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陽だまりのパレット  作者: 久遠 睦


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第8章:揺れる思いと、拓海の言葉

火曜の夜、真由美から電話がかかってきた。


「もしもし、葵? 拓海とは、どう? 順調?」


「うん、順調……だと思う」


「だと思う、って何よ。ちゃんと言いなさいよ。デート三回目でしょ」


「デートって言うほどのことは」


「デートだよ。美術館と、サッカーと、夜の電話」


「なんで知ってるの」


「拓海が教えてくれた。『楽しかった』って、メッセージが三行も来た。あいつにしては異例の長さ」


電話口で、真由美が笑う。葵は、ベッドの端に座ったまま、膝の上で握った自分の手を見つめていた。言わなければいけない。会社の人に告白されたと、真由美にだけでも、相談したい。


けれど、口から出たのは、別の言葉だった。


「ちょっと、仕事が忙しくて。それだけだよ」


「ほんとに? 声、疲れてない?」


「大丈夫、大丈夫」


言ってから、受話器の向こうの沈黙が、ずしりと重かった。


「……葵」


「ん?」


「その『大丈夫』、今日の分の文句にしてくれてもいいんだよ」


痛いところを突かれた。葵は、小さく息を吐いて、笑った。


「今日の文句はね、……ちょっと、決められないこと」


「それでよし」


真由美はそれ以上は聞かず、「何かあったら、言うんだよ」とだけ言って、電話を切った。優しさの手ざわりが、胸に残った。それでも、言えなかった。


水曜の朝、エレベーターで高梨さんと乗り合わせた。二人きりだった。階数表示の数字だけが、静かに上がっていく。


「おはようございます」


「おはようございます」


それだけだった。高梨さんは、今までと同じ顔で、同じ距離を取っていた。気まずさを押しつけてこない、その距離の取り方に、葵は救われると同時に、申し訳なさで胸がいっぱいになった。


木曜の午後は、追加生産の打ち合わせで、工房へ向かう予定が入っていた。同行するのは、高梨さんだった。


社用車の助手席に座ると、エンジンの低い音と、カーナビの案内音声だけが、車内に満ちた。前を向いたまま、高梨さんが言った。


「仕事の話だけにしましょうか。それとも、話しますか」


「……仕事の話で、お願いします」


「了解です」


ハンドルを握る横顔は、淡々としていた。信号待ちで、彼がぽつりと言った。


「返事は、急がなくていいです。ただ、俺のために、無理して決めないでください。決めきれないなら、それが答えでも、構わないので」


「高梨さん」


「はい」


「……ごめんなさい」


「謝られるようなことは、何も」


その横顔が、わずかに笑った。


工房は、山あいの小さな集落にあった。年季の入った木造の建物の奥で、六十過ぎの親方が、薪の窯の前に腰を下ろして、煙草をふかしている。


「おお、お二人さん、来たか」


「お世話になります。第二弾の釉薬の件で」


窯の前の棚には、窯出しされた皿が並んでいた。卵色の皿、若草色の皿。その端に、一枚だけ、深い藍の皿がまじっていた。


「あれは?」


「ああ、高梨くんが、勝手に焼いてくれって頼んできたやつや」


親方が笑った。


「まだ、使うあてもないんやけど、ええ色やろ。釉薬いうのはな、窯の中で、人が思た通りにはならへんのや。火と土が、正直やから」


「正直……」


「そうや。こっちの都合で取り繕われへん。せやから、ええ色が出たときは、うれしいんや」


葵は、棚の上の藍色の皿を、じっと見つめた。窯の中では、取り繕えない。火と土が、正直に、その色を作る。


「あの……この皿、もう一度、窯に入れてもらえますか。焼き直したいんです」


口を滑らせた自分に、驚いた。


「ほう。何のために?」


「まだ、使うあては、分かりません。でも、焼き直したいんです。……どうしても、これを、世に出したくて」


「お嬢ちゃん、ちょっと座りな」


親方は、窯の脇の木箱を顎で示した。高梨さんは気を利かせて、外で電話をかけに出ていった。葵は、木箱に腰を下ろした。


「この藍な、最初に焼いたんは、二十年前や」


「二十年前?」


「この窯、一回、割れたことがあってな。薪の組み方を間違えて、一晩で全部ぱあや。残ったんは、この色の失敗作が一枚だけ。形も歪んで、売りもんにならん。けど、捨てられへんかった」


親方は、煙草を灰皿に押しつけた。


「それまでは、売れる色ばっかり焼いてきたんや。ほんで、その歪んだ一枚を見て思たんや。ああ、わしが好きな色は、これやったんかって」


「……」


「四十過ぎて気づくこともあるんやで。お嬢ちゃんは、早いほうや」


「私、まだ、気づいたかどうかも」


「気づいてるから、焼き直したい言うたんやろ」


痛いところを突かれて、葵は笑ってしまった。


「親方は、その一枚、どうされたんですか」


「家で、味噌汁の椀にしとる。割れたら、また焼く」


それだけ言って、親方は窯の火を見た。


親方は、黙って葵を見て、それから、にやりと笑った。


「ええ顔や。ほな、任しとき」


帰りの車の中で、高梨さんは、一言も触れなかった。


助手席は、驚くほど楽だった。ウィンカーの音と、タイヤが路面を拾う低い音。何も聞かれず、何も試されない。この人の隣なら、きっと穏やかな日々が続くのだろう、と思った。


そう思ってから、気づいた。楽だ、と感じたのだ。拓海の隣では、もっと息が詰まって、もっと笑って、もっと泣いた。楽なほうへ傾いていく感覚には、覚えがあった。何も言わなくていい場所に、身を置いてしまうこと。


駅に着く直前、高梨さんが、小さく言った。


「さっきの葵さんの顔、……いや、仕事の話に戻ります。次の納期ですが」


ハンドルを握る横顔が、かすかに笑っているように見えた。


木曜の夜、ノートの端に、箇条書きを書いてみた。


・高梨さんのいいところ


・拓海さんのいいところ


書き出したそばから、嫌になった。人を、項目で比べている。まるでマッチングアプリのプロフィールを眺めているみたいだった。ページを破って、くしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に放り込んだ。


——私は、どうしたいんだろう。


問いは、何度繰り返しても、同じところに戻ってきた。


金曜の夜、拓海から、短いメッセージが届いた。


〈明日、お昼ごろ、駅で待ち合わせでいいかな。紅葉がきれいらしい。散歩しよう〉


画面を見つめて、葵は、指を止めた。——断ろうか。体調が悪いと嘘をついて、先延ばしにしようか。


そう考えて、はっとした。それこそが、あの「逃げ」なのではないか。


〈うん、楽しみにしてます〉


震える指で、そう送った。送信ボタンを押したあと、長いこと、画面を伏せたまま、天井を見つめていた。


そのとき、手の中のスマートフォンが、着信を告げた。画面には、〈お母さん〉の文字。


「もしもし、葵? 夜遅くにごめんね。お父さんがね、柿を送ったから、届いたらちゃんと食べなさいって」


「うん。ありがとう」


いつもの、取り留めのない母の声だった。ひとしきり、近所の話や、庭の山茶花の話が続いた。葵は、ベッドの縁に座って、相槌を打っていた。


「それでね、葵」


「うん」


「元気にしてる?」


いつもと同じ質問だった。いつもなら、「元気だよ、大丈夫」と答える。三秒——拓海の三秒を、思い出した。自分に聞いてみる。本当に、それでいいか。


「……あんまり、元気じゃないかも」


電話の向こうで、母の息が止まる気配がした。


「ちょっと、疲れてるの。仕事は順調なんだけど、他のことで、いろいろ考えちゃって。……大丈夫じゃない日も、あるんだ」


言い終えてから、心臓がばくばくした。母に、こんなことを言ったのは、いつぶりだろう。生まれて初めてかもしれない。


しばらくの沈黙のあと、母が言った。


「……やっと、言ってくれたね」


「え?」


「お母さん、ずっと待ってたのよ。あんたが、大丈夫じゃないって言ってくれるのを。子どもの頃から、家の中でも、ずっと笑ってたでしょう。お父さんとお母さんが喧嘩してたときも。あのとき、お母さん、あんたの顔が、いちばん気がかりだった」


胸が、ぎゅっと詰まった。


「気づいてたの?」


「気づいてたわよ。でも、どうしたらいいか分からなくて。お母さんたちの喧嘩のせいで、あんたに無理させてるって、ずっと思ってた。ごめんね」


「お母さんが謝ることじゃ、ない」


「謝らせて。三十年分、謝らせて」


母の声が、笑って、震えていた。葵の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。


「お母さんね、あんたが小さい頃、お父さんと喧嘩したあと、台所で一人で泣いてたの。そこへあんたが来て、変な顔をして笑わせてくれるでしょう。救われたのよ。でも、あとで気づいたの。あの子に、そんなことさせちゃいけなかったって」


「……そうだったんだ」


「だからね、これからは、あんたが泣いてるときに、お母さんが笑わせに行く。変な顔するわよ」


「やめてよ」


葵は、泣きながら笑った。


「ねえ、葵。何があっても、帰ってきていいのよ。お母さんもお父さんも、あんたが元気な顔をしてなくても、ちゃんと、あんたの親だから」


「……うん。ありがとう」


電話を切ったあと、葵は、ベッドに倒れ込んで、枕に顔を埋めた。声を立てて、泣いた。長い間、堰き止めていたものが、ようやく流れ出していくようだった。


泣き終わって顔を上げたとき、頭の中は少しだけ静かになっていた。けれど、「気づいてたなら、どうして」という言葉は、喉の奥に引っかかったまま残っていた。それはまだ、母には言えなかった。いつか言えばいい、と思った。明日、拓海に会う。逃げずに、全部話す。——そう、決めた。


*


土曜の昼前、駅前のパン屋の前で、拓海は待っていた。


「おはよう。昼ごはん、ここで買って行こう」


店内は、焼きたての匂いでいっぱいだった。トレーを持って、棚の前を一周する。


「葵は、どれがいい」


「玉子サンドと、……クロワッサン」


言ってから、葵は瞬きをした。迷わなかった。


「今、迷わなかったね」


拓海が、トングを持ったまま、口の端を上げた。


「うん。……玉子、好きなの」


「覚えとく」


「拓海さんは?」


「ハムとチーズ。あと、あんぱん」


「あんぱん?」


「食後の楽しみ」


あまりに真面目な声に、葵は吹き出した。


週末の午後、葵と拓海は、駅から離れた緑豊かな公園のベンチに、並んで座っていた。


秋晴れの空は高く澄み渡り、並木の銀杏が、金色の葉を惜しげもなく降らせていた。足元は、黄色い絨毯のようになっている。ベビーカーを押す夫婦、凧を揚げる子ども、犬の散歩をする老人。そのすべてが、やわらかい陽射しの中で、静止画のように穏やかだった。


駅前のパン屋で買ってきた、玉子のサンドイッチと、ハムとチーズのサンドイッチを、二人で半分こにした。葵は、玉子のほうをひとくちかじったきり、手が止まってしまった。喉が、ひどく狭かった。


「無理して食べなくていいよ」


さらりとした口調だった。


「食べられる分だけで。残りは、俺が食べるから」


「……うん。ごめん」


「ごめんは、なし」


「じゃあ……ありがとう」


「それは、受け取る」


紙袋の中の、半分になったサンドイッチを、拓海は何でもないように平らげた。


離れた芝生で、よちよち歩きの女の子が、尻もちをついた。一瞬の沈黙のあと、顔をくしゃくしゃにして泣きそうになったところを、駆け寄ってきた父親が、ひょいと抱き上げた。高い高い。女の子は、泣く代わりに、きゃあ、と笑った。


「かわいいな」


独り言のような、小さな声だった。


「子ども、好きなんだ?」


「……うん。好き」


思ったより、素直な声が出た。言ってから、胸がきゅっと縮んだ。いつもなら、「うん、かわいいよね」と軽く流す場面だった。


「いい顔してた、今」


拓海は、それ以上は何も言わなかった。葵は、自分の顔を見られていたことが、恥ずかしくて、嬉しかった。


女の子が、よたよたとこちらへ歩いてきた。手に、銀杏の葉を一枚握っている。


「あい」


差し出された葉を、葵は反射的に受け取った。


「ありがとう。……きれいだね」


「すみません!」


母親らしい女性が、駆け寄ってきた。


「うるさくしてすみません。こら、知らない人にあげないの」


「いえ。いただきました」


葵が答えると、母親は照れたように頭を下げて、女の子を抱き上げた。女の子は、母親の肩越しに、小さな手を振った。


「ばいばい」


葵も、手を振り返した。手のなかの葉が、まだかすかに震えていた。


膝の上で組んだ手に、力が入っていた。言わなければ、と思うほど、喉が狭くなる。拓海は私を、気の合う友人の一人としか見ていないのかもしれない。それなのに、他の人の言葉に心が揺れたと打ち明けたら、何と思われるだろう。


「葵、どうかした?」


隣から、拓海の穏やかな声が降ってきた。


いつものように柔らかい声だった。その声に触れるたび胸が温かくなるのに、同じ温度で誰にでも向けられているものかもしれない、という恐怖が邪魔をした。


「ううん、なんでもない……」


反射的に作りそうになった笑顔を、飲み込んだ。葵は、絞り出すように、小さな声で言った。


「あのね。……実は、話さなきゃいけないことがあるの」


拓海は、驚く様子もなく、ただ、「うん、聞いてるよ」と頷いてくれた。その真摯な態度が、かえって葵の胸を締め付けた。


*


「この前、会社の同僚から……告白されたんだ」


風が、銀杏の葉を、ひらひらと二人の間に運んできた。


「私のこれまでの仕事ぶりとか、無理して笑ってるところも、見てくれていて。『ちゃんと支えたい』って言ってくれて。……それで、私、すごく、動揺しちゃって」


話し終えると、葵は恐る恐る、拓海の顔色を窺った。


怒っているだろうか。呆れられているだろうか。それとも、「じゃあ、そっちに行けばいいよ」と、冷たく突き放されてしまうのだろうか。心臓が、バクバクと激しく脈を打つ。


しかし、拓海の表情は、驚くほど静かだった。


手元の紙コップのコーヒーを一口飲み、遠くの空に視線をやってから、また、葵に戻した。沈黙は、いつもより長かった。


「そっか。告白されたんだね」


その声には、嫉妬の色も、冷淡さもなかった。ただ、一人の人間として、葵の告白を受け止めようとする温度があった。


「……うん」


「どんな人?」


「真面目で、静かな人。同じプロジェクトにいて、いつも、見ててくれる」


「そっか。いい人なんだな」


「いい人、だと思う」


「それで、葵は、動揺した」


「うん」


ふーっと、長い息が聞こえた。


「葵、あのさ。ちょっと厳しいことを言うかもしれないけど、聞いてくれる?」


「え……?」


真剣な眼差しが、葵の目をしっかりと捉えた。


「誰にでもいい顔をして、その場の空気を壊さないように笑顔で取り繕うのって、優しさだけじゃなくて、自分を守るための逃げでもあるんじゃないかな」


その言葉は、葵の胸に、鋭く突き刺さった。


「逃げ……?」


「うん。この間、俺は『優しい生き方だ』って言ったよね。あれは嘘じゃない。でも、半分だけなんだ。もう半分は、そうやって、自分が傷つかないようにしてる部分もあると思ってた」


手の中の紙コップに、視線が落ちる。


「自分の本当の気持ちをごまかして、誰にでも好かれようとしたり、誰から優しくされても流されたりしてたら、いつまで経っても、本当に大切なものなんて見つからないよ。過去にどんな傷があったとしても、自分の心をごまかしてたら、また同じことの繰り返しになる。……それで、本当にいいの?」


葵は、唇を噛んだ。反射的に、笑って流しそうになる。笑いかけた口の端が、ひくりと震えて、止まった。


「……簡単に言わないでよ」


自分でも驚くほど、低い声が出た。


「知らないくせに。私がどんな思いで笑ってきたか、知らないくせに、逃げだなんて」


手のひらに、爪が食い込んでいた。怒っている、と気づいた。笑いに変えずに、怒りのまま誰かに声をぶつけたのは、いつ以来だろう。


拓海は、目を逸らさなかった。


「知らない。だから、きつい言い方になったのは、そうだと思う」


でも、言葉は取り消さなかった。


「でも、『逃げ』は引っ込めない。引っ込めたら、さっきまで言ったことが全部、嘘になるから」


「……っ」


「怒っていいよ。むしろ、怒ってくれて、嬉しい」


「嬉しいって、何」


「葵が、笑わずに俺に言ってくれたから」


返す言葉が見つからなかった。怒りの熱が、喉の奥で、少しずつ別のものに変わっていく。


「……だって、それしか、知らなかったんだもん」


声が、子どもみたいに、ひっくり返った。


「うん」


拓海の頷きは、深かった。


「それしか知らなかったんだと思う。だから、責めてるんじゃない。他のやり方を、……一緒に探せたらって、思っただけで」


怒りの下に、別のものがあった。康平の「平気そうだよね」が、耳の奥で重なった。


——図星だった。


喉の奥が熱くなって、うつむいた。七年のあいだ「待つ」ことを選び続けたのは、本当は誰のためだったのだろう。


涙が、一粒、ぽとりと膝の上に落ちた。


「……ごめん。言い方は、また間違えたな」


苦笑まじりの声が飛んできた。


「ううん。……ううん、違うの。言ってくれて、よかった」


葵は首を振った。声が、涙で濡れている。


拓海は、泣き出した葵を責めるようなことはしなかった。ベンチの背もたれに、深く体を預けると、遠くの空を見上げたまま、ぽつりと言った。


「俺ね、東京で、五年付き合った人がいたんだ」


葵は、顔を上げた。


「三年は、一緒に住んでた。いい人だった。……でも、俺は、一度も、本当のことを言わなかった。ご飯は何がいい? って聞かれて、『どっちでもいいよ』。休みはどこ行きたい? って聞かれて、『合わせるよ』。引っ越しをするかどうかの話のときも、『君がいいなら、いいよ』」


自嘲するような笑い方だった。


「ある日、泣かれたんだ。『あなたは、私といて、楽しいの? あなたは、何がしたいの?』って。俺は、三秒も考えずに、『いいよ、君が決めて』って答えた。それが、最後の会話になった」


「拓海さん」


「彼女が悪かったんじゃない。俺が、何も差し出さなかった。物わかりのいい男のふりをして、傷つくのも怖がって、結局、彼女を一番孤独にした」


「会社では、言わなくていいことまで言って人を怒らせてたのに。一番言わなきゃいけない人にだけ、言えなかった。……笑えるだろ」


葵は、笑えなかった。


顔が、こちらを向いた。


「だから、葵が『誰にでも明るくしちゃう』って言ったとき、他人事じゃないって思った。形は違うけど、同じことをしてたから。……だから、きついことを言った。ごめん。でも、あのとき俺が言われたかった言葉でもあるんだ」


葵は、涙を拭うのも忘れて、横顔を見つめていた。完璧に見えていた人の、これまで見えなかった傷が、日差しの中で、はっきりと形になっていく。


「その人は、今は……」


「去年の春に、結婚したって、共通の友達から聞いた。幸せそうだった」


空を見上げたまま、拓海は笑った。


「それを聞いて、よかったって、本当に思えたんだ。思えたから、戻ってこれた。ここの出汁巻きに、体のほうが先に帰ったって、前に言ったでしょう。あれは、半分、本当のことで」


トーンが落ちた。優しく、けれど力強く、言葉が続く。


「葵が今、誰を選んでも、俺に止める権利はないと思ってる。でも、ひとつだけ、頼みたい。選ぶなら、流されて選んだ答えじゃなくて、葵自身の本当の心で選んだ答えにしてほしいんだ」


葵は顔を上げ、潤んだ瞳で拓海を見た。


「自分の本当に大切な人が誰なのか、本当に欲しい未来が何なのか。焦らなくていいんだよ。自分が心から納得できる答えを出せるように、ゆっくり考えればいい。……それが俺でも、そうじゃなくてもさ」


「――え……?」


そこで、言葉が切れた。黙った。そして、苦笑した。


「いや、ごめん。『そうじゃなくてもいい』は、嘘だな。正直に言うと、俺であってほしいと思ってる。……思ってるけど、それは、葵が決めることで、俺が決めさせちゃいけないことだから」


言葉の最後が、わずかに震えていた。


「だから、ちゃんと自分の気持ちと向き合ってごらん。俺は、いつでも、ここで待ってるから」


拓海のコップを持つ指が、白くなるほど強く握られているのが、見えた。冷静な顔の下で、この人も怖いのだと、葵は初めて気づいた。それでも、怖いまま、待つと言ってくれている。


涙がまた落ちた。葵は、白くなった彼の指から目を離さずに、頷いた。


「拓海さん」


「うん」


「私にも、話さなきゃいけないことがあるの。……昔のこと。重い話で、聞いたら、引かれるかもしれなくて」


「うん」


「でも、まだ怖くて。もう少しだけ、時間をもらってもいい?」


「もちろん」


拓海は即答した。それから、付け加えた。


「怖いままで、いいよ。話せる日に、話して」


*


しばらくして、気持ちが落ち着いたころ、拓海が立ち上がった。


「歩こうか。体が冷える」


二人は、銀杏並木をゆっくりと歩いた。足元の黄色い葉が、靴の下でさくさくと音を立てる。落ちてくる葉を、拓海が一枚、器用に空中でつかんだ。


「見て、これ。完璧な扇形」


「ほんとだ。きれい」


「持って帰る?」


「うん。……押し葉にして、手帳に挟もうかな」


そう答えてから、葵は、自分が笑っていることに気づいた。泣いた直後なのに。赤い目のまま、笑っていた。


「そういえば、木曜に、工房に行ったの」


「例の、藍の皿?」


「うん。焼き直してもらうことにした」


「決めたの?」


「決めたっていうか、口が勝手に言ってた」


「それ、一番強いやつだよ」


「強い?」


「頭で決めたことより、口が先に言ったことのほうが、本音に近い」


葵は、目を瞬いた。それから、笑った。


「なんか、悔しい」


「悔しいは、文句に入れていいよ」


公園の出口の近くで、焼き芋の軽トラックが停まっていた。甘い香りが、風に乗って漂ってくる。


「あれ、食べない?」


「食べたい」


「即答」


「だって、お腹空いてたんだもん」


二人でひとつ、大きな紫芋を半分に割って、湯気の立つ断面を覗き込んだ。ねっとりとした蜜が、指にくっつく。


「あつっ」


「ふーふーしないと」


「俺、芋は皮ごと派」


「私は剥く派」


「皮に栄養があるのに」


「だって、熱いんだもん」


「じゃあ、剥いてあげようか」


「それは、いい。自分でやる」


「断られた」


「でも、気持ちは、もらいました」


子どもみたいに、息を吹きかけながら、二人でほおばった。甘い。ただそれだけの味が、胸に染みていった。


「ねえ」


葵は、芋の皮を指でむきながら、言った。


「ちゃんと、考える。逃げないで。……時間、かかるかもしれないけど」


「うん」


「でも、一個だけ、先に言っておく。今日、ここで、拓海さんの話を聞けて、よかった」


拓海は、黙った。そして、「ありがとう、……ううん」と、首を振った。


「俺のほうこそ。話してくれて、ありがとう」


芋を食べ終えて、駅へ向かった。改札の手前で、葵は、一度立ち止まった。


「じゃあ、またね。……拓海くん」


自然と、口から出ていた。さん、ではなく、くん。ずっと、胸のうちで、そう呼んでいたのかもしれなかった。


拓海は、目を見開いて、それから、とても嬉しそうに笑った。


「うん。またね、葵」


改札を抜けて、振り返ると、拓海はまだそこに立っていた。手を振る代わりに、ポケットから、さっきの銀杏の葉を取り出して、軽くかざした。葵は、バッグの中の、同じ形の黄色い葉に、そっと触れた。


電車の窓には、目の周りが赤く、化粧の落ちた顔が映っていた。葵は鞄から手鏡を取り出しかけ、やめた。


家に帰ってから、手帳を開いた。黄色い銀杏の葉を、今日の日付のページに挟んで、閉じる。ぱたん、という小さな音が、部屋に響いた。


今日の分の文句は、ひとつだけあった。


「……焼き芋、もう一個食べたかった」


声に出すと、笑えた。



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