第7章:打ち上げの夜、予期せぬ告白
拓海と連絡先を交換してからの日課は、少しずつ変わっていった。
朝、駅へ向かう道すがら、スマートフォンが短く震える。〈おはよう。今日は冷えるから、あったかくして〉。昼休みには、葵のほうから、社員食堂の日替わり定食の写真を送る。〈今日は鯖の味噌煮でした〉〈それは勝った。俺は、コンビニのおにぎり〉。夜、帰りの電車の中でやりとりが途切れて、家の玄関で靴を脱いだとき、また一通届く。〈おやすみ〉。
絵文字も、スタンプも、ほとんどない。それなのに、画面の向こうから、声のようなものが届く気がした。ひとつひとつの文が短く、必要なことしか書かれていないぶん、書かれていない部分に、ちゃんと人がいる。
アプリの画面越しに、見知らぬ誰かと手探りでやり取りしていた頃の重苦しさは、嘘のように消えていた。
最初の土曜日、約束どおり、二人は中之島の美術館で待ち合わせた。
改札の外に立っていた拓海は、白いシャツに薄手のコートを羽織っていた。葵を見つけると、手を軽く上げて、いつもの間のあと、「こんにちは」と言った。
「こんにちは。……あの、これ」
葵はバッグから、きれいに畳んだハンカチを取り出した。アイロンをかけ、小さな袋に入れて、リボンまでかけてしまったことを、家を出る直前に後悔した。やりすぎだと思われないだろうか。
驚いた顔で、拓海はそれを受け取った。
「ありがとう。……すごい、新品みたいだ」
「洗っただけです。リボンは、その、ちょっと張り切りすぎました」
「いや、嬉しい。ハンカチなんて、返してもらうとき、こんなふうに丁寧にされたの、初めてだ」
言い終えて、拓海は大事そうにハンカチをポケットにしまった。葵は耳の先が熱くなった。
展示は、近代の洋画と工芸の展覧会だった。静かな展示室に、人はまばらだった。天井の高い白い壁に、淡い光が落ちている。拓海は、一枚ずつ絵の前に立つと、ほとんど動かなかった。説明文を読むわけでも、感想を口にするわけでもない。ただ、じっと見ている。その横顔を、葵は絵よりも長く見てしまいそうになって、慌てて視線を前に戻した。
「葵さんは、絵の見方、決まってる?」
小声で、拓海が尋ねた。
「決まってるというか……色から入っちゃうんです。仕事柄。この赤は、釉薬にしたらどう出るかな、とか」
「釉薬」
「焼くと、色が変わるんです。同じ顔料でも、温度と時間で、全然違う色になって。思った通りに出ることは、ほとんどなくて」
「思った通りに出ない色の中から、いいのを選ぶんだ」
「はい。そこが、いちばん難しいところで、いちばん面白いところで」
話しながら、葵は、自分の声が弾んでいるのに気づいた。展示室の静けさを破らないよう、囁くような声なのに。拓海は、頷いて、聞いてくれる。
展示室の奥の、小さなガラスケースの前で、葵は足を止めた。
画家が実際に使っていたという、パレットだった。木の板の上に、固まった絵の具の山が、いくつも盛り上がっている。赤、黄、緑、白。何十年分の色が重なって、乾いて、もとの色が何だったのか分からなくなった山もある。そして、その山と山のあいだに、混ざり合ってできた、名前のない色が散らばっていた。
「……きれい」
思わず、つぶやいていた。
「絵の具じゃなくて、パレットが?」
「はい。この、混ざったところ。完成した絵の中には、こんな色は出てこないのに。ここにしか、ないんです」
「パレットの上でしか、見られない色」
「はい。……なんか、いいなって思って。うまくいかなかった色も、迷った跡も、全部残ってて」
拓海は、しばらく黙った。ガラスの向こうの、乾いた色の海を、見ていた。
「葵さんのパレットは、どんな感じ?」
唐突な質問だった。
「え?」
「いや、変な意味じゃなくて。仕事のじゃなくて、葵さんの、その、中のっていうか」
言ってから、拓海は自分で首を傾げた。うまい言い方が、見つからないらしい。
葵は、考えた。答えを探すふりをして、本当は、あまりにも的確な質問に、胸を突かれていた。
「……灰色が、多いと思います。たぶん。混ぜすぎちゃって」
「混ぜすぎると、灰色になる」
「はい。いろんな色を、全部混ぜて、角が立たないようにして。気がつくと、どれが何色だったのか、分からなくなってました」
「でも、それは、元の色がたくさんあったってことでしょう」
拓海の声は、あっさりしていた。
「何色でもなくなるまで混ぜられるくらい、いろんな色を持ってた。俺は、そう思うけどな」
葵は、ガラスに映った自分の顔を見た。揺れる光の向こうに、薄く笑った自分がいた。笑顔だった。けれど、さっきまでの、作った笑顔ではなかった。
*
昼食は、美術館のそばのレストランで食べた。窓際の席から、川沿いの銀杏並木が見える。まだ緑が残る葉と、すでに黄色く染まった葉が、風にゆれてまだらの模様を描いていた。
「そういえば、あの皿」
サラダを取り分けながら、拓海が言った。
「葵さんが言ってた、青い皿。見せてくれる?」
「あ、今、持ってないですけど」
葵は、スマートフォンのアルバムを開いた。会社のデスクの端に置かれた、藍色の小皿の写真が、一枚だけ入っていた。一か月前、誰もいないフロアで、こっそり撮ったものだった。
拓海は、スマートフォンを受け取って、画面を指で拡大した。しばらく、何も言わなかった。
「……きれいだな」
そう言ったあと、顔を上げた。
「どうして、シリーズに入れなかったの?」
「あー……」
葵は、フォークを持つ手を止めた。いつもなら、「攻めすぎかなって思って」と、あの角度の笑顔で答える場面だった。
けれど、拓海の目は、答えを急かしてはいなかった。待っている目だった。
「怖かったんだと思います。私の好きなものを、会社の商品として出して、売れなかったら、……私の好みが、否定されたみたいで」
言ってしまってから、驚いた。それは、自分でも、まだ言葉にしていなかった理由だった。
「無難な色なら、売れなくても、色のせいにできるでしょう。時期とか、価格とか、他の理由にできる。でも、本当に好きな色で外したら、逃げ場がないから」
「そっか」
小さな頷きが返ってきた。
「俺も、同じだ。本当にやりたいことを、仕事で出すのって、怖いよね」
「拓海さんも?」
「うん。まあ、それも、また今度の話にしよう」
冗談めかして、拓海はスマートフォンを葵に返した。指先が、一瞬だけ触れた。それだけのことなのに、葵は、スマートフォンを落としそうになった。
*
その夜、十一時を過ぎた頃、スマートフォンが着信を告げた。画面には、〈拓海〉の二文字。
「もしもし」
「あ、ごめん、遅くに。声が、ちょっと聞きたくなって」
さらりと、とんでもないことを言われた。葵は、ベッドの上で正座していた。
「だ、大丈夫です。起きてました」
「今日はありがとう。パレットの話、ずっと考えてた」
「私も、です」
それから、取り留めのない話をした。美術館の売店で買ったポストカードのこと。拓海の部屋にある、古いマグカップのこと。底に小さな欠けがあるのに、どうしても捨てられないこと。「私も、片方だけになったマグカップがあって」と言いかけて、やめた。まだ、その話をする勇気はなかった。
会話が途切れて、電話の向こうから、微かな呼吸の音だけが聞こえた。以前なら、慌てて話題を探していたはずの沈黙だった。今は、耳を澄ませていた。遠くで、拓海の部屋の時計が、かち、かち、と鳴っている。
「……切りたくないな」
葵は、自分でも気づかないうちに、そう言っていた。
「うん」
「あ、いえ、あの、今のは」
「俺も」
短い返事だった。三秒は、なかった。
その夜、電話を切ったあとも、葵は長いこと、スマートフォンを胸に抱いていた。
*
十一月の第三週の日曜日、二人は、市内のスタジアムにいた。
言い出したのは、拓海だった。「前に、観に行ってたって言ってたでしょう。行ってみない?」。葵は、迷った末に、頷いた。何年ぶりだろう。ゴール裏の席ではなく、二人とも落ち着いてメインスタンドを選んだ。それでも、スタジアムに足を踏み入れた瞬間、肌がぞくりと粟立った。
芝生の緑。両ゴール裏の、青と白のコールの波。メガホンの音。遠くで、屋台の揚げ物の匂い。どれもが、遠い昔の、素直だった頃の自分の記憶を、一気に引きずり出してくる。
「どう? 久しぶり?」
「久しぶりすぎて、ちょっと……泣きそう」
「えっ」
「違います、悲しいんじゃなくて。懐かしくて」
葵が笑うと、拓海も安心したように笑った。
入場ゲートをくぐってすぐ、売店の列に並んだ。
「唐揚げと、ビールは?」
「俺は、ウーロン茶。葵さんは飲んでいいよ」
「あ、じゃあ私も、ウーロン茶で……」
言いかけて、葵は止まった。
「ううん。やっぱりビールにする。大きいほうで」
「了解」
売店のお姉さんに、自分の口で注文した。紙コップのビールは、思ったより重かった。拓海が受け取った唐揚げの袋から、ほかほかと湯気が上がる。
「乾杯」
「何に?」
「久しぶりのスタジアムに」
紙コップが、ぽこ、と間の抜けた音を立てた。
キックオフの笛が鳴ってからしばらくの間、葵はぎこちなく座っていた。周りの人たちは、立ち上がって声を出している。自分だけが、大人しく膝に手を置いて、「いい試合ですね」などと、取り繕った感想を呟いていた。
前半の三十分過ぎ、ゴール前の混戦で、味方の選手が倒れた。笛は鳴らなかった。
「えー、今のファウルでしょ!」
隣の席のおじさんが、大声を上げた。
その瞬間、葵の中で、何かが弾けた。
「どこ見てんのよ、審判! 今のは完全に足、引っかけてたじゃない! ちゃんと見なさいよ!」
気がつくと、立ち上がって叫んでいた。喉の奥から、お腹の底から、声が出た。スタジアムの空気を、びりびりと震わせるような、大きな声だった。周囲の人たちが、「そうだそうだ」と笑いながら同調してくれる。
ハッとして口を押さえたとき、隣の拓海が、肩を震わせているのが見えた。
「……あ、あの、すみません、私、つい」
「ははっ。はははっ。いや、……すごい」
拓海は、目に涙をにじませて、笑っていた。口元を手で覆いながら、それでも抑えきれずに、体ごと揺れている。
「引きましたよね。ごめんなさい。こんな」
「引いてない。全然。……うれしい」
「うれしい?」
「それだよ、葵。それが、見たかったんだ」
——葵。
さん、が、なかった。
葵は、一瞬、言葉を失った。胸に、小さな火が、ぽっと灯ったようだった。拓海は、自分が呼び捨てにしたことに、すぐには気づいていないようだった。ただ、嬉しそうに、ピッチを見たまま笑っている。
後半、味方が決勝ゴールを決めたとき、葵は、拓海と思わずハイタッチをしていた。それから、肩を組んで飛び跳ねた。隣の知らないおじさんとも、後ろの席の親子とも。喉が枯れるまで、叫んだ。
帰り道、駅へ向かう人の波の中を、二人は並んで歩いた。陽が落ちた街の空は、藍色から群青に変わるところだった。夏の終わりに見た、あの青に、よく似ていた。
「ねえ、拓海さん」
「うん」
「最初にお会いしたとき、返事の前に三秒黙るの、どうしてなんですか。真由美が言ってたんです。電波が悪いのかと思ったって」
あはは、と笑い声が上がった。
「やっぱり、言われてたか。……昔、考える前に『いいよ』って言う癖があって」
「いいよ」
「そう。誘われたら、いいよ。頼まれたら、いいよ。どっちでもいいよ。それで、自分が本当はどうしたいのか、何も決めないまま流れてしまったことがあって。だから、返事の前に三秒だけ、本当にそれでいいか、自分に聞くことにしたんだ」
街灯の下で、拓海は照れたように言った。
「おかげで、人には、変な奴だと思われてる」
「……変じゃないです」
葵は、すぐに答えた。
「私、その三秒、好きです」
拓海は驚いた顔をして、それから、また黙った。そして、「ありがとう」と、小さく言った。
「喉、ガラガラです」
「そりゃ、あれだけ叫べば」
「でも、すっきりしました。ずっと、溜め込んでたんだなあって」
「溜め込んでたんだね」
「はい」
そこで、葵は思い切って、聞いた。
「さっき、呼び捨てでしたよね。私のこと」
足が止まった。拓海は鼻の頭をかいて、目を逸らした。
「……あ。今、無意識だった。ごめん。戻す?」
「戻さなくて、いいです」
「え」
「そのままで。……私も、そのうち、さん付け、やめるかもしれないけど」
「それは、楽しみにしておく」
拓海は、とても自然に笑った。夕暮れの空の下で、その笑顔は、どんな色の絵の具でも、うまく混ぜられそうにないと思った。
*
その月の第三週、『ひだまり』シリーズの量産が、予定通り始まった。
工房から、最初の出荷品が会社に届いた朝、企画部のフロアに、小さな拍手が起こった。ダンボールを開けると、緩衝材の間から、卵色や若草色の皿が顔を出す。手に取ると、やわらかく光を返して、陽だまりに置いた湯呑みのように見えた。
「葵さん、すごい。本当に、イメージ通りです」
みなみが、目を輝かせて言った。
「私一人の仕事じゃないよ。みんなで作ったんだから」
葵が笑うと、部長が後ろから、「いや、主担当はやっぱり葵さんだ。よくやった」と言ってくれた。胸が、じんと熱くなった。
昼休み、給湯室でお茶を淹れていると、みなみが近づいてきた。
「葵さん、最近、表情が違いません?」
「え、変かな」
「変じゃないです、いい意味で。なんていうか、前は、いつも笑ってたんですけど、今は、笑ってるときと、そうじゃないときがあるっていうか」
「それ、褒めてる?」
「褒めてます! 人間っぽいです」
「人間っぽい」
「はい。前の葵さんは、ちょっと、完成された人形みたいで」
遠慮のない言い方に、葵は思わず笑った。笑いながら、小さなものが灯った。みなみのような子から見ても、私は、そんなふうに見えていたのか。
ふと、デスクの端を見る。藍色の小皿は、相変わらず、そこにあった。シリーズの商品としては、ラインナップに入らなかった。けれど、葵にとっては、四色と同じくらい、いや、それ以上に、大切な皿になっていた。
「打ち上げ、今週の金曜にやりましょうか」
部長の一言で、プロジェクトに関わったメンバー全員の予定を合わせることになった。企画部、開発課、営業、工房の担当者。十五人ほどの宴席になる。
その金曜の夜、会社近くの居酒屋で、盛大な打ち上げが開かれた。
ジョッキを合わせる音が、あちこちで響く。部長の挨拶に、みなみの涙ぐんだスピーチ。工房の職人さんたちも来てくれて、「葵さんの色は、窯の火を見てて楽しかった」と言ってくれた。冗談を言って、場を盛り上げて、空いたグラスに気を配る。いつもの葵が、そこにいた。
乾杯のあと、隣の席に座っていた営業課長が、ビール瓶を持ってやって来た。
「葵さん、最近、化けたね」
「化けました?」
「うん。前は、何を言っても『いいですね』しか返ってこなかった。今は、『それは違うと思います』って言うだろう」
「……言ってました?」
「先週の会議で。ちゃんと聞いてたよ」
「す、すみません」
「謝るところじゃない。褒めてるんだよ」
課長は笑いながら、葵のグラスにビールを注いだ。泡が、グラスの縁ぎりぎりで止まった。
「じゃあ最後に、主担当の葵さんから、ひと言」
部長に促されて、葵は立ち上がった。拍手の中で、グラスを持つ。いつものように、軽い冗談で始めようとして、口を開きかけた。
「えっと、……今回、正直に言うと、ずっと自信がなかったです」
座敷の空気が、変わった。自分でも、何を言い出したのか、分からなかった。でも、口が止まらなかった。
「色を決めるのも、形を決めるのも、いつも怖くて。売れなかったらどうしようとか、誰かに否定されたらどうしようとか。だから、無難なほうにばかり行ってました。それでも、みなさんが一緒に悩んでくれて、ここまで連れてきてもらえました。……本当に、ありがとうございました」
頭を下げると、一瞬の静けさのあと、大きな拍手が起こった。みなみは、目をうるませている。部長は、「葵さん、今のが一番いい挨拶だった」と言った。
顔を上げたとき、座敷の端で、高梨さんが、じっとこちらを見ていた。
「葵さん」
二次会を終えて店を出たところで、後ろから声をかけられた。
高梨さんだった。白い息を吐きながら、ポケットに手を入れて立っている。いつもよりも、緊張した面持ちだった。
「ちょっとだけ、時間もらえるかな。話したいことがあるんだ」
同じプロジェクトで、苦楽を共にした同僚だった。真面目で物静かな印象があった彼が、そんなふうに頼みごとをするのは、初めてだった。
「あ、はい。いいですけど」
連れていかれたのは、裏通りの、小さなバーだった。
*
カウンターの端の席に並んで座り、頼んだカクテルのグラスを揺らしながら、高梨さんはしばらく黙っていた。グラスの縁を、指でなぞっている。バーの照明は暗く、彼の横顔は、影になって見えにくい。
「今日、おつかれさまでした」
「こちらこそ、本当にありがとうございました。高梨さんがいなかったら、あの色は、出せませんでした」
「それは、俺の仕事ですから」
「高梨さんは、どうしてこの仕事に?」
「実家が、瀬戸物屋だったんです。割れた皿を、捨てられない家で」
「捨てられない?」
「金継ぎして使う。欠けたやつは、猫の餌皿にする。そういう家でした」
「素敵ですね」
「貧乏くさいって、昔は嫌だったんですけど。今は、ああいう皿が、一番いい皿だったと思います」
高梨さんは、グラスの縁を指でなぞった。
「だから、葵さんが藍の皿を洗って、ちゃんと使ってるのを見たとき、この人は分かる人だなって思ったんです。……それで、その」
彼は、言いにくそうに、言葉を探した。
「話って、実は、仕事のことじゃなくて」
葵は首をかしげた。「どうかしたんですか? 急に真面目な顔して」
彼は、グラスから目を離した。真っ直ぐに、葵を見つめた。その瞳の真剣さに、葵は思わず、息を呑んだ。
「俺、ずっと、近くで葵さんの仕事を見てたんだ」
低い声が、バーの音楽の合間に、ぽつりと落ちた。
「葵さんって、いつも職場で誰にでも明るく接して、場を盛り上げようとしてるよね。周りは、『葵さんは、いつも元気で楽しそうだな』って思ってるかもしれない。でも、俺には、そう見えなかったんだ」
——え?
葵の心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
「いつも笑顔を作って、自分の疲れとか愚痴とかを、一切見せないようにして。必死に周りに気を配って、一人で全部抱え込んでるみたいに、見えて仕方がなかった。後輩のミスを、自分が悪かったことにして、庇ってたの、何回も見た。それが優しさだってことも分かる。でも、……見てて、苦しかった」
グラスを握る葵の指が、冷たくなっていく。
「最初に気づいたのは、あの、藍の皿のときだった。葵さん、見本を手に取って、息を止めてた。あんなふうに、心から綺麗だって顔をした人が、『攻めすぎかな』って笑ってラインナップから外すのを見て。……笑ってるのに、泣きそうな顔に見えた」
葵は、何も言えなかった。
「そんな葵さんの、不器用で、でも誰よりも真面目なところを、ずっと近くで見ていて。いつの間にか、惹かれていたんだ」
そこで一度、息をつく音がした。
「俺と、付き合ってほしい。葵さんが、無理に笑わなくていい日も、一緒にいたい」
「私……」葵はグラスに目を落とした。結露の雫が、コースターの縁からテーブルへ落ちる。笑って取り繕おうとした唇を、そっと閉じた。
「ありがたいです。でも、今、すぐには答えられません」
言い終えても、高梨さんは顔をしかめなかった。葵はグラスを置き、初めて、自分のために返事を待ってもらう時間を選んだ。
「今すぐ返事じゃなくていい。俺の気持ちを知っておいてほしかっただけだから」
「それと、返事がどうなっても、仕事は今までどおりだから。そこは、ちゃんと分ける」
*
バーを出て、駅で別れたのは、日付が変わる前だった。
一人で電車に揺られながら、葵は、窓に映る自分の顔を見つめた。頬が熱い。いつもなら答えを急いで、相手を安心させる言葉を探していた。今夜は、返事を保留したまま電車に乗った。
——私は、どうしたいんだろう。
心に浮かぶのは、拓海の優しい笑顔だった。呼び捨てにされたときの、胸の奥の火。ハイタッチのときの掌の熱。パレットの前で、「元の色がたくさんあったってことでしょう」と言った声。
スマートフォンが震えた。拓海からだった。
〈打ち上げ、お疲れさま。楽しかった?〉
葵は、画面を見つめた。「楽しかった」と答えるのが、一番簡単だった。実際、楽しかった。ただ、その後のことは、言えなかった。
親指が、画面の上で、止まる。
〈うん、楽しかったよ! 疲れたから、もう寝るね〉
返信の吹き出しを見つめた。さっき、自分は「楽しかった」と書いた。そのあとに続けたい言葉を、まだ持てずにいた。
〈今度、ちゃんと話せる?〉と打ってみた。送らずに消した。代わりに、スマートフォンを伏せて湯を沸かした。沸騰を知らせる音が鳴っても、葵はしばらく椅子から立てなかった。
拓海と「付き合う」という言葉を交わしたことは、まだない。葵はトーク画面を閉じた。週末には会える。今度は、聞かれたことだけでなく、自分が聞きたいことも口にしよう。
週明けの月曜日、出社した葵は、扉の前で一度、深呼吸をした。
高梨さんは、いつもと変わらない顔で、自分の席にいた。目が合うと、軽く会釈をしただけで、すぐにモニターに視線を戻す。何も変わらない。変わらないように、してくれている。その気遣いが、かえって胸に刺さった。
昼前、デスクの上に、紙コップのカフェオレが置かれていた。付箋も、メモもない。ただ、葵がいつも飲むカフェオレの、砂糖少なめの味だった。
「あ、それ、高梨さんが置いてましたよ」
みなみが、小声で教えてくれた。
「葵さん、最近、高梨さんからよく話しかけられてません? もしかして」
「違うよ。仕事のことだよ」
反射的に、笑って否定した。みなみは「そうですかあ?」と首をかしげる。
「みなみちゃん、午後の資料、私が引き受けるって言ったけど、やっぱり最初の集計はお願いできる?」
「あ、はい。もちろんです」
「ありがとう。私も今、別の仕事を片づけたいんだ」
葵はカフェオレを一口飲んだ。ぬるくなる前に、高梨さんに礼を言おう。そう決めたのに、席を立つまでに十分かかった。
給湯室の前で、高梨さんとすれ違った。
「あの、コーヒー、ありがとうございました」
「いえ。冷める前に、飲んでもらえたなら」
「……はい。おいしかったです」
「それなら、よかった」
返事のことは、どちらも口にしなかった。葵は空になった紙コップを捨て、午後の会議室へ向かった。
答えの出ない迷いを抱えたまま、次の週末、葵は約束どおり、拓海と会うことになっていた。




