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陽だまりのパレット  作者: 久遠 睦


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第5章:拓海という「体温」

その日の昼過ぎ、真由美から短いメッセージが届いた。


〈今日は無理しないこと。つまらなかったら、帰っていい。私が許可する〉


〈うん。ありがとう〉


〈あと、笑いすぎないこと。顔、疲れるから〉


最後の一行に、葵は思わず画面の前で吹き出した。顔が疲れるというのは、本当によく分かっている人の言葉だった。


十月の最後の土曜日、真由美が予約してくれた居酒屋は、天満の商店街から一本入った細い路地の奥にあった。


看板は、墨で書かれた店名が小さく掲げられているだけ。紺色の暖簾をくぐると、炭火の香ばしい匂いと出汁の湯気が、ふわりと頬に触れた。木目のカウンターが八席と、奥に小上がりが一つ。控えめな照明が、飴色の壁を柔らかく照らしている。駅前の喧騒から、ほんの数分歩いただけとは思えない静けさだった。


「いらっしゃい。ご予約の方ですか」


カウンターの中から、白い調理服を着た初老の大将が顔を上げた。


「あ、はい。原田さんで予約が入っているはずなんですが」


「ああ、原田さん。奥の小上がりを空けてありますよ。お連れ様は?」


「後から来ます。私が、早く着いちゃって」


腕時計を見ると、約束の十分前だった。早すぎると思われそうで、駅のコンビニで時間をつぶしてから来たのに、それでも先に着いてしまったらしい。


案内された小上がりの座布団に腰を下ろして、葵は大きく息を吐いた。木のテーブルの縁を、指先でなぞる。つるりと撫でられて、角の丸くなった木肌が、手のひらに優しかった。


「お飲み物は、お連れ様が来てからにしますか?」


「えっと、はい。……あ、でもウーロン茶だけ、先にお願いします」


「かしこまりました」


運ばれてきたウーロン茶のグラスを両手で包んで、葵は壁に掛かった小さな木札のメニューを眺めた。出汁巻き、さつま揚げ、鯖の味噌煮、季節の茸の炭火焼き。どれも手書きで、右上がりの字だった。見ているだけで、緊張がほどけていく。


——今日は、練習の日。


心の中で、そう唱えた。無理に笑わなくていい。面白いことを言わなくてもいい。ただ、座って、食べて、話を聞く。できれば、一つくらい、本当のことを言う。それだけでいい。


ガラスの引き戸に映った自分を見ると、カーディガンの襟が曲がっていた。直そうとして手を伸ばしたとき、入口の戸ががらがらと開く音がした。


「お待たせ! ごめん、遅れちゃった!」


真由美の声だった。


葵が顔を上げると、暖簾をくぐって入ってきた真由美の後ろから、背の高い男性が、身をかがめるようにして姿を現した。ジャケットを腕にかけて、シャツの袖を無造作にまくっている。目元が穏やかで、肩の力が抜けていた。


「はじめまして。拓海です」


彼は、そこで、口を閉じた。


一秒。二秒。三秒。


葵は、何を言えばいいか分からず、中途半端な笑顔のまま固まった。真由美の言っていた「三秒」とは、このことか。確かに、電波が悪くなったのかと思う。


「……真由美から、色々聞いてます。今日は、よろしくお願いします」


拓海はようやく、続きを口にした。三秒の黙のあとに出てきた声は、低くて、掠れていて、それなのに、驚くほど耳に馴染む響きだった。


「こちらこそ。あの、葵です。今日は、お招きいただいて」


「いや、俺が招いたわけじゃなくて、真由美が一方的に」


「ちょっと、人を黒幕みたいに言わないで」


真由美が肘で拓海の脇腹をつつく。拓海は「痛い」と言いながら、目を細めて笑った。そのとき初めて、整った顔立ちの中に、どこか不器用で親しみやすい表情が混ざった。作り物ではない、自然な笑顔だった。


*


注文は、真由美が仕切った。


「とりあえず生ビール。葵は?」


「あ、私はさっきのウーロン茶で……いや、やっぱり私もビールにしようかな」


「拓海は、ウーロン茶だよね?」


「今日は、いいや。最近ちょっと控えてて」


「出た。優等生」


「違うって。単に、弱くなっただけ」


乾杯のとき、拓海はウーロン茶のグラスを、葵と真由美のビールにそっと合わせた。「お疲れ様」という声が、三人の間で小さく重なる。


出汁巻き卵が、すぐに運ばれてきた。湯気の立つ黄色い断面に、箸を入れると、じゅわっと出汁が染み出した。ひとくち口に入れた瞬間、思わず「おいしい」と声が漏れた。


「でしょ。この店、拓海が東京に行く前から通ってたんだって」


「そうなんです。大将が代わってなくて、ほっとした」


拓海は、カウンターの方を振り返って、軽く会釈をした。大将が、気づいたように小さく頷く。


「東京の出汁って、どうですか?」


葵が尋ねると、拓海は例によって、間を置いた。真由美が横で「ほら、始まった」という顔をする。


「……濃いです。しょうゆが、強い。最初の頃は、美味しいと思ってたんだけど、そのうち、味が濃くて疲れるようになって。ここの出汁巻きを食べると、体のほうが先に、帰ってきたって言うんです」


「体のほうが、先に」


「ええ。頭より先に、胃が」


真面目な顔で言うので、葵は思わず吹き出しそうになった。真由美が、「こいつは昔から、こういう変なこと言うの」と補足した。


話題は、自然と、真由美と拓海の学生時代の思い出へと移っていった。同じ塾で、小学生に算数を教えていた頃のこと。


「拓海ね、講師の中で、一番生徒に人気があって、一番保護者に嫌われてたんだよ」


「嫌われてないって」


「嫌われてたよ。一回、保護者面談で、『お子さんは頑張ってます。でも、お母さんが宿題を代わりにやってる形跡があります』って、はっきり言っちゃって」


「事実だったんだ。消しゴムのカスが、明らかに大人の筆圧で」


「それを言う必要はなかったでしょ!」


「でも、そのままにしておいたら、あの子が困るから」


拓海は、悪びれた様子もなく、真剣な顔でそう言った。葵はついに、声を出して笑ってしまった。


「それ、すごい……お母さん、怒りませんでした?」


「めちゃくちゃ怒られました。塾長にも怒られました。でも、翌月から、その子の宿題がだんだん自分の字になっていって」


「それで?」


「それで、その子、中学受験に合格したんです。お母さんが、お礼にお菓子を持ってきてくれて。『あのとき、本当のことを言ってくれて、ありがとうございました』って」


拓海は、照れたように頭をかいた。


「結果的にうまくいっただけで、基本的には、俺、人を怒らせてばっかりです」


「ほんとにそう」と真由美が言う。


「でも、嘘だけはつかない奴なんだよね」


その言葉に、拓海は返事をしなかった。かわりに、ウーロン茶を一口飲んだ。


「東京でも、似たようなことやらかしたんでしょ」


真由美が、にやにやしながら言った。


「やらかしたって、どれのこと」


「全部」


拓海は、ウーロン茶のグラスを置いた。


「……大きな案件で、納期が絶対に守れないと分かってて、会議で『無理です』って言った」


「それ、正しいじゃん」


「正しかったと思う。でも、言い方がだめだった。上の人たちが揃ってる前で、数字を全部並べて、計画をひっくり返した。部長の顔は、今でも覚えてる」


「それで、どうなったんですか」


葵が尋ねると、拓海は一拍おいてから答えた。


「納期は結局延びました。誰も責任は取らなかった。ただ、それから俺は、会議で誰にも意見を頼まれなくなった」


「つらくなかったですか」


「つらかったです。でも、あのとき黙ってたら、もっとつらかったと思う。正しいことを言って嫌われるのと、言わないで好かれるのと、どっちがましなんだろうって、ずっと考えてました」


葵は、グラスの縁を指でなぞった。


「私は、逆です。嫌われるのが怖くて、言わないほうばっかり選んできたので」


「逆」


「はい。だから、拓海さんの話、羨ましいような、怖いような……」


「足して二で割ったら、ちょうどいいですね」


「割れないよ、それ」


真由美が、即座に突っ込んだ。三人で笑った。その笑いのなかで、葵は、自分にはない種類の痛みを抱えた人が目の前にいることを、不思議なほど素直に受け入れていた。


葵はその横顔を、ちらりと見た。口数が多いわけではない。話術が巧みなわけでもない。けれど、何かを言うたびに、言葉の一つ一つが、きちんと手渡されているような感じがした。


——この人は、何も取り繕っていない。


そう思ったとき、自分が今、ずっと笑っていることに気がついた。作った笑顔ではなかった。口の端が、勝手に上がっていた。頬の筋肉が、いつもと違う使われ方をしているのが、自分で分かる。


気がつくと、大皿の出汁巻きを取り分けようとして、取り箸を手にしていた。真由美の皿に二切れ、拓海の皿に二切れ。大将が出してくれた小皿を取り上げ、醤油差しの向きを揃え、空いた枝豆の殻の皿を端に寄せる。いつもの、体が勝手に動く動作だった。


「はい、どうぞ」


「ありがとう、葵」


「ありがとうございます」


自分の皿には、最後に残った端っこの一切れだけが残った。それを箸でつまもうとした、そのとき。


拓海が、別の取り箸で、大皿の真ん中のきれいに焼けた一切れを取り上げ、葵の小皿に置いた。


「葵さんの分」


「え、あの、私は端でいいので」


「さっきから、誰かの分ばっかり取ってるから。自分のも、食べてください」


言い方は、さらりとしていた。責めるでもなく、気を遣わせるでもなく、ただ事実を手渡すように。葵は小皿の上の黄色い一切れを見つめた。取り分ける係の自分を、誰かに取り分けてもらったのは、いつ以来だろう。


「……いただきます」


かすれた声で言って、ひとくち食べる。さっきよりも、ずっと味がした。


「葵さんは、どんなお仕事を?」


「食器メーカーで、商品企画を。色とか形とか、どんな食器にするかを考える部署です」


「へえ。色を決めるんですか」


「はい。今、秋冬の新シリーズを担当していて。『ひだまり』っていうんです。卵色と生成りと薄いグレーと、若草色の四色で」


言いながら、葵は自然と手でお皿の形を描いていた。釉薬の溜まり方、縁の厚み、手に持ったときの重さ。仕事の話をするときだけは、取り繕う必要がなかった。いつの間にか、早口になっていた。拓海は相槌を打ちながら、真剣に聞いてくれている。


「じゃあ、葵さんの一番好きな色は?」


「え」


「その四色の中で」


「あ……卵色、ですかね。無難で、どんな料理にも合うし」


「無難な色じゃなくて、好きな色を聞いたんですけど」


さらりと、でもはっきりと、拓海は言い直した。意地の悪い響きは、少しもなかった。ただ、さっきの答えが「好きな色」ではなかったことに、気づいているだけの声だった。


言葉に詰まった。心臓が、小さく跳ねる。拓海は待っている。真由美も、箸を止めてこちらを見ていた。


「……青、です」


思っていたより、小さな声が出た。


「深い青。夏の終わりの、夕方になる直前の空の、いちばん端っこの。濃くなっていく、あの青が、ずっと好きで」


「うん」


「でも、仕事では、あんまり言えなくて。シリーズの四色には入らなかったし。……実は、一枚だけ、高梨さんが試作で焼いてくれたのがあって、それが、すごくきれいで」


自分で話していて、胸がどきどきした。仕事の中で唯一、誰にも見せていなかった願いを、初対面に近い人に話している。


「見てみたいな、それ」


ぽつりと、拓海が言った。


「葵さんが好きな色の皿を、ちゃんと」


葵は返事の代わりに、ビールのグラスを両手で持った。頬が熱いのは、アルコールのせいだと思いたかった。


「その青、名前はあるんですか」


「名前、ですか」


「色には名前があるんでしょう、仕事の人なら」


「あります。藍とか、紺とか、群青とか。でも、私が思ってる青は、そのどれとも、ちょっと違って。強いて言えば、藍に近いです」


「藍」


拓海が、その一文字を口の中で転がすように繰り返した。


「いい名前ですね。強そうで、落ち着いてる」


*


「葵さんは、休日はどんなことして過ごすことが多いんですか?」


真由美が席を外している間に、拓海が不意にそう尋ねた。真由美は、「旦那から電話だ」と言って、小声で通話しながら店の外へ出ていったところだった。


グラスを置いた拓海が、まっすぐこちらを見ていた。社交辞令の質問ではない、と直感で分かった。本当に、答えを聞こうとしている目だった。


「あ、私は……最近は、家でゆっくりしていることが多いです。なんだか、なかなかお出かけする気分になれなくて……」


言ってしまってから、葵は焦った。こういうとき、いつもなら、もっと楽しげな答えを用意しているはずだった。料理が趣味です、カフェ巡りが好きです、と。


「あ、でも、以前はスポーツ観戦とか好きで、よくスタジアムに行ったりもしてたんですけどね。サッカーとか」


「へえ。どこで観てたんですか」


「市内のスタジアムです。大声出すのが、好きで」


「大声」


「応援歌を歌いながら、飛び跳ねたり、審判に文句言ったり。普段、全然言えないことを、全部そこで吐き出してた感じで」


言いながら、自分で驚いていた。どうして、初対面に近い人に、こんなことを話しているのだろう。「普段、全然言えないことを」だなんて。


拓海は、少しだけ黙った。


「……いいですね」


その声は、意外なほど、まっすぐだった。


「俺も、学生のときは観に行ってたんですよ。ゴール裏で、周りの知らないおじさんと肩組んで、勝っても負けても、とにかく叫んで。あれ、人生でいちばん素直だった時期かもしれない」


「素直」


「うん。声を出すのに、理由がいらないでしょう。腹が立ったら、立ったって、言える」


葵は、はっと息を止めた。さっき自分が言った、「普段、全然言えないことを」の意味を、この人は、何の説明もなしに受け取ってくれたような気がした。


「どこのゴール裏だったんですか」


「南側。いちばん端の、旗の下」


「え、私、北側です」


「じゃあ、向かい合って叫んでたんだ」


「かもしれませんね」


「当時、会ってたらどうなってたかな」


拓海は、前を向いたまま言った。


「ブーイングし合ってたかも」


「ひどい」


二人で笑った。


「最近、行ってないんですか?」


「ええ。……いつからか、行かなくなっちゃって。ちょうど、その、色々あって」


七年間の話は、したくなかった。「色々あって」という言葉でぼかした葵を、拓海は、それ以上は追わなかった。


「そっか。じゃあ、家でゆっくりは、必要な時間だったのかもしれないですね」


「あ、いえ。ただの干物みたいな休日ですよ、私なんて」


とっさに、葵は笑って言った。自分を茶化して、場を軽くするための、いつもの台詞だった。


拓海は、笑わなかった。


かわりに、真顔で首をかしげた。


「干物は、干物に失礼じゃないですか」


「え」


「干物って、美味しいですよ。時間をかけて、旨みを凝縮してる。家でゆっくりしてる人を干物に喩えるのは、干物への風評被害です」


一瞬の沈黙のあと、葵は、お腹の底から笑い出していた。


「あははっ、何それ、風評被害って」


「だって本当のことだから。俺、干物、好きなんですよ」


「そこ、そんなに真剣になるところですか?」


「なります」


二人で肩を震わせて笑っていると、戸の開く音がして、真由美が戻ってきた。


「え、何、何、盛り上がってる? 私がいない間に」


「干物の話」


「干物?」


「干物の名誉を守っていた」


意味が分からない、という顔をする真由美を見て、葵はまた、笑いが止まらなくなった。涙がにじむほど笑ったのは、いつぶりだろう。笑い終わってから、ふと思った。——今の笑顔は、疲れなかった。


*


その夜は、時間の感覚がゆっくり溶けていった。


「お嬢さん、ちょっとええかな」


大将が、小皿を三枚、お盆に載せて持ってきた。


「うちの先代が焼かせてた皿でな。備前みたいに見えるやろ。実は近所の窯で、一枚三百円やったんや」


葵は、反射的に皿を裏返していた。高台の削り、土の粗さ、窯の跡。


「……三百円には、見えないです。高台がきれいに削ってあって。土も、わざと荒く残してある。見せ方が上手なんだと思います」


言ってから、はっとした。大将と拓海が、こちらを見ていた。


「ほう」


大将が、嬉しそうに目を細めた。


「分かるお人に出会えてよかったわ。この皿な、洗うときは気を使うて、客に出すんは今日が初めてなんや」


「え、そんな大事なものを」


「大事やから、分かる人に使うてもらいたい。拓海の連れやったら、なおさらや」


「連れじゃないです。今日、初めて会ったので」


すかさず、拓海が言った。


「ほな、これからやな」


大将は笑って、カウンターに戻っていった。真由美が、卓の下で葵の足をつついた。拓海は聞こえないふりで、ウーロン茶に口をつけた。


大将が出してくれた季節の茸の炭火焼きに、三人で「おいしい」を連発した。鯖の味噌煮は、拓海の好物らしく、真由美が「また食べてる」と呆れた。拓海は「ここの鯖は、東京では絶対に食べられない」と大真面目に言って、葵にも一切れ、取り分けてくれた。皿の端に置かれた鯖は、味噌がよく沁みて、ほろりと崩れた。


「そうだ、拓海にも教えとく」


鯖の最後の一切れを葵に譲りながら、真由美が言った。


「葵ね、今、毎日ひとつ文句を言う練習してるの」


「真由美」


「いいじゃん。拓海、こういうの得意でしょ。正論、言えるから」


「得意ってほどじゃないけど」


グラスの水滴を指で拭って、拓海は考えた。


「それ、俺も参加していい?」


「えっ」


「今日の文句、順番に言う。まず真由美」


「旦那の靴下」


「千回目の?」


「千一回目」


三人で笑った。次は、拓海の番だった。


「東京の電車の、人の多さ。毎朝、人間のかたまりに押しつぶされて、人間を辞めたくなった」


「次、葵さん」


指名されて、葵は、グラスを持ったまま固まった。笑い話にできる文句は、いくらでも浮かぶ。電車の遅延、雨、会議の長さ。でも、それは、正解の文句ではない気がした。


拓海の真似をして、心の中で間を置き、自分に聞いてみる。


「……金曜の夜が、苦手です」


自分でも、驚いた。


「どうして?」


「理由は……長くなるので、言えないんですけど。金曜の夜になると、家に帰りたくなくて。それが、今日の、文句です」


真由美が、黙ってこちらを見た。拓海は、考えてから、言った。


「それは、文句っていうか、大事なことだね」


「大事なこと?」


「うん。言ってくれて、ありがとう」


それだけだった。理由も聞かず、慰めの言葉も重ねない。ただ、受け取ってもらえた、という感触だけが、胸に残った。


「じゃあ、今度の金曜は、私が空けとくわ」


さらりと、真由美が言った。


「また、ご飯行こ。拓海も」


「俺も?」


「あんた、来るよね?」


「……行く」


真由美が、手洗いに立った。


ふいに、テーブルの上に、小さな沈黙が落ちた。


葵は、反射的に、何かを言おうとした。天気の話でも、仕事の話でも、何でもいい。沈黙を埋めるために、笑顔と言葉を差し出すのは、息をするのと同じくらい、体に染みついた癖だった。


けれど、拓海を見て、思いとどまった。


彼は、少しも気まずそうにしていなかった。手元のウーロン茶の氷を、からりと揺らして、カウンターの奥から聞こえてくる、炭の弾ける音に、耳を傾けている。


五秒。十秒。


葵は、膝の上で指を組み直した。何か言わなきゃ、という声が、頭の中でぐるぐると回っている。でも、同時に、別の声も聞こえた。


——言わなくても、いいのかもしれない。


黙っていても、この場所は、壊れない。そう気づいたとき、肩から、すうっと力が抜けた。炭の音が、きれいに聞こえた。ぱち、ぱち、と乾いた音が、小さな花火のように弾ける。


「静かなの、平気ですか」


拓海が、そのまま前を向いたまま、尋ねた。


「え」


「沈黙。苦手な人、多いので。俺、気にしないほうだけど、相手がしんどいなら、何か話します」


葵は、考えてから、正直に答えた。


「私は……たぶん、苦手でした。ずっと。だけど、今は、平気みたいです」


「そう」


拓海は、小さく頷いた。口元が、ゆるんでいた。


「それなら、よかった」


それだけで、また沈黙が戻った。けれど、さっきまでの沈黙とは、まるで色が違っていた。何かを待つための沈黙ではなく、ただ、一緒にそこにいるための沈黙。葵は、グラスの水滴が、ゆっくりと木のテーブルに落ちていくのを見ていた。


「東京では」


しばらくして、拓海が口を開いた。


「誰とも深く話さなくても、暮らせちゃうんです。便利で、人も多くて、誰も俺のことを知らない。最初は楽だった。でもあるとき、一週間、仕事以外で一言も喋ってないことに気づいて」


「一週間」


「そう。コンビニの『袋いりますか』に『大丈夫です』って答えたのが、最後」


自嘲するように笑った。葵は、笑えなかった。「大丈夫です」という言葉の重さが、その瞬間だけ、自分の中のものと同じ形をしていた気がして。


「それで、こっちに戻ってきたんです。出汁巻きの味に体が先に帰ってきたって言ったのは、あながち冗談じゃなくて」


それ以上は、語らなかった。真由美が言っていた「向こうでいろいろあった」の中身は、きっと、まだ話せない場所にあるのだろう。葵は、聞かなかった。聞かないでいられることが、不思議と心地よかった。


マッチングアプリの画面では、相手がどんな顔でその言葉を打っているのか、想像すらできなかった。無機質なメッセージの向こう側には、表情も、呼吸も、間も、なかった。けれど今、目の前の拓海は、こちらの話をしっかりと目を見て聞き、時にクスリと笑い、時に真剣に頷いてくれる。そして、話さない時間さえも、そこにある。


——これが、「生身の人間と話す」ということだったんだ。


「戻りましたー。……あれ、二人とも、どうしたの。急に静か」


真由美が、不思議そうに二人の顔を見比べた。


「別に」


「静かにしてただけ」


拓海と葵の声が、重なった。顔を見合わせて、同時に笑いをこらえる。真由美は「何なの、もう」と言いながら、嬉しそうに席に腰を下ろした。


その顔を見て、葵は気づいた。この人は、今夜のために、ずっと、こうなることを願ってくれていたのだと。


「〆は、どうします」


大将が、カウンターから顔を出した。


「お茶漬けでよければ、鯛でも、梅でも」


「鯛」


「梅」


拓海と目が合った。


「割れた」


真由美が笑う。


「じゃあ、一つずつ頼んで、分け合う?」


拓海が言った。取り箸を、自分から二つ手に取っている。葵は、さっきまでの自分と同じ動きをする人を、初めて見た気がした。


「ねえ、デザート頼もうよ。ここの黒豆きなこのアイス、絶対食べて帰りな。葵、好きでしょ、きなこ」


「好き。……なんで知ってるの」


「大学のとき、あんた、いつもきなこ餅食べてたもん」


そんな他愛のないことを覚えていてくれる友人がいる。葵は、じんわりとあたたかくなった胸のあたりに、手を当てた。


お手洗いに立つと、真由美が後ろからついてきた。洗面台の鏡に、並んで二人の顔が映る。


「どう? 無理してない?」


小声で聞かれた。葵は鏡の中の、赤い頬の自分を見た。


「……してない。びっくりするくらい」


「よし」


真由美は、満足そうにウインクした。


「それ、貴重だからね。覚えときな」


注文したアイスが運ばれてくる頃には、時計の針はもう、午後十時を回っていた。


「えっ、もうこんな時間?」


「あっという間だったね」


真由美が目を丸くし、拓海は腕時計をちらりと見て、「ほんとだ」と呟いた。


三人で分けたアイスの最後のひとくちは、きなこの香ばしい甘さが、いつまでも舌の上に残っていた。



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