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陽だまりのパレット  作者: 久遠 睦


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第6章:駅までの帰り道、こぼれた本音

会計のとき、葵は反射的に財布を取り出して、「私、まとめて払いますね。今日は誘っていただいたので」と言いかけた。


「待って」


拓海が、片手でそれを止めた。


「それはおかしいですよ。誘ったのは真由美でしょう。割り勘にしましょう。飲んだ分とか細かいことは言わないから、三等分で」


「でも、私が一番、言い出しやすいので」


「言い出しやすいとか、関係ないです。普通に三等分」


真由美が、隣で肩を揺らして笑った。


「ほら、こういう奴なの」


「どういう奴ですか」


「お金のことで、気を遣わせない奴」


結局、三等分で支払った。葵は、小銭を数えながら、何度目かの驚きを感じていた。「ごちそうする」と言われても、「ごちそうさせて」と言っても、どちらも相手に気を遣わせることになる。けれど、きれいな三等分には、遠慮も貸し借りもなかった。ただ、対等だった。


暖簾をくぐると、ひんやりとした夜風が、火照った頬に心地よく吹き抜けた。


「ごちそうさまでした。また来ます」


拓海が頭を下げると、カウンターの中から大将が顔を上げた。


「ええ、お待ちしてますよ。お嬢さんたちも、ぜひまた」


お嬢さん、と言われて、葵は慌てて会釈を返した。三十一歳の自分が、そんなふうに呼ばれるとは思わなかった。真由美が隣で「聞いた? 私たち、お嬢さんだって」と小声で嬉しそうにしている。


路地を抜けて商店街に出ると、土曜の夜の人の波が、三人を飲み込んだ。閉まりかけたシャッターの前を、酔った人たちの笑い声が通り過ぎていく。


「今日は、本当にありがとう。すごく楽しかった!」


真由美が、アーケードの切れ目で足を止めた。


「あ、私、ここのバス停から帰るから。じゃあ私はこっちね! 二人とも、気をつけて帰ってね!」


「え、真由美、駅まで一緒じゃ」


「私、今日はバスの気分なの」


「そんな気分ある?」


「ある。じゃあね、また連絡する!」


最後の最後で、真由美は葵にだけ分かるように、人差し指を口に当ててウインクをした。そして、止める間もなく、小走りで大通りの方へ消えていった。


「……あいつ、バス使うの、見たことないんだけどな」


拓海が、呆れたような、けれどどこか楽しそうな声でつぶやいた。


「絶妙なタイミングで、スマートに消えましたよね」


「ええ。ああいう気の回し方、うまいんです。本人は絶対認めないけど」


二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。そして、残された沈黙の中で、駅の方角へ歩き出した。


*


商店街の中ほどで、拓海がふと足を止めた。アーケードの脇に、鳥居が見えた。夜の闇の中に、提灯の灯りが、ぽつんと浮かんでいる。


「ちょっと寄ってもいい? 東京にいる間、ここだけは、夢に出たんだ」


境内は、人影もなく、しんとしていた。玉砂利を踏む音だけが、二人分、響く。拓海は賽銭箱の前で小銭を投げ入れ、二礼二拍手。葵も、隣で真似をした。


目を閉じて、手を合わせる。何を願おうか、と考えて、すぐには浮かばなかった。「ちゃんとした恋愛がしたい」と願うのは、違う気がした。かわりに、心の中でそっと唱えた。


——怖がらずに、本当のことを言える人でいられますように。


目を開けると、拓海はまだ手を合わせていた。長かった。三秒どころではなかった。


「何をお願いしたの?」


境内を出てから聞くと、拓海は、少しだけ笑った。


「内緒。葵さんは?」


「内緒です」


「じゃあ、おそろいだ」


そう言って、笑った。


神社の脇には、無人のおみくじの棚があった。


「引く?」


「引きます」


百円玉を箱に入れて、六角形の筒を振る。出てきた番号の紙を、棚から一枚ずつ取った。


「末吉でした」


葵が読み上げると、拓海が自分の紙を広げた。


「……凶」


「えっ」


「久しぶりに引いたら、凶か」


拓海は、眉を寄せて紙を読んだ。


「待ち人、来る。遅れて来るが、必ず来る」


「待ち人」


「俺、待ってないんだけどな」


そう言ってから、拓海は、ちらりと葵を見た。それから、紙を細く折って、境内の木の枝に結んだ。


「結ぶんですか」


「凶は、結んで帰るもんだって、子どもの頃に教わった」


葵は、自分の末吉を、財布の中に入れた。結ばずに、持って帰りたかった。


商店街を抜けて、大川沿いの遊歩道に出ると、夜空が一気に開けた。


対岸のビルの明かりが、川面に長く揺れている。ところどころに並ぶ街灯が、葉の落ち始めた桜並木を、淡い橙色に照らしていた。足元を、乾いた落ち葉がカサ、と鳴らす。


周囲の喧騒が遠ざかって、川沿いの道は、思いがけないほど静かだった。ふたりで並んで歩く距離感に、葵の胸の鼓動が、速くなるのを感じる。


初対面なのに、なぜか隣にいて息苦しくない。アプリで知り合った男性たちと会ったときは、いつも「よく見せなければ」「話題を切らさないようにしなければ」と、心も体もガチガチに緊張していたのに。拓海の隣には、不思議なほどの安心感があった。


気づくと、歩幅が合っている。葵は歩くのが遅いほうで、いつも誰かに合わせようとして早足になるのが癖なのに、拓海の足は、ごく自然に、葵の速度に寄り添っていた。


橋のたもとでは、ギターを抱えた青年が、小さな声で歌っていた。立ち止まる人はまばらで、足元のケースには、コインが数枚だけ光っている。通り過ぎるとき、拓海が千円札を一枚、ケースに入れた。青年が顔を上げて、会釈をする。拓海も軽く頭を下げただけで、何も言わずに歩き続けた。


「あの」


数歩進んだところで、青年の声が追いかけてきた。


「千円も、ありがとうございます。何か、リクエストありますか。弾ける曲なら」


足音が止まった。拓海が、葵のほうを見る。


「なんでもいいです」


「それが一番困りますよね」


葵が思わず言うと、青年が笑った。


「ですよね。じゃあ、おまかせで」


弾き語りが、また始まった。さっきより、声が前に出ていた。二人はしばらく、橋の欄干にもたれて聞いていた。


そういうことを、誰に見せるでもなくやる人なのだと思った。


ふと気づくと、スマートフォンを、もう三時間も見ていなかった。バッグの中で何かが震えた気もしたが、取り出す気にならなかった。


「寒くないですか」


「あ、はい。大丈夫です」


反射で答えて、葵は黙った。それから、思い直して、言い直した。


「……ちょっと、寒いです。手が」


「あ、ほんとだ」


拓海は、立ち止まった。そばの自動販売機の前に歩いていって、ポケットから小銭を出す。ガコン、ガコン、と二回、鈍い音がして、缶が落ちた。


「これ、どうぞ。温かいやつ」


差し出された緑茶の缶は、手のひらにじんわりと熱かった。


「ありがとうございます。……あったかい」


「でしょ。ここ、昔から自販機の位置が変わらないんです。冬になると、これがないと歩けなくて」


ベンチを指さして、二人で腰を下ろした。川の流れが、街灯の光をゆらゆらと砕いている。缶の熱を両手で受け止めながら、葵は何を話そうかと考えて、考えるのをやめた。


「葵さんは、大学のときは、何を勉強してたの」


「消費者行動、っていうゼミです。人が、何を選んで、何を買うのかを調べる」


「へえ」


「面白かったのは、人は色で選んでるくせに、理由を聞かれると、値段とか機能とかって答えるんです。本当は、好きだからなのに」


「好きって言うのが、恥ずかしいんだ」


「たぶん。そのほうが、言い訳が立つから」


言ってから、葵は気づいた。自分のことを話していた。拓海は、わざとらしく感心するでもなく、「そうか」とだけ言って、缶に口をつけた。


「真由美とは、大学のときからの付き合いなんですよね」


先に沈黙を破ったのは、拓海だった。


「あ、はい! 大学のゼミが一緒で。真由美とは、もう十年以上の付き合いで……」


葵が笑顔で答えようとしたとき、拓海は、ふと視線を落とした。間があった。


「あのさ、……真由美から、ちょっとだけ聞いてたんです」


言いにくそうな声音だった。


「葵さんが最近、マッチングアプリとかも試してみたけど、すごく疲れちゃって、なかなか休まらなかったって。勝手に聞いて、すみません」


その言葉に、葵の体の中の何かが、ぴたりと動きを止めた。


アプリの冷たい画面の向こうで、一人、涙をこらえながら画面を閉じた夜の記憶が、鮮やかに蘇った。ホテルに誘われた夜。ユウトに値踏みされた午後。誰にも言えず、自分の中に押し込めていたはずの疲れと孤独を、目の前の人が、こうして、まっすぐ受け止めようとしてくれている。


気づいたときには、口が先に動いていた。


「……私、ダメなんです」


自分でも驚くほど、震えた声が、夜の闇にこぼれ落ちた。


*


「アプリも、周りに勧められて登録してみたんですけど。画面の向こうの人たちが、なんだか、みんな記号みたいに見えてしまって。メッセージをやり取りしていても、相手の温度が全然伝わらなくて。ただ、自分のエネルギーだけが、どんどん削られていくみたいで……怖くなっちゃったんです」


俯いた視線の先に、自分の靴のつま先があった。ヒールの先に、小さな泥の跡がついている。


「私、誰とでも分け隔てなく、明るくしちゃう癖があって。職場でも、友人の前でも、いつでも『楽しい葵』でいようとしてしまうんです。だから、これまで付き合った人にも、『本当の気持ちが見えない』とか、『自分にだけ向けられた笑顔じゃないみたいで、不安になる』って言われて。結局、みんな、疲れさせてしまって」


康平の顔が、浮かんだ。去年の冬の、あの人の顔も。


「この間も、言われたんです。『葵って、俺がいなくても平気そうだよね』って。私、そのとき、笑って『そんなことないよ』って返したんです。……でも、本当は、全然、平気じゃなかったのに」


そこまで一気に話すと、こらえきれなかった涙が、ポロリと頬を伝った。


慌てて、手の甲で拭った。止まらない。あとから、あとから、溢れてくる。こんなところで、泣くはずじゃなかったのに。


初対面に近い男性に、こんな重い話をするべきではなかった。面倒くさい女だと思われる。引かれる。そう考えた途端、全身が冷えた。


「ごめんなさい、変なこと言っちゃって……忘れてください、今の」


「忘れません」


拓海の声が、被さった。


思いがけず、強い声だった。葵は、はっと顔を上げた。


拓海は驚いている様子もなかった。ただ、手の中の缶を握ったまま、川面を見つめていた。その横顔は、いつもの穏やかさのままなのに、何かを言葉にするための、静かな準備をしているように見えた。


五秒。十秒。


「謝ることなんて、何もないですよ」


そう言ってから、彼は、照れたように続けた。


「……葵さんも、敬語、やめてもいいよ。さっきから、俺だけ崩れてるから」


「あ、はい。……うん」


「ありがとう」


「アプリがしんどかったのは、当たり前だと思う。画面越しじゃ、お互いの本当のところは、伝わらないから。声の温度とか、間の取り方とか、そういうのがぜんぶ抜け落ちてるのに、それで人を選べなんて、無茶だよ」


「でも、みんな、普通にやってるのに」


「普通にやってる人が、全員、平気なわけじゃないでしょう。向いてる人もいれば、向いてない人もいる。葵さんは、たぶん、向いてなかった。それだけの話だと思う」


「向いてなかった」


「うん。性格が悪いんじゃなくて、向いてなかった」


それは、葵が今まで一度も、自分に言ってあげられなかった言い方だった。ダメな自分、という言い方しか知らなかったから。向いていないだけ、という言葉は、胸の中の絡まった糸に、そっと指先を差し込まれたような感覚があった。


「それに」


言葉を選ぶ間が、また、あった。


「『誰にでも明るくしちゃう』って、悪いことばかりじゃないと思うんだ。それだけ、周りの人を大切にしようとしてるってことでしょう。全員に優しくしようと思ったら、疲れるのは当たり前で。不器用かもしれないけど、すごく優しくて、あたたかい生き方だと、俺は思う」


「……そんなふうに言われたの、初めてです」


「そう?」


「みんな、『明るくていいね』って言うんです。『楽しいね』って。それは、私が演じてる部分のことで。私が苦しいのは、演じてることのほうなのに」


「うん」


「そこを、優しいって言われたのは、初めてで」


声が、また震えた。拓海は、何も言わずに、ポケットからハンカチを取り出して、葵の膝の上にそっと置いた。使い込まれた、紺色のハンカチだった。洗いざらしの柔らかい匂いがした。


葵はそのハンカチを両手で握ったまま、すぐには顔を上げられなかった。「優しい」という言葉を否定する言い方を探したけれど、見つからなかった。見つからないまま、そこに置いておくことにした。


*


涙が止まるまで、拓海は黙って隣にいてくれた。


川風が、枯れ葉を一枚、足元に運んできた。その枯れ葉が、ベンチの下に落ちて、カサ、と鳴る。それだけの音を、二人でじっと聞いていた。


「子どもの頃から、なんです」


気がつくと、葵はぽつりと言っていた。


「うちの両親、よく夕飯の席で喧嘩してて。私が冗談を言って、変な顔をしたら、二人とも笑って、喧嘩が止まって。それが成功してから、笑うのが、私の仕事になっちゃって」


話しながら、自分でも驚いていた。こんなこと、真由美にも話したことがない。


頷きながら聞いていた拓海が、間を置いてから口を開いた。


「小さかった葵さんが、一人で、家の空気を守ってたんだね」


その言い方に、息が止まりそうになった。——守っていた。そんなふうに考えたことは、なかった。ただ、効くからやっていただけだと思っていた。


「でも、守らなくて、よかったんだよね。本当は。子どもは」


「……はい」


「大人になった今も、まだ守り続けてるなら、そろそろ交代してもらっていいと思う。その、小さい葵さんに」


誰と交代するのだろう、と思いながら、葵はまた涙をこぼした。それでも、その言葉の意味だけは、体が先に理解していた。


やがて、葵がハンカチで目元を押さえて、鼻をすすりながら、小さく笑った。


「……すみません。ハンカチ、洗って返します」


「いいよ、そのままで。あ、でも」


「でも?」


「次に会う口実がなくなっちゃうから、返してもらおうかな」


言ってから、拓海は自分で、驚いたような顔をした。耳の先が、街灯の下でも分かるほど赤くなっていた。


葵は、まばたきをした。そして、もう一度、笑った。今度は、涙のまじらない、息のこぼれるような笑いだった。


「……じゃあ、洗って、返しますね」


「うん。お願いします」


缶の緑茶は、いつの間にかぬるくなっていた。それでも、飲み干したときの喉の奥が、なぜか、いつまでも温かかった。


「あの」と、葵は空き缶をいじりながら言った。「文句の練習、あれから毎日、続けてるんです」


「いい習慣だね」


拓海は頷いた。


「俺も、今日の分、言っていい?」


「どうぞ」


「出汁巻き、もう一皿食べたかった」


「それ、文句なんですか」


「文句だよ。注文し忘れた俺への、文句」


くだらなくて、葵は声を出して笑った。笑いながら、気づいた。この人の前では、笑うことと泣くことの間に、壁がない。


「ねえ」と、拓海が言った。「せっかくだから、実践編、やってみない?」


「実践編?」


「アプリで嫌な思いをしたこと、ひとつ思い出して。その相手に、言いたかったことを、川に向かって言ってみる」


「えっ、ここで?」


「誰もいない。俺は聞かなかったことにする」


「声の出し方、教えようか」


「声の出し方?」


「ゴール裏で鍛えたから。喉で出さないで、腹から」


拓海は、自分の腹を軽く叩いてみせた。


「こう」


「こう?」


「もうちょっと下」


「ここ?」


「そう。そこに、石を一個置いたつもりで、そこから投げる」


あまりに真剣な声なので、葵はまた笑ってしまった。笑ったせいで、体の力がほどよく抜けた。


葵は、おそるおそる、立ち上がった。川の向こうの、ビルの灯りが揺れている。「ホテルを取ってある」と言った、顔の見えないメッセージ。ユウトの、値踏みするような「ちなみに年収は」。


小さく、息を吸った。


「……ふざけんな」


思っていたより、か細い声だった。


「もっと」


後ろから、拓海の声がした。


「ふざけんな。……私は、誰でもいい誰かじゃない」


声が、大きくなった。もう一度、息を吸う。


「私は、誰でもいい誰かじゃない!」


川面に、声が吸い込まれていった。静寂が戻ったとき、葵の体は、さっきまでよりも、ずっと軽かった。


振り返ると、拓海は、両手で口元を覆って、肩を震わせていた。


「……聞こえてた?」


「聞こえなかったことにする」


「嘘つき」


二人で、声を押し殺して笑った。


「ねえ、拓海さん」


「うん」


「さっき、『俺も』って顔をしてましたよね。私が、『誰にでも明るくしちゃう』って言ったとき」


意表を突かれたような目が、苦笑に変わった。


「見られてたか」


「ちょっとだけ」


「……うん。俺も、似たようなことで、失敗した人間だから。誰にも怒れなくて、物わかりのいいふりばっかりしてて」


そこで、彼は口をつぐんだ。しばらくして、首を振った。


「それは、また今度、話すよ。今日は、葵さんの番だったから」


「今日は、私の番」


「うん。次は、俺の番」


次、という言葉が、胸の中でころんと転がった。


遠くで、電車の通過する音が聞こえた。時計を見ると、もう十一時近かった。


*


駅が近づくにつれて、葵は、無意識に身構えていた。アプリで会った男性たちとは、別れ際に決まって、同じ空気が流れたからだ。「もう一軒行きません?」「終電、まだ大丈夫ですよね?」。そのたびに、笑って、うまくかわしてきた。


彼は、そのどれも口にしなかった。駅の改札の前で、拓海は足を止めた。


「じゃあ、俺は反対のホームだから」


「あ、はい。今日は、本当に、ありがとうございました」


頭を下げようとして、葵はふと、口が勝手に動くのを感じた。


「また、今度ぜひ、ご飯でも行きましょうね」


言ってしまってから、胸がちくりとした。これは、社交辞令だ。別れ際に反射的に口から出る、あの言葉。何十回、何百回と、使い慣れてきた台詞。


一瞬、間があった。


「それ、社交辞令ですか」


「え」


「ごめん、意地悪な言い方した。でも、気になって。俺は、本気で言ってるつもりだから」


まっすぐな目だった。からかう気配はどこにもなかった。


葵は、ぎゅっと、バッグの持ち手を握った。喉の奥で、いくつもの言葉が、押し合っている。


——社交辞令です、ごめんなさい。


——社交辞令じゃ、ないです。


後者のほうが、ずっと、小さな声だった。


「……社交辞令じゃ、ないです」


「よかった」


ほっとしたような笑い声が返ってきた。


「じゃあ、連絡先、交換してもらってもいい? ハンカチを返してもらうためにも」


「はい」


スマートフォンを取り出して、画面を向け合う。ぴこん、と小さな音がして、「拓海」という名前が、葵の画面に表示された。アイコンは、どこかの海辺の夕暮れの写真だった。


「来週の土曜、空いてる?」


「……え」


「もしよかったら、昼間、どこかお茶でも。美術館とかでもいいけど。急ぎすぎなら、断っていいから」


葵は、すぐには答えられなかった。急ぎすぎ、ではなかった。むしろ、あまりにも、まっすぐに誘われたことに、戸惑っていた。いつもなら、予定を確認するふりをして、三日後に返事をする。そうやって、相手との距離を、慎重に測ってきた。


けれど、今夜は、そんな計算をする気になれなかった。


「空いてます」


自分の声が、ひどく素直に、夜の駅に響いた。


「美術館、行きたいです」


「じゃあ、決まり」


拓海は、笑って手を振った。改札の向こうに、背の高い背中が遠ざかっていく。階段の手前で、一度だけ振り返って、軽く手を上げた。


葵は、ホームの階段を上りながら、スマートフォンを胸の前で握りしめた。耳の奥で、さっき自分で言った言葉が、何度もこだましている。——空いてます。


ホームに立つと、線路を挟んだ向かい側に、拓海の姿が見えた。ちょうど、反対方向の電車を待っているところだった。目が合う。拓海が、ポケットからスマートフォンを取り出して、画面を掲げた。ぴこん、と手の中で通知が鳴る。


〈見えてる〉


葵は、吹き出した。〈こっちも見えてる〉と打って、手を振った。拓海も、大きく手を振った。線路の向こうで、小さな画面が白く光った。


やがて、先に葵の乗る電車がホームに滑り込んできた。ドアが開く直前、もう一度だけ向かいを見ると、拓海はまだ手を上げていた。


電車の窓に、自分の顔が映った。目の縁が、赤い。化粧が、崩れている。それなのに、いつもよりずっと、素顔に近い気がした。


ポケットの中で、スマートフォンが震えた。画面を見ると、拓海からだった。


〈今日は、話してくれてありがとう。聞けてよかった。おやすみ〉


たった三行の、飾り気のないメッセージだった。絵文字も、スタンプもない。それなのに、画面の文字は、アプリの何百通のメッセージよりも、ずっと体温を持っているように見えた。


葵は、返信を打った。送信する前に、何度も読み返した。


〈こちらこそ、聞いてくれてありがとう。ハンカチ、ちゃんと洗って返しますね。おやすみなさい〉


帰宅して、洗面台に水をためた。借りたハンカチを沈めて、手で押し洗いをする。紺色の布から、柔らかい石けんの香りと、他人の家の匂いが、かすかにした。固く絞って、タオルハンガーに吊るす。


ハンカチを干したあと、葵は冷蔵庫を開いた。明日の朝食には卵が足りない。いつもなら仕事帰りに間に合わせで買うところだったが、明日は近所のパン屋に寄ろうと決め、買い物用の袋を玄関に置いた。誰かに合わせる予定のない日曜日だった。


そういえば、寝る前の分の文句を、まだ言っていなかった。鏡の前に立って、考えてみる。電車が混んでいた。——いや、座れた。ご飯が遅かった。——いや、おいしかった。結局、何も見つからなかった。


「……今日は、文句がない」


そうつぶやいたら可笑しくなって、ひとりで笑った。笑ってから、気づいた。誰も見ていない部屋の中でも、口角は上がっていなかった。それでも、頬の筋肉が、やわらかくゆるんでいた。作った笑顔ではない、ただのゆるみだった。


窓を開けると夜風が入ってきた。葵は洗ったハンカチの端が揺れるのを見てから、窓を閉めた。


翌朝、日曜の九時過ぎに、スマートフォンが鳴った。画面に出た名前を見て、葵は布団の中で笑った。


「起きてた?」


「起きてた。ていうか、まだ布団」


「どうだった?」


「どうって」


「どうって、じゃない。バスの気分から先、全部聞きたい」


「真由美、バス乗ってないでしょ」


「乗ったよ。反対方向に」


「やっぱり乗ってなかったんだ」


電話の向こうで、真由美が声をあげて笑った。葵は天井を見たまま、迷ってから言った。


「泣いた」


「え」


「川のそばで、泣いて、それから叫んだ」


「叫んだ?」


「『私は、誰でもいい誰かじゃない』って」


真由美は、黙った。受話口から、小さく息を吸う音だけが聞こえた。


「……よく叫んだ」


「拓海さんが教えてくれたの。声は、腹から出すんだって」


「あいつ、そんなことしたの」


「あと、連絡先も交換した。来週、美術館に行く」


「はああ?」


今度は、耳が痛くなるほどの声だった。


「速攻じゃん」


「速攻なの?」


「あいつにしては、超速攻。自分から人を誘うところなんて、見たことないもん」


「そう、なんだ」


「そうなの。……ねえ、葵」


声の調子が、変わった。


「もし傷つくことがあったら、すぐ言って。私が殴りに行くから」


「また殴りに行くの」


「何度でも行く。あんたのためなら、何度でも」


葵は、布団を鼻の上まで引き上げた。目の奥がじんとして、それでも口元は、勝手にゆるんでいた。


「……ありがとう」


「どういたしまして。で、服はなに着ていくの」


「それ、今から考える」


「見せなさい。写真撮って送って」


朝の光が、カーテンの隙間から、細く床に伸びていた。



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