第4章:親友の一言と、小さな居酒屋
金曜日の夜、会社近くのイタリアンは、仕事帰りの客でほぼ満席だった。木の扉を押すと、チーズの焦げる匂いとジャズのピアノが、ふわりと迎えてくれた。
「葵、こっちこっち!」
奥の席から、真由美が大きく手を振っていた。ショートボブの髪に、ざっくりしたニット。仕事帰りのくせに、もう完全にくつろいだ顔で、メニューを広げている。大学の同じゼミで出会ってから十年以上、この人はずっと、待ち合わせ場所に先に着いて、手を振って待っていてくれる。
ゼミの初日、教室の隅で一人でいた真由美に、一番に話しかけたのは葵だった。人見知りのくせに強がる彼女と、人当たりのいい葵は、真逆のようでいて、不思議と気が合った。一度、真由美に言われたことがある。「葵の笑顔ってさ、ときどき、ちょっと怖い」。冗談めかした口調だったから、そのときは「何それ」と笑い返した。今になって、その言葉の意味が、分かる気がする。
二年前の真由美の結婚式で、友人代表のスピーチをしたのも、葵だった。原稿は何度も書き直した。会場は笑いと涙で満たされ、真由美は、スピーチの途中で、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。席に戻る途中も、葵は満面の笑みを崩さなかった。けれどその夜、一人きりのタクシーの中で、自分がスピーチで一度も本当のことを言っていなかったことに、気づいた。新婦の親友として、誰もが喜ぶ言葉を並べただけで、自分が何を感じていたのか、一言も、そこにはなかった。
「ごめん、待った?」
「全然。さっき来たとこ。ていうか」
向かいの席に腰を下ろした葵の顔を、真由美はじろじろと眺めた。
「ちょっと。顔、疲れすぎじゃない?」
「え、そう? 全然元気だよ」
「それ、あんたの『大丈夫』と同じ音してるから」
返事に詰まった。母に言われたことと、ほとんど同じだった。真由美はそんな葵を見て、息を吐いて、店員を呼んだ。
「とりあえず白ワイン、ボトルで。グラス二つお願いします。あと、前菜の盛り合わせと、ブッラータと……パスタは、あとで決めます」
「ボトル? 二人で空けられる?」
「空けるの。今日は、私が空けさせる」
冗談のような口調なのに、目だけは冗談を言っていなかった。葵は肩の力が抜けるのを感じて、小さく笑った。
店員さんが、メニューを置いた。
「ご注文がお決まりでしたら」
「パスタ、どうする? 私はアマトリチャーナ」
「じゃあ、私も同じので」
「同じで、は禁止」
真由美が、メニューを葵のほうへ押しやった。
「ほんとに食べたいの、どれ?」
葵は目を泳がせた。カルボナーラ。真由美はきっと、自分がクリーム系を好むと思っている。でも今は、トマトの酸味が恋しかった。
「……ポモドーロ。トマトのやつ」
「ほんとにそれ?」
「ほんとに、それ」
「よし。じゃあ、ポモドーロで」
店員さんが去ってから、葵は小さく息を吐いた。パスタ一つで、こんなに緊張するとは思わなかった。真由美が、口の端だけで笑った。
乾杯のあと、ワインを半分ほど飲んだあたりで、真由美が先に口を開いた。
「で。連絡つかなかった二週間、何してたの。ご飯、食べてた?」
「食べてたよ。コンビニの……弁当、とか」
「弁当って、あんた、まさか毎日じゃないでしょうね」
「週に、五日くらい」
「それは毎日って言うの」
フォークの先でトマトを刺しながら、真由美が呆れた声を出す。葵は、笑って誤魔化そうとして、ふと、笑うのをやめた。真由美の前で作り笑いをするのは、なぜか今夜は難しかった。
「……あのね」
「うん」
「実は私、アプリ、やってみたの」
真由美の動きが止まった。
「え、あんたが? マッチングアプリ?」
「後輩に勧められて。四週間くらい前から」
「やったんだ。……で、どうだった?」
どうだった、と聞かれた途端、胸の中から、言葉がせり上がってきた。止められなかった。
「はあ……アプリって、あんなに心がすり減るものだとは思わなかったよ」
気がつくと、そうこぼしていた。
「最初にメッセージをくれた人は会社経営って書いてたけど、三日で『他にも会ってる子がいるから』って切られたし。二人目は質問ばっかりで、面接みたいで。ショウさんって人とは電話したんだけど、九十分間ずっと本人の話で、私、『すごいですね』ってたぶん十五回は言ってた」
「十五回」
「数えたの。それでね、実際に会った人にはね」
そこからは、勢いがついてしまった。ユウトに年収を聞かれたこと。結婚したら仕事を辞めるタイプかと聞かれたこと。子どもは欲しいかと聞かれて、「授かりものですから」と答えたこと。会計は割り勘だったこと。「また連絡します」が来なかったこと。ホテルに誘われて、画面を閉じたこと。
最後のところは、自分でも驚くほど、おどけた口調になっていた。
「ほんとにね、笑っちゃうよね。年収の次は子どもの有無の確認だよ? 私、面談でも受けてるのかと思って、つい履歴書持ってくればよかったなって」
葵は、ははっと声を出して笑った。
真由美は、笑わなかった。
グラスを置いて、静かな目でこちらを見ている。笑い声の余韻だけが、葵の喉のあたりに宙ぶらりんで残った。
「それ、笑う話じゃないでしょ」
低い声だった。
「え」
「ひどい目にあったんだよ、あんた。会ったこともない人に、いきなりホテルとか言われて。年収とか子どもとか、初対面で値踏みされて。それを、『笑っちゃうよね』って自分で言うの、やめな」
言い返す言葉が出てこなかった。ひどい目、というには、あまりにありふれた出来事だと思っていた。みんな、これくらいは我慢して、笑い話にしているのだと。
「……ひどい目、だったかな」
「だったよ。少なくとも、私が聞いてて、むかついた」
真由美は、フォークをぐさりとブッラータに突き刺した。
「ごめん。私、怒ってる。あんたのことじゃなくて、そいつらに。ていうか、そいつらにだけじゃなくて、『大丈夫』って言って全部飲み込むあんたにも、ちょっとだけ」
最後の一言に、葵の笑顔が崩れた。
崩れた、というより、笑顔の形を保つための力が、ふっと抜けてしまったのだ。目の奥が熱くなって、慌てて俯いたら、テーブルの上のキャンドルの炎がにじんだ。
「真由美」
「うん」
「私ね、……疲れた」
「うん」
「アプリがっていうか、なんか、全部。ちゃんと笑って、ちゃんと返して、ちゃんとしてるのに、全然、中身が空っぽで」
真由美は何も言わず、ナプキンを一枚、葵の前に滑らせた。それから、自分のグラスにワインを注ぎ足して、黙って待ってくれた。
店のピアノが、知らない曲に変わった。隣の席の笑い声が遠くなった。涙が止まるまで、五分くらいかかったと思う。
「……ごめん、せっかくのご飯なのに」
「謝んな。あんたが泣いたの、何年ぶりだと思ってんの」
「何年ぶりって、そんなに」
「前に泣いたのは、あの男と別れたって話してくれたときだよ。ちなみに、その前は、もっと昔。私が覚えてる限り」
そう言われて、葵はぽかんとした。思い出そうとしても、思い出せなかった。
「あんたさ」と、真由美は頬杖をついた。
「私の前でくらい、笑わなくていいんだよ。何年友だちやってると思ってんの」
その言葉は、飾り気もなく、ただ丁寧に置かれた皿のように、胸の真ん中に届いた。葵はもう一度、ナプキンで目元を押さえた。
「結婚式のスピーチ、覚えてる?」
「もちろん」
「あれ、すごく良かったよ。みんな泣いてた。でも私ね、あのとき、ちょっとだけ寂しかったの」
「寂しい?」
「完璧すぎて。葵が、どこにもいなかった」
葵は、はっとした。タクシーの中で自分が気づいたことと、同じだった。
「……私も、そう思ってた。あとで」
「でしょ。だから今日は、完璧じゃないあんたが見られて、嬉しい」
「ねえ、練習しよっか」
ふいに、真由美が言った。
「練習?」
「文句の練習。今から、私に何か一個、文句言ってみて。なんでもいいから」
「え、いきなり? 無理だよ」
「無理じゃない。ほら」
葵は目を泳がせた。文句。真由美に。思いつかない。この人に不満なんて、あるはずがない。
「……ない」
「嘘。一個くらいあるでしょ。私、結構、無神経なとこあるし」
「ない、ほんとに」
「じゃあ、さっき私が笑わなかったとき、どう思った?」
言葉に詰まった。しばらく迷ってから、葵は、ぎこちなく口を開いた。
「……ちょっと、怖かった」
「うん」
「笑い話にしたのに、真由美が笑ってくれなくて、私、一人でスベったみたいで。なんか、恥ずかしかった」
「うん。それで?」
「それで、……でも、真由美が怒ってくれて、嬉しかったけど」
「それは文句じゃなくて感想だね。でも、いいよ。合格」
真由美が、親指を立てた。
「はい、これが一回目。毎日一個やって」
「毎日?」
「毎日。ご飯が遅いとか、電車が混んでるとか、そのレベルでいいから。口に出して言う癖をつけな。誰にも聞かれなくていいから、とにかく」
「……ご飯が遅い」
「いいね」
「電車が、混んでる」
「その調子」
真面目な顔で言い合っているうちに、二人とも、肩が震えてきた。隣の席の人が、ちらりとこちらを見たほどだった。涙の跡が残る頬のまま笑ったのは、たぶん、大学時代以来だった。
*
運ばれてきたパスタは、湯気を立てていた。トマトとベーコンの香りに、急に空腹を思い出す。ひとくち食べて、「おいしい」と言うと、真由美は「でしょ」と得意そうに笑った。
「ていうか聞いてよ。昨日さ、旦那と大喧嘩したの」
「え、どうしたの」
「靴下。裏返しのまま洗濯機に入れるの、これで千回目なの。千回目だよ? 私、昨日はもう言っちゃった。『あなたの靴下は私の敵です』って」
「敵」
「そしたら向こうも『俺の靴下に敵意を持たないでくれ』って逆ギレして、二人で夜中の十二時まで靴下の話してた」
真由美は肩を揺らして笑った。葵もつられて笑った。けれど、笑いながら、胸の別のところが、ちくりと痛んだ。
「でもさ、朝になったら、向こうがコーヒー淹れてくれて、『ごめん、今度から裏返さない』って。私も『ごめん、言い過ぎた』って。それで終わり」
「……いいな」
思わず、本音が漏れた。
「何が?」
「喧嘩できるの。それで、ちゃんと仲直りできるの」
フォークが、皿に置かれた。
「私はね、喧嘩できない関係のほうが、怖いけどな。怒らないんじゃなくて、怒れないってことでしょ。それって、相手のこと、まだ全部は信じてないってことだと思う」
葵は、パスタを巻く手を止めた。康平の言葉が、不意に蘇った。——怒ったとこも、凹んだとこも、見たことないだろ、俺。
「……そっか」
「うん。そういうこと。まあ、私の靴下の話は、だいぶ低レベルだけど」
「ううん。すごく、大事な話だった」
「靴下が?」
「靴下が」
二人で、また笑った。
「あの男のこと、まだ考える?」
パスタをフォークに巻きつけながら、何でもないことのように、真由美が聞いた。
「……たまにね。もう、会いたいとか、そういうのじゃないんだけど」
「うん」
「ただ、七年って、長いなって。今でも、金曜の夕方になると、ちょっと身構えちゃう」
「身構える?」
「スマホ、握ってる自分がいるの。連絡が来るかもしれないって。来ないって分かってるのに」
フォークを持つ手が止まった。視線が、皿に落ちる。
「あんたが悪いんじゃないよ」
「でもさ、自分で選んだことだから」
「選んだのと、悪いのは、別」
きっぱりとした声だった。
「あんたはその時、そうしたかった。それだけでしょ。最後に傷つけたのは向こうで、あんたじゃない。そこだけは、間違えちゃだめ」
葵は、黙って頷いた。こういう言葉を、自分に向けて言ってくれる人がいる。それだけで、七年のうちの何割かが、軽くなる気がした。
「ねえ、それよりさ。あのマグカップは? まだ持ってるの?」
唐突な質問に、葵はむせそうになった。
「……なんで知ってるの」
「前に、あんたの部屋に行ったとき、見たもん。白に青いラインの。あれ、ペアで買ったやつでしょ」
「片方は、食器棚の奥に入れてあるだけで」
「捨てなよ、って言いたいところだけど」
真由美は、ワインを一口含んで、考えてから続けた。
「捨てなくてもいいから、使ってやったら? あんたのために買ったんだから、あんたのものだよ。誰かとお揃いとか、そういうんじゃなくて」
目を見開いた。そんな見方をしたことは、一度もなかった。
「……考えとく」
「うん。考えとけ」
*
デザートのティラミスを分け合うころには、二人ともすっかり頬が赤くなっていた。ボトルは、本当に空になった。
「それでさ、本題」
スプーンが置かれた。
「アプリはもう、やめなよ」
「え」
「私が言うのもなんだけど、向いてないでしょ、あんたには。自分の中身を、プロフィールの数行で出せっていう場所。あんたが一番苦手なやつ」
「でも、他に出会いなんて」
「あるよ。アナログでいい。デジタルに疲れたなら、アナログに戻せばいいの」
真由美は、にやりと笑った。何か企んでいる顔だった。
「アナログって、合コンとか?」
「違う違う、そういうのじゃなくて。ほら、私の学生時代のバイト仲間でさ、今度、東京から大阪に異動で戻ってきた人がいるのよ」
「バイト仲間……」
「大学のとき、同じ塾で講師やってたの。拓海っていって、33歳。システム関係の仕事で、東京の本社にずっといたんだけど、この秋から、こっちの支社に戻ってきて」
葵は、フォークを持ったまま、真由美の顔を見た。
「紹介、ってこと?」
「ううん、紹介って言うと、あんたが構えるでしょ。ご飯でも行こうよ、って話。私も一緒に行くから。二人きりにはしない」
指を折りながら、真由美の説明が始まった。
「まず、真面目。仕事も一生懸命。次に、嘘をつかない。これ、大事。ついでに、不器用。あと」
指が四本目で止まった。
「……あと、ちょっと口が悪い。悪いっていうか、正論を平気で言うタイプ。本人は悪気ないんだけど、ときどき、ズバッと来る。そこだけは覚悟しといて」
「それ、褒めてるの?」
「褒めてる。私が会わせたいと思うくらいには」
「で、見た目は?」
「見た目はねえ……普通。まあ、悪くはない。背は高め」
「普通って」
「普通だよ。でも、笑うとね、目が一回ひっこむの」
「ひっこむ?」
「会えば分かる」
そう言って、真由美は笑った。葵は、思わず口元を押さえた。この人が、他人を紹介しようなどと言うのは、初めてだった。
「どうして東京から戻ってきたの? 栄転とか?」
「うーん、異動ってことにはなってるけど」真由美は、ちょっと言葉を選んだ。「向こうでいろいろあったみたい。詳しくは、本人から聞いて。私が勝手に喋ることじゃないから」
「ふうん」
「あ、あと、癖がひとつあってさ。喋る前に、三秒くらい黙るの。最初は戸惑うと思うけど、あれ、何か考えてるだけだから。気にしなくていいよ」
「三秒」
「そう。私、最初、電波悪いのかなって思ったもん」
「怪しい勧誘とか、じゃないからね!」真由美は笑いながら、手をひらひらと振った。「本当に真面目で、仕事もちゃんとしてる奴だから。アプリみたいに変に気張ったり、素性を疑ったりしなくていいから、息抜きがてら、どう?」
返事を躊躇った。頭の中で、いくつもの声が交差する。
どうせまた、愛想笑いをしてしまう。また、嫌われないように振る舞って、疲れさせてしまう。あの店で、ユウトに言った「厳しいほうですよね」みたいな言葉を、拓海という人にも言ってしまう。
でも、一方で、真由美の顔を見ていると、ひとつだけ思ったのだ。
この人が「会わせたい」と思う人なら。
「……いいのかな、私なんかで」
「『私なんか』って言ったら、帰るよ、私」
「ごめん」
「ごめんも禁止」
二人で顔を見合わせて、同時に吹き出した。笑い声が、思ったよりも自然に、口から出ていた。
「友人の紹介」という響きは、アプリの冷たい画面に疲れ切っていた葵にとって、思いのほか温かく、心地よく響いた。もちろん、初対面の男性と会うことへの緊張や不安が、ゼロだったわけではない。けれど、真由美がここまで保証してくれる相手なら、少なくとも、得体の知れない軽薄さに振り回されることはないだろう。
「……そうだね。真由美がそこまで言うなら、お茶でも飲むくらいの気持ちで、行ってみようかな」
「やった! 絶対気に入ると思うから。日程、調整しとくね」
真由美は嬉しそうに、空のグラスを掲げた。
*
店を出ると、通りには冷たい風が吹いていた。夜の街の街灯が、道路に長い影を落としている。葵はコートの襟を立てて、真由美と並んで歩いた。
「あ、そうだ」
駅の改札の手前で、真由美が足を止めた。
「拓海のことだけどさ。写真、今ないんだよね。口で説明するの、苦手なタイプでさ」
「え、写真ないの?」
「ない。まあ、会ってからのお楽しみ、ってことで」
「なにそれ、ハードル上げてるのか下げてるのか分かんないよ」
「どっちも。両方」
ふざけた口調で言ってから、真由美はふいに、真顔になった。
「葵」
「ん?」
「あの人のこと、七年も好きでいられたあんたは、ちゃんと人を好きになれる人だよ。それだけは、忘れんなよ」
葵は、何も返せなかった。かわりに、小さく頷いた。真由美の手が、葵の背中をぽんと叩いた。
「じゃ、また連絡する! 電車、気をつけて!」
手を振って、反対側のホームへ階段を上っていく背中を、葵はしばらく見送っていた。
帰りの電車の窓に、自分の顔が映っていた。酔いのせいで、頬がほんのりと赤い。口角は、上がっていない。上げようとも、していなかった。それなのに、鏡のようなガラスの向こうの顔は、いつもよりずっと、人間らしく見えた。
スマートフォンが震えた。真由美からだった。
〈来週の土曜、夜どう? 天満の居酒屋、押さえとく。拓海には「めっちゃいい子連れてく」って言っとくね〉
〈ハードル上げすぎ!〉
そう打ち返して、送信を押す。続けて、迷ってから、もう一通。
〈ありがとう。……来てくれて、嬉しかった〉
既読はすぐについた。〈当たり前でしょ〉と一言だけ返ってきた。
帰宅して、ドアを閉めた。靴を脱いで、いつものように静けさの中に体を沈める——はずが、その夜は、キッチンの前で足が止まった。
食器棚の奥に手を伸ばして、白地に青いラインのマグカップを取り出した。埃をかぶった縁を、水で洗う。スポンジで一周こすって、布巾で拭くと、思ったよりもずっと、きれいな白が戻ってきた。
お湯を沸かして、ティーバッグを入れる。立ちのぼる湯気を、しばらく眺めていた。熱い紅茶を、一口。
——あんたのために買ったんだから、あんたのものだよ。
真由美の声が、耳に残っていた。
「……おいしい」
独り言が、静かな部屋に溶けた。何の変哲もない紅茶だったのに、いつもより、甘く感じた。片方だけになったマグカップは、それでも確かに、そこで湯気を立てていた。
*
翌週から、葵は真由美との約束を、律儀に守った。
月曜の朝、エレベーターが三階で止まったまま動かなくなったとき、誰もいない箱の中で、小さな声で言ってみた。
「遅い」
自分の声が、金属の壁にぽんと跳ね返った。たったそれだけで、胸のあたりが軽くなるのに驚いた。火曜は「雨、嫌だな」。水曜は「お昼のサンドイッチ、ぬるい」。木曜には「今日の私の髪、言うこと聞かない」。毎日ひとつ。誰にも届かないくらいの、小さな文句。
昼休みに真由美へ報告すると、すぐに返事が来た。
〈いいね。誰に対して?〉
〈エレベーターに〉
〈それは世界への文句。次は人に〉
〈無理〉
〈無理じゃない。目標は週に一個〉
〈ハードル高い〉
〈高くしてるの〉
画面を見ながら、一人で笑った。笑いながら、昨日の「無理」と今日の「無理」は、違う手触りがすることに気づいた。
そうやって練習を重ねるうちに、不思議なことが起き始めた。一つずつ、口に出せることが増えていくのだ。
水曜の昼休み、みなみが書類を持って駆け寄ってきた。
「葵さん、すみません、これ今日中に見てもらえますか? 明日の朝イチで出さなきゃいけなくて」
いつもなら、考える前に「いいよ、任せて」と言っている場面だった。葵は唇を結んで、数秒、黙った。それから、思い切って言った。
「ごめん、今日は無理。明日の朝、一番に見るのでもいい?」
みなみは目を丸くした。心臓が、肋骨の内側でどくどく鳴っている。叱られるだろうか。呆れられるだろうか。
「あ、はい! 全然大丈夫です。朝イチなら、十分間に合います」
拍子抜けするほど、あっさりだった。みなみは「すみません、無理言って」と頭を下げて、自分の席に戻っていく。世界は、一ミリも壊れなかった。
翌朝、約束どおり一番に、みなみの資料に目を通した。発注書の数字が、一桁違っていた。葵は工房に訂正の電話を入れたあと、みなみの席へ戻った。
「今回は間に合った。でも、次に同じことが起きたら困るから、発注書の数字は送る前に二人で確認しよう。最初のチェックは、みなみちゃんがしてくれる?」
みなみは驚いたように瞬きをしてから、「はい。私がやります」と答えた。葵は受話器を置き、やり直した発注書の右下に、二人分の確認欄を書き足した。
「……あの、葵さん」
「ん?」
「前までは、全部やっといてくれてたじゃないですか。ありがたかったんですけど、私、ずっとミスしても大丈夫なんだって思ってました」
「そっか。それは、私が悪かったね」
「いえ。今のほうが、ちゃんと仕事してる感じがします」
そう言って、みなみは照れたように笑った。
木曜日の定例会議では、部長から、金曜に急ぎの資料作成を頼まれた。
「葵さん、悪いんだけど、この件、明日までにまとめてくれるかな」
「金曜は、ちょっと厳しいです。月曜の午前中でも間に合いますか?」
言ってしまってから、会議室の空気が止まったように感じた。部長は眉を上げて、それから、あっさりと頷いた。
「ああ、構わないよ。急かして悪かった。月曜でいい」
席に戻ってから、葵は机の下で、自分の手のひらを開いて閉じた。掌が汗でしっとり濡れている。たった一言の「厳しいです」に、こんなにも勇気が要るなんて。そして、言ってしまえば、こんなにも何でもないなんて。
夕方、コピー機の前で資料を整理していると、後ろから声がかかった。
「葵さん、今日は、疲れてますね」
高梨さんだった。いつものように、必要以上のことは言わない人が、紙の束を抱えたまま、立っている。
「あ、分かります? 朝から電車が混んでて」
「それは、疲れますね」
彼は、真顔で頷いた。
「でも、そっちのほうがいいです」
「え?」
「いつもの『大丈夫です』より。今日のは、本当っぽいので」
葵は、言葉を失った。高梨さんは、「あ、すみません、変なこと言いました」と、小さく頭を下げて、足早に去っていく。
葵は、高梨さんの背中に向かって「ありがとうございます」と言いかけたが、相手はもう曲がり角を曲がっていた。次は、聞こえるところで言おう。コピー機から出てきた紙の束を揃えながら、そう決めた。
——本当っぽい。
胸のあたりが、また、ほんの小さく鳴った。理由は、やはり分からなかった。
土曜日を待つ間、葵は何度か、ワードローブの前で服を取り出しては戻した。気合いが入りすぎた服を着ていくのは、いかにも「期待しています」という顔になりそうで嫌だった。かといって、地味すぎる服は、「やる気がない」と思われそうで怖かった。結局、着慣れた紺のカーディガンに、淡い色のスカートを合わせた。
鏡の前で、ひとり言を言った。
「……着ていく服が決まらない」
今日の分の、ささやかな文句だった。鏡の中の自分が、かすかに、苦笑いをした。
金曜の夜、真由美からメッセージが届いた。
〈拓海にも、葵のこと話しといたよ〉
〈なんて?〉
〈「楽しい人?」って聞かれたから、「違う」って答えた〉
〈違うの!?〉
〈楽しい人じゃなくて、ちゃんと話を聞ける人って言った。そのほうが合うと思って〉
〈……それ、ほめてる?〉
〈ほめてる。明日、十八時に天満の居酒屋ね。地図は送る。遅れたら置いてく〉
葵は画面を伏せて、胸に手を当てた。楽しい人じゃない、と紹介される。そんなことは、生まれて初めてだった。不思議なことに、少しも嫌ではなかった。
土曜に着ていく服を椅子の背にかけ、葵は鏡の明かりを消した。紺のカーディガンは、暗がりの中でも見慣れた形をしていた。




