第10章:新しい色彩を描くキャンバス
日曜日のおだやかな午後、約束のカフェのテラス席には、初冬の澄んだ風が吹いていた。
川沿いの遊歩道に面した、あの店だった。九月の終わりに、ひとりでアイスティーをかき混ぜていた席。あの日は夕暮れで、ガラス窓に映る自分の横顔ばかり見ていた。今日は、まだ高い陽が、テーブルの上に四角い光を落としている。ブランケットとヒーターの置かれた席に、葵は先に腰を下ろして、メニューを開いた。首には、先週買ったばかりの藍色のストールを巻いている。家を出る前に、鏡の前で三回、ほどいては結び直した。
注文したのは、ホットのカフェオレだった。運ばれてきたカップを、両手で包む。掌にじんわりと熱が広がって、指先の震えが、少しずつおさまっていく。
斜め前のテーブルには、小さな男の子を連れた家族が座っていた。母親がナプキンで男の子の口元を拭き、父親が笑ってパンケーキを切り分けている。葵はカフェオレを一口飲み、男の子が笑うのを見て、つられて口元をゆるめた。
声がして顔を上げると、拓海が立っていた。紺のマフラーを巻いて、頬を赤くしている。いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべて、「お待たせ」と席についた。
「ううん、私が早く来すぎただけ」
「そのストール、初めて見る」
「うん。……買ったの。先週」
「青だ」
「うん。好きな色」
拓海は、ひと呼吸おいて、「似合うよ」と言った。それだけで、ストールの中で、頬がかっと熱くなった。
ストールの話は、それきりになった。
「ここ、いい場所だね。川が見える」
「うん。……私にとっては、ちょっと、特別な席なの」
拓海は、短い沈黙のあと、「そうなんだ」とだけ言った。深くは聞かなかった。そのことに、葵は、感謝した。
拓海もホットを注文して、「冬だもんね」と笑う。湯気の立つカップを前に、二人はしばらく、何も言わなかった。
葵は、まっすぐに拓海を見つめた。もう、視線を逸らしたり、無理に愛想笑いを作ったりはしない。自分の心にある言葉を、自分の声で、しっかりと伝えたいと思ったからだ。
「あのね、拓海くん。この間、ちゃんと自分の気持ちと向き合って、答えを出してきたよ」
拓海は急かすことなく、ただじっと葵の言葉を待ってくれた。その眼差しに支えられながら、葵は続けた。
「会社の同僚には、自分の気持ちを伝えて、お断りしたの。誰かに寂しさを埋めてもらうためじゃなくて、自分の足で立って、まっすぐ向き合える人と歩きたいって思ったの」
葵の言葉を聞いた拓海は、表情を和らげた。どこか誇らしげな、それでいて、心底ほっとしたような笑顔だった。
「そっか。……うん、葵なら、きっとそうやって自分で答えを出せるって、信じてたよ」
その言葉に、目の奥が熱くなった。
けれど、まだ、終わりではなかった。葵は、カップをテーブルに置いた。
「それとね、もうひとつ、話さなきゃいけないことがあって。前に言った、昔の話」
「うん」
「長くなるけど、聞いてくれる?」
「うん。何時間でも」
冗談ではないことが、声の調子で分かった。葵は、一度だけ息を吸って、話し始めた。
*
23歳のときに、既婚の人を好きになったこと。それを知ったのは、付き合って三か月後だったこと。「いつか離婚するから」という言葉を信じて、七年、待ち続けたこと。週末のホテルのこと。一人で見たイルミネーションのこと。友人の結婚式で泣いたこと。30歳の春、駐車場の車の中で、「家庭を捨てることはできない」と言われたこと。連絡先を消されて、誰にも言えなかったこと。
言葉を選ばず、飾らず、そのまま話した。途中で、声が詰まった。コーヒーが冷めていくのも、気にならなかった。川を渡る風が、ときどきブランケットの端を揺らした。
話しながら、葵は、拓海の顔を見ていられなかった。膝の上で組んだ自分の手ばかりを見つめていた。——引かれる。どんな顔をされても、受け止める。そう覚悟して、話し続けた。
話し終えて、数十秒、沈黙が落ちた。
葵は、おそるおそる、顔を上げた。
拓海は、泣いていた。
声を立てず、頬に一筋だけ涙を伝わせて、まっすぐこちらを見ていた。袖で、ぐいと乱暴に拭ってから、苦笑した。
「ごめん。……情けないな」
「拓海くん」
「いや、違う。引いてない。三秒も考えなかった」
深い息が、吐き出された。
「それを、七年も、一人で持ってたんだな」
胸の奥の、一番深いところに、その言葉が届いた。
「かわいそう、とか、そういうことじゃなくて。重かったなって、思って。誰にも言えないものを、誰にも言えないまま、ずっと抱えて、それでも毎日、会社に行って、笑って。……俺には、できなかったと思う」
「そんな、すごいことじゃ」
「すごいよ。それに」
言葉を探すように、間があった。
「話してくれて、ありがとう。怖かったでしょう」
「……うん。すごく」
「でも、話してくれた。それが、いちばん嬉しい」
涙が、また、あふれてきた。今度は、悲しい涙ではなかった。長い間、胸の奥の暗い場所に閉じ込めていたものが、外の空気に触れて、ゆっくりと、ほどけていく音のようだった。
「私ね、まだ、もうひとつ、言ってないことがあるの」
「うん」
「重いって、思われたくなくて、ずっと言えなかったことなんだけど」
「うん」
「子どもが、欲しいの」
言ってしまった。テーブルの上の湯気が、揺れた。
「結婚したいし、子どもを産みたい。もう31歳で、時間もそんなにないって焦ってもいて。だから、誰かと付き合うときは、そこまで含めて考えてる。——重いよね。ごめん。でも、これが、私の本音で、ここを隠したまま、付き合うのは、もう嫌なの」
拓海は、黙った。五秒。十秒。葵の心臓が、肋骨の内側で暴れている。
「重くないよ」
「いや、正確には、重いよ。大事なことだから。でも、それは、悪いことじゃなくて、……ちゃんと、受け止めたいことだと思う」
「拓海くん」
「俺も、同じことを考えてる。結婚とか、家庭とか。東京にいた頃は、考えないようにしてた。どうせ、って思ってたから。でも、葵と会ってから、考えてる」
彼は、マフラーの端を指でいじった。
「葵のペースを、俺が急かすつもりはないよ。でも、逃げないって約束はできる。二人で考えたい」
「……いいの? 私で」
「葵で、じゃなくて、葵が、いい」
その言葉に、葵は、返事ができなかった。
*
「それとさ、一個、白状させてほしい」
照れくさそうな声だった。
「この間、公園で『待ってる』って言ったとき、俺、かっこつけてた」
「え?」
「本当は、すごく怖かった。葵が、あの同僚のところに行ったらどうしようって。止める権利はないって言ったけど、止めたくなかったかって聞かれたら、嘘になる。……あのときの俺は、手に力が入りすぎて、紙コップを潰しかけてた」
「知ってる。見えた」
「えっ」
「手が、白くなってたの」
顔を覆った手の間から、耳まで赤いのが見えた。
「ばれてたか……」
「うん。それで、この人も怖いんだって、分かったの。完璧な人じゃなくて、……私と同じで、怖いのに、待ってくれてるんだって」
葵は、くすっと笑った。
「ねえ、拓海くん」
葵は息を整え、自分の胸の内にあった本当の願いを、紡ぎ出した。
「私、遠回りばっかりしてきたし、不器用だし、不安になることも、まだまだある。でも、もう自分を偽って、誰かの影に隠れるのはやめるって決めたの。……ちゃんとした恋愛がしたいの。弱いところも、全部見せたうえで」
テラスの向こうで、川面がきらりと光った。
「それができるのは……私の本当の姿を見て、一緒に真剣に向き合ってくれた、拓海くんとだからだと思うの」
葵は、拓海の目をまっすぐに見つめた。
「……私と、付き合ってください」
拓海は、一瞬、目を見開いた。三秒。いつもの、あの三秒。その間に、彼の中で何が起きているのか、今ならなんとなく分かる気がした。——本当にこれでいいか、自分に聞いている。
やがて、その表情が、ゆっくりとほどけた。壊さないように、でも離さないように、そっと両手で包み込むような、優しくて、力強い笑顔だった。
「……うん。こちらこそ、よろしくお願いします」
テーブルの下で、膝が震えていた。葵はそれを隠さずに、震えるままにしておいた。
過去の痛みが消えたわけではない。31歳という数字も、そこにある。けれど、もう怖くはなかった。
混ぜすぎて灰色になった絵の具の隣に、新しい色をひとつ、そっと置いたような気がした。葵は、笑った。頬が勝手に上がるほうの、笑い方だった。
テーブルの上に、拓海の手が差し出された。葵は、その手の上に、自分の手を重ねた。大きくて、冷たくて、すぐに温かくなった。
その場で、真由美に電話をかけた。三コールで出た。
「もしもし? どうした、日曜の昼間に」
「あのね、真由美。報告があって」
「……え、まさか」
「今、隣に、拓海くんがいる」
「スピーカーにして」
拓海が苦笑しながら、スマートフォンをテーブルに置いた。
「もしもし、拓海です」
「あんたね」真由美の声が、一オクターブ上がっていた。「ちょっと、どっちが先に言ったの?」
「私から」と葵。
「やっぱり! 拓海、あんた絶対先に言えなかったでしょ」
「正確には、言うつもりは、あった」
「三秒、黙ってたんでしょ」
「五秒は黙ってた」
「長い! 葵、待たせてごめんね、こいつのこと」
「ううん」
葵は、笑いながら、目をこすった。電話の向こうで、真由美が鼻をすする音がした。
「あー、もう、よかった。ほんとに、よかった。……あのさ、二人とも」
「うん」
「幸せになんなさいよ。ならなかったら、私が二人まとめて殴りに行くから」
「物騒だな」
「物騒でいいの! じゃあね、今夜、乾杯の連絡、ちょうだい!」
通話が切れたあと、二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。
*
カフェを出ると、陽はまだ高かった。
どちらからともなく、川沿いの遊歩道を歩き出した。ベンチの前を通り過ぎると、買い物袋を足元に置いた老夫婦が、並んで座っていた。九月の夕暮れに、飴をくれた二人だった。
ふと目が合って、おばあさんが、にこっと笑って会釈をしてくれた。葵も、笑顔で会釈を返した。自然に、顔が動いた。作った笑顔ではなかった。
橋のたもとでは、若い夫婦がベビーカーを押していた。毛布にくるまれた赤ちゃんが、ふにゃ、と小さなあくびをする。葵は、足を止めずに、それを見送った。胸のどこかが、きゅっとなった。けれど、あの頃のような、冷たい痛みではなかった。いつか、という言葉が、初めて、遠い国の言語ではなく、自分の言葉として、胸に落ちてきた。
拓海の手が、握った指に、力を込めた。何も言わなかった。それで、十分だった。
「昼間の道、手をつないで歩くって、こんな感じなんだね」
「え?」
「あ、ううん。ひとりごと」
言ってから、顔が熱くなった。拓海は黙ったまま、繋いだ手に、力を込めた。
「それ、今日の分の文句じゃなくて?」
「違うよ。感想」
「感想か」
「うん。感想」
川風は冷たかった。繋いだ手のひらだけが、ずっと温かかった。
その夜、葵は実家に電話をかけた。母は、一度目の呼び出し音が終わらないうちに出た。
「もしもし? どうしたの、何かあった?」
「ううん。何もないの。あのね、お母さん」
「うん」
「紹介したい人が、できたの。まだ、今日からだけど」
電話の向こうが、しんと静かになった。それから、ずず、と鼻をすする音が聞こえた。
「そう。……そうなの」
「泣いてるの?」
「泣いてない。お父さんが、横で泣いてるの」
「お父さんが?」
「こっそり、聞き耳立ててたのよ。……葵、よかったね。ほんとうに、よかったね」
「どんな人なの」
「どんな……。ちょっと変わってるの。返事の前に、必ず黙るの」
「黙る?」
「三秒くらい。最初は、何考えてるのか分からなくて、戸惑ったんだけどね。でも、あの間に、ちゃんと考えてくれてるんだって分かってから、好きになった」
「へえ。お父さんとは正反対ね。あの人は、考える前に喋るから」
「聞こえてるぞ」
遠くで、父の声がした。三人分の笑い声が、電話線の上で重なった。
母の声は、ずっと昔の、日曜の朝の台所の匂いがした。葵は、スマートフォンを耳に当てたまま、うなずいた。見えないのは、分かっているのに。
*
それから数日後の金曜、葵は真由美と、会社近くのイタリアンで落ち合った。
「ねえ、聞いて。靴下」
「千一回目?」
「違う。千二回目は、なかった」
「え」
「旦那が、裏返さなくなったの。私が毎日文句言ってたら、ある日、『もう言わせない』って言って、洗濯機の前で自分で戻してた」
「すごい」
「でしょ。文句って、言い続けると効くのよ」
真由美は得意げに、フォークを回した。それから、ふいに声を落とした。
「葵はさ、最近、文句、言ってる?」
「今日は、一個あった」
「なに」
「パスタが、ちょっとしょっぱい」
「合格」
二人で笑いながら、葵は窓の外を見た。裸になった街路樹の枝に、小さな電飾が巻かれている。もうすぐ、クリスマスだった。
十二月の第三週、工房から荷物が届いた。
会社に着いてすぐ、段ボールの中を覗いた。緩衝材の間から、藍色の小皿が、ひとつずつ顔を出す。縁に向かって釉薬が溜まり、夜の海のように深く濃い。光を受けると、底のほうで、細かな星屑がきらりと光った。
一枚、手に取る。ひんやりとして、重みがある。
「……きれい」
思わず、つぶやいた。
「葵さん、これ、すごく売れそうです」
後ろから覗き込んだみなみが、うっとりと言った。
「五色目、決めてよかったですね。お客さんも、きっと、待ってたと思います」
「そうかな」
「そうですよ。だって、葵さん、この皿の話するとき、いちばんいい顔してますもん」
葵は、笑った。会社で、「いい顔」と言われて、素直に嬉しいと思えた。
隅の席で、高梨さんが、画面を見ていた。目が合うと、彼は、小さく頷いた。葵も、頷き返した。それだけで、十分だった。
その週末、葵は持ち帰りの許可をもらった試作品の藍の小皿を一枚、バッグに入れて帰った。
*
土曜の午後、直営店で『ひだまり』の先行販売会が始まった。
初回の量産では二百枚を焼き、そのうち検品基準を満たした藍は百二十枚だった。営業課長の販売承認は、その結果と陳列案を確認したうえで下りた。
葵は、約束どおり、拓海を連れて、店の隅の柱の陰から、売り場を見ていた。長いテーブルに並んだ、卵色、生成り、薄いグレー、若草色。その一番端に、藍色の皿が、ひとつだけ置かれている。
「緊張してる?」
「してる。胃が痛い」
「文句、言っていいよ」
「胃が、痛い」
「よし」
「葵さん!」
小声で呼ばれて振り向くと、みなみが柱の陰に滑り込んできた。
「人だかり、すごいですよ。開店から二十分で、卵色が十枚出ました」
「藍は?」
「まだ一枚も。……あ、すみません」
「正直でよろしい」
「でも、藍の前で足を止める人は、一番多いです。手に取って、戻して、また取る人が、何人もいます」
葵は、柱の陰から、藍の皿を見た。手に取られては、戻される。それでも、また誰かが近づいていく。
そのとき、七十歳くらいの上品な女性が、杖をついて売り場に近づいてきた。孫へのプレゼントを探しているらしく、店員さんに何か話しかけている。女性の視線は、四つの優しい色を通り過ぎて、藍色の皿の上で止まった。
手に取り、窓の光にかざす。縁の釉薬が、きらりと光った。
「……この青、いい色ねえ」
店員さんに言う声が、こちらまで聞こえた。
「落ち着いていて、でも、さびしくなくて。これ、二枚いただける? 一枚は私ので、もう一枚は、孫に」
葵は、思わず口を押さえた。喉の奥が、ひくりと鳴った。
隣で、拓海が、黙って葵の手を握った。ぎゅ、と力が込められる。
「……売れた」
「売れたね」
「私の、好きな色が」
「うん。葵の好きな色が」
涙が、ぽろりと頬を伝った。拓海が、ポケットから、あの紺色のハンカチを取り出して、黙って差し出した。葵は笑って、それを受け取った。
「また、借りちゃった」
「次も、返してもらうから」
そこへ、聞き覚えのある声がした。
「葵さん」
振り返ると、高梨さんが、柱の向こうから、照れくさそうに立っていた。
「見てました。さっきの」
売り場の奥で、別の客が藍の皿を手に取り、値札を見て棚に戻していた。葵はその手元も見た。誰にでも選ばれる色ではない。それでも、次の朝、同じ皿を並べたいと思った。
「あ、……高梨さん」
葵は、とっさにハンカチで目元を押さえた。それから、隣の拓海を見た。拓海は、一歩前に出た。
「はじめまして。拓海といいます」
「高梨です。葵さんと、同じチームで、仕事をさせてもらってます」
二人の男は、握手を交わした。短く、礼儀正しい握手だった。
「藍の皿、最高でした。あれは、葵さんの色です」
高梨さんは、そう言って、拓海に向かって微笑んだ。
「彼女、ああ見えて、頑固で、ものすごく真面目で、そのくせ、すぐ『大丈夫です』って言うので。よろしくお願いします」
「はい。……あの、でも、最近は、あんまり言わなくなりました。『大丈夫です』」
「それは、よかった。……正直に言うと、少しだけ悔しいですけどね」
高梨さんは、小さく頭を下げて、人の波の中へ戻っていった。振り返らなかった。その背中に、葵は、そっと頭を下げた。
「いい人だね」
隣で、拓海がぽつりと言った。
「うん。……すごく」
「俺、ああいう人に勝てる自信は、あんまりなかった」
「勝ち負けじゃないよ」
「分かってる。でも、選んでもらえたことには、感謝しとく」
拓海の声は小さかった。葵は、くすくす笑って、彼の腕に自分の腕を絡めた。
外に出ると、冬の陽が、石畳の上に長い影を引いていた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。みなみからだった。
〈藍、いまのところ四枚です。卵色は五十枚超えです。課長に出す報告書には、数字が足りません〉
葵は画面を見つめて、息を吐いた。数字を見る日々は、これからだった。〈ありがとう。明日も行く〉と返して、拓海の腕に、もう一度つかまった。
*
その夕方、拓海は、はじめて葵の部屋に来た。
築十五年の小さなワンルームを、玄関で見渡して、「いい部屋だね」と言った。何がいいのか、分からない。けれど、お世辞ではない声だった。
スーパーの買い物袋を二つ、提げていた。近所のスーパーの野菜売り場で、さっき、二人で買い物をしてきたのだ。
さっき、カートを押しながら、葵は言った。
「今日の夕飯、何にしようか」
「なんでもいい」
「それが一番困るんだけど」
言ってから、二人で顔を見合わせた。たぶん、同じことを思い出していた。拓海が、くすりと笑う。
「じゃあ、出汁巻き」
「出汁巻き?」
「作れるようになりたいんだ、ずっと。食べさせたい人ができたから」
さらりと言われて、葵は、カートの持ち手を握りしめた。野菜売り場の明かりが、やたらとまぶしかった。
売り場で卵のパックを手に取った拓海は、棚の前で真剣に迷っていた。
「十個入りと、二十個入り。どっちがいいと思う?」
「二十個は、多くない?」
「練習用に」
「何回失敗するつもりなの」
「十回くらい」
「正直だね」
「嘘は、つかない奴で通ってるから」
結局、十個入りを二パック、かごに入れた。
結局、出汁巻き卵と、鯖の味噌煮と、味噌汁を作ることになった。拓海は、卵焼き器の前で、真剣な顔をしていた。ひと呼吸おいて、卵液を流し入れる。じゅわっと音がして、ふんわりした黄色が広がる。
「あ、焦げた」
「焦げたね」
「ごめん、出汁、足りなかったかな」
「ううん。……あの」
葵は、藍色の小皿を戸棚から取り出した。
「これに、乗せてもいい?」
はっとした顔で、拓海が小皿を見た。
「これが、……例の」
「うん」
白い湯気を立てる、焦げ目のついた出汁巻き卵を、藍色の皿に乗せた。深い青の上に、黄色が浮かび上がる。それは、夕暮れの空に灯った、最初の明かりのようだった。
「……すごいな」
ため息のような声だった。
「きれいだ。葵が、好きって言ってた意味が、分かる」
「でしょ?」
葵は皿を少し回して、焦げ目のある卵を箸で二つに分けた。見栄えのよいほうを拓海に差し出す癖が出かけて、やめた。「私、こっちが食べたい」と、香ばしい端を自分の皿に取った。
食卓に並べた料理の隣に、二つのマグカップを置く。白地に細い青の線が入った、揃いのカップだった。急須から、ほうじ茶を注ぐ。湯気が二つ、並んで立ちのぼった。
「あれ、ペアなんだ」
「うん。二つとも、私が買ったの。ずっと、片方だけ使ってて」
葵は、迷ってから、続けた。
「でもね、これからは、二人で使えるから。……それがちょっと、嬉しくて」
拓海は、黙った。それから、カップを両手で持ち上げた。
「いただきます」
一口、飲んで、「あったかい」と言った。
葵も、飲んだ。いつもの味が、いつもより丸く感じた。
「ねえ、拓海くん」
「うん」
「今日の分の文句、ひとつ、言っていい?」
「どうぞ」
「出汁巻き、焦げた」
「それ、文句っていうか、事実だよね」
「でも、おいしい」
「それは、感想」
二人で、笑った。
食べ終わった皿を、並んで洗った。拓海が洗って、葵が拭く。藍色の皿は、水を弾いて、星屑のような光を散らした。
「この皿に、いつか、何を載せるのかな」
ぽつりと、拓海が言った。
「何、って?」
「いや。……誕生日のケーキとか。子どもの離乳食とか」
手が、止まった。拓海が、慌てたように付け足した。
「急いでないよ、全然。ただ、ふっと、想像したっていうか」
「想像、してくれるんだ」
「してる。結構、よく」
葵は皿を水切りかごに置き、布巾を畳んだ。拓海のほうを向く。
「私も、してる」
「嬉しい。でも、ちょっと怖い。先のことを考えると、急に焦っちゃう日があるから」
言ってから、拓海の目を見た。
「子どものことも、仕事のことも、二人で相談したい。焦って答えを出したくなる日もあると思う。でも、拓海くんに合わせて黙るのは、もうやめたい」
「話してくれて、ありがとう」
拓海は手の泡を流し、タオルで拭いてから、葵の手にそっと触れた。
「うん。二人で考えよう。俺も、すぐに答えを出せるとは限らないけど、分からないときは分からないって言うよ」
片づけを終えると、二人は窓辺に並んで座った。冬の夕暮れの空は赤から紫へ、紫から群青へとゆっくり色を変えていた。
「明日、何食べたい?」
拓海が聞いた。
「私、決めてもいい?」
「もちろん」
葵は考えてから、答えた。
「朝は、あのお皿にトーストを載せたい」
「いいね」
拓海が笑った。窓の外の群青が夜に溶けていく。水切りかごには、洗って伏せた藍の皿が一枚、明日の朝を待っていた。




