙っていた。
「……すごいじゃん」
「え?」
「葵が、自分から、全部しゃべった。しかも、ちゃんと自分の言葉で」
「すごくないよ。拓海くんに、泣かされて」
「ふふ。拓海くん、って呼んでるんだ」
「あっ」
「いいんだよ、いいんだよ。ていうか、モテ期じゃん」
真由美が、からかうように言って、それから、声を落とした。
「同僚の人のことは、どう思ってるの。正直に」
「……嬉しかった。本当に。私のこと、見てくれてたんだって。でも、……気持ちが、それ以上、動かなかった。嬉しいのと、好きなのは、違うんだって、初めて分かった」
「うん」
「前の私なら、嬉しいだけで、頷いてたと思う」
「そうだね」
真由美の声には、誇らしさがにじんでいた。
「それとさ」
葵は、続けた。
「七年のこと、ずっと私のせいだと思ってたの。逃げてたから、流されたから、って」
「うん」
「今も、その部分は、ゼロじゃないと思う。待つことを選んだのは、私だし」
「それは、違うよ」
真由美の声が、きっぱりとした。
「待ったのは、あんたが弱かったからじゃない。信じたかったからでしょ。信じたかった人に、嘘をつかれた。それは、嘘をついたほうの問題。あんたの責任は、そのうえで、『次はどうするか』のほうだけ」
「次は、どうするか」
「そう。待つのをやめて、選ぶ。それができれば、あの七年は、無駄にはならないよ。私は、そう思う」
受話器の向こうで、真由美が、ずず、と鼻をすすった。
「ちょっと、泣いてるの?」
「泣いてない」
「泣いてるでしょ」
「泣いてない! 風邪! 季節柄!」
二人で、笑った。涙の混じった笑い声だった。
「あとね」
「うん」
「今朝、怒鳴ったの。あの人に。……本人はいないから、マグカップに向かってだけど」
「物は?」
「投げてない」
「惜しい」
「惜しくない」
また二人で笑ったあと、真由美が息を吐いた。
「でも、よかった。やっと言えたんだ、あんた」
「葵」
「うん」
「選ぶのは、あんただよ。どっちを選んでも、どっちも選ばなくても、私は味方だから」
「ありがとう。……もう決めてるの。ほとんど」
「そっか」
真由美は、それ以上は聞かなかった。
「ねえ、真由美」
「ん」
「あのとき、ゼミで私と友だちになってくれて、ありがとう」
「何、急に」
「言いたくなったの。今日の文句は、ないから、かわりに」
電話の向こうで、真由美が、小さく笑った。
「それ、文句の練習じゃなくて、ただのお礼だよ」
「うん。お礼」
「受け取っとく」
*
月曜の朝、葵は社内メッセンジャーで、高梨さんに連絡を入れた。
〈お時間のある時に、お話しさせてください〉
返信は、すぐに来た。
〈今日の十時、十分なら空けられます。談話スペースで〉
指定された時刻の五分前、葵は先に談話スペースの席についた。社内の隅にある、小さなカフェコーナー。窓際の席からは、中庭の銀杏が見える。ここでも、葉の半分は、もう落ちていた。
紙コップのカフェオレを両手で包む。練習した言葉がいくつも浮かんだが、葵は一度、唇を結び、顔を上げた。
「お待たせしました」
高梨さんは、正確に十時に現れた。向かいの席に座ると、緊張した面持ちで、背筋を伸ばした。
葵は、深く息を吸った。
「あのときの告白、すごく嬉しかった。私のこれまでの仕事ぶりや、隠そうとしていた部分まで見ていてくれたこと、本当に感謝してます」
目を逸らさず、まっすぐに、彼の目を見て言った。
「でも、気持ちには応えられません。高梨さんと一緒に仕事をする時間は大切です。それと恋愛の返事を、曖昧に混ぜたくないんです。ごめんなさい」
言い終えてから、手が小さく震えているのに気づいた。紙コップの中のカフェオレが、細かく波打っている。
高梨さんは、しばらく、窓の外の銀杏に目をやっていた。それから、切なそうに微笑んだ。
「そっか……フラれちゃったか」
「ごめんなさい」
「いや、謝らないでください。目を見て答えてくれて、嬉しかった。ありがとう、葵さん」
彼は頭を下げた。顔を上げたとき、目の縁がわずかに赤かった。葵は視線をそらさず、もう一度、小さく頭を下げた。
「正直、分かってたんです」
紙コップを回しながら、高梨さんが言った。
「葵さんが、最近、変わったなって。誰かと会ってるんだろうなって。……いい顔をしてたから」
「え」
「前は、笑ってても、どこか疲れてたでしょう。最近は、疲れてるときは、疲れてるって顔をしてる。それが、なんか、よかった」
「高梨さん」
「だから、悔しいけど、フラれる覚悟はしてました。それでも言いたかったんです。言わないで後悔するより、言って振られるほうが、まだ俺らしいから」
葵は紙コップを両手で持ち直した。口を開きかけたが、言い訳を足すのはやめた。
「ひとつだけ、お願いがあって」
葵は、顔を上げた。
「なんでしょう」
「あの、藍のお皿。ラインナップに入れたいんです。第二弾じゃなくて、『ひだまり』の五色目として」
高梨さんの目が、見開かれた。
「主担当として、私がやります。『攻めすぎ』と言って外したのは、私が怖かったからです。でも、あの色を好きだという気持ちは変わりません。数字が出なかったら結果を検証して、次の企画に生かします。それでも一度、お客さんに見てもらいたいんです」
一息に言い切ったあと、葵の頬が熱くなった。
しばらく、高梨さんは言葉を失っていた。それから、今度は、心の底から嬉しそうに、笑った。
「それは、嬉しいです。振られたのに、一番うれしい報告を受けた気分です」
「ごめんなさい、変な言い方で」
「いえ。……工房の親方にも、もう言ってあります。焼き直しの準備は、できてる」
「え?」
「あの日、葵さんが焼き直したいって言い出したときから、親方、楽しそうにしてましたよ。『あの子、やっと言いよったな』って」
二人で、顔を見合わせて、笑った。
「仕事は、今までどおりで。これからも、よろしくお願いします」
「はい。……こちらこそ、よろしくお願いします」
差し出された手を、葵は握った。大きくて、乾いた、仕事人の手だった。握手を終えると、高梨さんは、すっと立ち上がった。
「じゃあ仕事に戻ります。藍の五色目、試焼きの結果が揃ったら量産日程を引き直しましょう」
去っていく背中は、背筋が伸びていて、どこか清々しく見えた。
葵は握手した右手を、しばらく見つめていた。指先にまだ、高梨さんの手の温かさが残っていた。
*
談話スペースに一人残った葵は、紙コップを持ったまま、しばらく動けなかった。窓の外では、銀杏の最後の一枚が、枝から離れて、ひらひらと中庭に落ちていく。
デスクに戻ると、みなみが心配そうな顔で近寄ってきた。
「葵さん、顔、赤いですよ。熱ありますか?」
「ううん、大丈夫。……ううん、大丈夫じゃないかも。ちょっと、すっきりしすぎて」
「え?」
「あとで話す。今日、ランチ、一緒に行こう。私、おごる」
みなみは、目をぱちくりさせてから、「やった!」と笑った。
昼休み、約束どおり、みなみを連れて会社の近くの定食屋に行った。焼き魚定食を前にして、葵は、箸を置いたまま切り出した。
「みなみちゃん、前に私に、悩みとかなさそうって言ったでしょ」
「え? はい、言いました」
「あれね、全然違うの。ありすぎて困ってた。アプリも、最初の一か月でボロボロになったし。ヨーグルトの話とかも、ごまかしてただけで、本当はずっと」
みなみは、箸を持ったまま固まった。それから、ぱっと顔を赤くした。
「……私、実は、葵さんが完璧すぎて、ちょっと怖かったんです」
「怖い?」
「だって、ミスしても怒られないし、いつも助けてくれるし、でも私、全然お返しできなくて。相談もできない感じがして。葵さんは、私なんか必要としてないんだろうなって」
今度は、葵が箸を落としそうになった。
「そんなこと、ないよ」
「だから、今日、すごく嬉しいです。弱いところ、見せてもらえて」
みなみの目が、じんわりと潤んだ。葵も、鼻の奥が熱くなった。
「私、周りに頼るの、下手なんだ」
「私、頼られるの、待ってましたよ」
二人で、顔を見合わせて、笑った。味噌汁が冷めかけていたけれど、不思議と、いつもよりずっとおいしかった。
午後の企画会議で、葵は初めて、自分から議題を出した。
「先に言っておきます。この色を一度外したのは、売れなかったときに私の好みが否定されるのが怖かったからです。今日は、その怖さを抜きにして提案させてください。『ひだまり』の五色目として、藍を追加したいと考えています」
会議室のスクリーンに、藍色の小皿の写真を映す。部長、営業課長、開発課の高梨さん、みなみ。八人ほどが、黙って画面を見つめた。
「藍、ですか」
営業課長が、腕を組んだ。
「『ひだまり』のコンセプトは、陽だまりのやわらかさでしょう。この色は、……ちょっと重くないですか。それに、店頭で他の四色と並べたとき、浮くんじゃないかと」
葵は机の下で資料の角を押さえた。指先に力が入り、紙がわずかに折れ曲がった。
「重い、というご意見は、その通りだと思います」
葵は机上の五枚の皿に目をやった。
「でも、陽だまりは、光があるから、影があるんです。やわらかい四色の隣に、夕暮れ前の青がひとつあると、他の色が、もっとあたたかく見えます。実際に、並べてみてもいいですか」
葵は、会議室のテーブルの上に、ダンボールから出した実物の皿を並べた。卵色、生成り、薄いグレー、若草色。その真ん中に、藍の一枚をそっと置く。
一瞬、誰も何も言わなかった。窓から入る冬の光が、五枚の皿の釉薬に、それぞれ違う艶を与えている。藍の皿だけが、周りの色を引き立てるように、静かに沈んでいた。
「……確かに、並べると、全然違うな」
営業課長が、ぽつりと言った。
「単体で見るより、ずっといい。この藍が、全体を締めてる」
若手の営業担当が、遠慮がちに手を挙げた。
「藍って、食卓に載ると暗くなりませんか。唐揚げとか、茶色い料理だと、沈む気がして」
「沈みます」
葵は、即答した。会議室が、一瞬ざわついた。
「だから、白いごはんや、卵焼きを載せてほしいんです。黄色や白が、藍の上だと、きれいに浮きます。実際に食べてみて、確かめました」
「食べてみたんですか」
「羊羹ですけど」
そのとき、会議室の隅から、低い声が上がった。
「試焼きの一枚は綺麗です。ただ、量産の窯だと位置によって発色が揺れます」
高梨さんだった。
高梨さんが試焼きの比較写真を映した。同じ藍でも、縁が黒く沈んだ皿と、明るく抜けた皿がある。「初回の量産で二百枚焼いても、全部を同じ品質として売れるとは限りません。合格とする濃淡の範囲を、先に決めておく必要があります」
葵は二枚の写真を見比べた。好きな色だからといって、違いを見ないことにはできない。
「まず三十枚を追加で試焼きし、工房と一緒に色の許容範囲と合格率を確かめます。その結果を見て、初回の量産は最大二百枚に抑えます。規格外は販売しません。直営店の一店舗で先行販売し、返品やお客さまの声も集めます。続けるかどうかは、その数字を見て判断したいです」
葵は、続けた。
「売れなければ私が結果を報告します。だからこそ、条件を明確にしたうえで、この色を出したいんです」
部長が、頷いた。
「分かった。まずは試焼きと検品基準だ。営業の承認はその結果を見て決める。販売開始日も、無理に合わせるな」
拍手は起こらなかった。みなみが頷き、高梨さんは試作表に赤い線を引いた。葵は机の下で固く握っていた指を開いた。
会議のあと、営業課長が、資料を片づけながら声をかけてきた。
「葵さん」
「はい」
「正直、最初は反対だった。藍は、売りにくい色だから」
「はい……」
「でも、あの皿を並べられたら、反対できなかった。営業は数字で動くけど、最後は、売り場で『いいな』と思えるかどうかだ。あの皿は、いいなと思えた」
「ありがとうございます」
「ただし、試焼きの歩留まりと価格、直営店の陳列案がそろうまでは販売承認できない。そこは分かってるね」
「はい。検品と売り場の案を、私がまとめます」
葵は資料を抱え直し、課長に頭を下げた。
課長は片手を上げて、会議室を出ていった。
廊下に出た葵は壁にもたれ、深く息を吐いた。膝がわずかに震えていた。
——言えた。
すぐにみなみにメッセージを送った。〈試焼きの結果と販売計画、今日一緒に確認してもらえる?〉。ほどなく〈もちろんです〉と返ってきた。
退社間際、高梨さんが、資料を持って席の脇に立った。
「追加試焼き三十枚の手配案です。色の合格率を確認してから、初回は最大二百枚を量産します。ほかの四色は、それぞれ五百枚の予定です」
「藍だけ、ずいぶん少ないですね」
「ええ。二百枚焼いても、検品を通るのはその一部かもしれません。販売できる枚数は、焼き上がってから確定します。日程も一週間、余裕を見てください」
「型と箱は既存のものを使えます。でも藍だけは一枚ずつ検品します。帯の説明文も、濃淡の違いが伝わるように書き直したいです」
「売れ残った場合は?」
「売上と製造コスト、在庫の状況を企画で報告します。高梨さんには、検品基準を一緒に詰めてもらえますか」
「え」
「もちろん。同じ窯で、一緒に焼くんですから」
葵は資料の数字に赤鉛筆で丸をつけた。売れるかどうかはまだ分からない。それでも、次にする仕事ははっきりしていた。
「……ありがとうございます」
「仕事ですから」
高梨さんは、いつもの調子で背を向けた。去り際の肩が、昼間より軽く見えた。
定時を過ぎて、人気の減ったフロアで、葵は一人、スマートフォンを取り出した。
画面に、一つのメッセージを入力する。何度も書いては消し、また書いた。
——「今度の日曜日、お茶できますか? 私のちゃんと出した答えを、聞いてほしいの」
送信ボタンを押す直前に、指を止める。深呼吸をして、もう一度、文面を読み返した。「答えを聞いてほしい」。聞いてもらうだけではなく、言いたいのだ。自分の口で。
送信。
画面に、既読の文字がつくのを、葵は息を止めて見つめていた。数秒もしないうちに、返信が届いた。
〈もちろん。待ってた〉
続けて、もう一通。
〈ちなみに、返事を打つまで、三秒もかからなかった〉
思わず、吹き出した。誰もいないフロアに、自分の笑い声が、ぽんと跳ねた。
それから日曜までの数日間、拓海は、約束の話には一切触れなかった。ただ、毎朝〈おはよう〉が届き、毎晩〈おやすみ〉が届いた。水曜の夜には、写真が一枚。押し葉にしたらしい銀杏の葉が、コーヒーのコースターの上に、ちょこんと載っていた。〈うまく乾かなかった。ちょっとしわしわ〉。〈かわいいよ〉と返すと、〈葉っぱが?〉と返ってきた。〈葉っぱも〉と打って、顔が熱くなった。
木曜日、葵は、ひとりで工房を訪ねた。五色目の試焼きに立ち会うためだった。
窯の扉が開けられたとき、熱気が、顔を打った。親方が、長い火ばさみで、焼き上がった皿を一枚ずつ取り出して、台に並べる。藍色の皿が、窯の余熱をまとったまま、赤みがかった光を放っていた。
「どうや。前に焼いたのと、ちょっと違うやろ」
親方が、にやりと笑った。
並べて見比べると、確かに、縁の溜まりの濃さも、底の斑点の散り方も、一枚ごとに違った。試作の一枚が持っていた、あの星屑のような細かい光は、どの皿にも、まったく同じ形では現れていない。
「あっ、……全部、違う」
「そうや。同じ色は、二度と出ん。窯の中の火の回り方で、毎回、変わる。せやから、ええんや。工場で作るみたいに全部同じやったら、おもろない」
葵は、一枚一枚、手に取って、光にかざしてみた。どれも、少しずつ、違う青をしている。夕暮れの空が、日によって違う色をしているように。
「これも、全部、売りに出していいんですか」
「許容の線に収まったやつはな、ええに決まっとる。むしろ、売りは、それや。『世界に一枚だけの青』いうてな」
親方は、豪快に笑った。
葵は縁の色がわずかに違う皿を二枚並べ、光にかざした。「この違いも、お客さんに伝えたいです」と親方に言った。どこまでの濃淡なら販売できるか。見本の皿に印をつけ、工房と確認していくことにした。
工房を出る前に、葵は販売用の説明文を一行書き直した。〈均一な青〉とあった箇所に線を引き、〈一枚ずつ表情の異なる青〉と入れる。万人に無難な色を選ぶより、自分が美しいと思った理由をきちんと伝えたかった。
その夜、窯から出たばかりの五枚の皿を並べた写真を、拓海に送った。
〈全部、色が違う〉
〈同じ色は二度と出ないって、親方が〉
〈いい言葉だな〉
〈ね〉
〈日曜、楽しみにしてる〉
画面を見たまま、葵は、返事を打つ前に、自分に聞いてみた。〈私も〉と書くのは、社交辞令だろうか。違った。送った。
土曜の夜、葵はノートを開いた。日曜に話すことを、箇条書きにしてみる。
・同僚の告白を断ったこと
・七年のこと。全部
・子どものこと
三つ目の行で、ペンが止まった。いちばん言いにくい。いちばん、「重い」と思われそうなこと。消したくなるのをこらえて、その下に、小さく書き足した。
——これだけは、言う。
ノートを閉じ、葵は枕元に置いた。消さなかった三つ目の行が、紙の向こうに透けて見えた。




