第3章:アプリ画面の向こう側の冷たさ
「ねえ、葵さんもそろそろ、アプリでも始めてみたらどうですか? 周りでも、けっこうそれで結婚してる子いますよ」
その一言を後輩が口にしたのは、数日前のランチの席だった。会社近くの定食屋で、みなみが焼き魚の骨を丁寧に外しながら、世間話の続きみたいな軽さで言ったのだ。
「アプリかあ。私にはハードル高いかなあ」
「えー、そんなことないですって。葵さんなら、絶対すぐ人気者になりますよ。写真もプロフィールも、私、手伝いますし」
「あはは、ありがとう。考えとく」
あのときは、笑って受け流したつもりだった。けれど、その言葉は妙に頭の隅に居座って、離れなかった。
土曜日の夜、葵は部屋のローテーブルに、スマートフォンを置いた。画面には、ダウンロードしたばかりのマッチングアプリがいくつか並んでいる。ピンクやオレンジの明るいアイコンが、無遠慮に笑いかけてくるようだった。
画面の指示に従って、生年月日と職業と居住地を入力していく。「結婚への考え」という項目に、「すぐにでもしたい」「いい人がいれば」「まだ考えていない」の三つの選択肢が出た。指が一度止まる。どれを押しても、嘘になる気がした。結局「いい人がいれば」を選んだ。本当は「すぐにでもしたい」のに、そう書いたら、がっついていると思われそうで怖かった。
次はプロフィール写真だった。スマートフォンの中を遡って、友人たちから「一番自然で感じがいい」と太鼓判を押された一枚を選ぶ。去年、同期の結婚式の二次会で撮った写真だ。柔らかく笑う葵の背景には、ぼやけたシャンデリアの光が映っている。この写真を撮った夜、葵は帰りのタクシーの中で、一人で静かに泣いていた。けれど、写真の中の葵は、誰が見ても幸せそうだった。
自己紹介文の欄が、いちばん手こずった。
〈はじめまして。食器メーカーで商品企画の仕事をしています。休日は料理やカフェ巡りを楽しんでいます。明るくて前向きだとよく言われます。真剣に、素敵な出会いを探しています〉
読み返して、息をついた。休日は、ほとんど家でぼんやりしている。料理も、最近は弁当と冷凍食品ばかりだ。カフェ巡りなど、先月は一度しか行っていない。真実の欠片が一割くらい混ざった、無害な人物紹介だった。
「真剣に」という言葉の上で、カーソルが点滅した。もっと、書きたいことはあったのだ。過去に傷ついたこと。大事にされたいこと。子どもがほしいこと。けれどそれを並べたら、きっと「重い女」の一丁あがりだ。何度か消して、書き直して、結局当たり障りのない言葉だけが残った。
「登録完了」の文字が出たのは、深夜0時を回った頃だった。
*
登録を済ませた瞬間から、スマートフォンが小刻みに震え始めた。
〈〇〇さんからいいね!が届きました〉〈新しいマッチングが成立しました〉
通知画面に、文字が次々に踊る。最初の晩だけで、いいねの数は50を超えた。さすがに、これだけの数の男性から存在を認識されると、わずかに自尊心が満たされるような気もした。画面の中の顔写真を指でスクロールしていくと、ビジネスマン風、スポーツマン風、犬を抱いた人、車の前でポーズを決めた人。みんな、どこか誇らしげに笑っていた。
マッチングが成立した相手からは、翌朝から順番にメッセージが届き始めた。
〈はじめまして、ケンジです! プロフィール拝見して、すぐにいいねしました。今度の週末、お時間ありますか? 絶対楽しいお店、知ってるんで!〉
最初に来たのは、34歳の「会社経営」を名乗る男性だった。写真はやけに加工されている。まだ自己紹介を交わしてもいないのに、三通目にはもう「来週ご飯行きましょう」と言い出した。葵はなんと返事をしていいか分からず、〈ありがとうございます。もう少しお話ししてからでもいいですか?〉と送った。返信は、三日後に〈そうなんだ。他にも会ってる子がいるから、また今度ね〉と来た。
葵は画面を見つめたまま、小さく笑った。笑うしかなかった。「他にも会ってる子がいる」と、わざわざ教えてくれる親切さが、いっそおかしかった。笑いながら、スマートフォンを裏返した。机に当たったカタンという音が、いやに大きく響いた。
次の人は、32歳のメーカー勤務だった。こちらは、丁寧すぎるほど丁寧だった。
〈休日は何をされているんですか?〉
〈お仕事は何をされているんですか?〉
〈ご兄弟はいらっしゃいますか?〉
〈お酒は飲まれますか?〉
〈いいですね。どんな料理を?〉
〈パスタとか、色々です〉
〈パスタの中ではどの種類が得意ですか?〉
〈……カルボナーラ、ですかね〉
〈カルボナーラは、卵は全卵ですか? 卵黄のみですか?〉
画面を見たまま、葵は笑ってしまった。取り調べだ。まじめに答えるべきか迷って、全卵、と打った。〈なるほど。参考になります〉と返ってきた。何の参考なのか、聞けなかった。
質問は途切れなく届く。ひとつ答えるたびに、また次の質問が返ってくる。会話というより、面接だった。葵も同じように質問を返すのだが、返ってくる答えは「特にないです」「普通です」ばかりで、そのうち、お互いが手探りで空欄を埋め合う作業のようになっていった。
電話で話しましょうと言われたのは、三人目の男性だった。ショウという名前の、36歳の営業職。夜の九時から始まった通話は、気がつくと一時間半を過ぎていた。そのほとんどを、彼が一人で喋っていた。学生時代にやっていたバンドのこと、去年の海外旅行のこと、会社の上司がいかにダメな人間かということ。
「すごいですね」
「へえ、そうなんですか」
「それは大変でしたね」
葵は相槌を打ち続けた。三つの言葉を、ローテーションで。通話を切ったあと、画面に残った通話時間を見つめて、葵はなぜか数えてみたくなった。今夜、自分は「すごいですね」を何回言っただろう。たぶん、十回は下らない。そして彼は、一度も葵に質問をしなかった。
通話の終わりに、ショウは言った。
「葵さん、聞き上手ですね。こんなに話しやすい人、初めてですよ」
嬉しいはずの言葉が、手のひらから砂のようにこぼれていった。聞き上手。話しやすい。——それが、私という人間のすべてなのだろうか。
画面の向こうにいるのは、名前も顔も、本当のバックグラウンドも分からない「記号」のような男たちだった。送られてくるメッセージは、どれも似たり寄ったりだった。「写真のカフェ、おしゃれですね!」「お仕事は大変ですか?」——。そこには、生身の人間が持つはずの体温が、いっさい感じられなかった。
ショウとは、その週の土曜に一度だけ食事をした。
予約してあったのは、照明を落としたスペインバルだった。席に着くなり、ショウはメニューも開かずに言った。
「ここ、ワインが売りなんだよね。同じのでいい?」
「あ、はい。お願いします」
本当は、白ワインは得意ではなかった。
「料理も、俺が頼んでおくよ。女の子はこういうの好きでしょ」
運ばれてきた前菜の皿には、生ハムと、山盛りのパクチーが載っていた。葵は、パクチーが食べられない。
「どう? うまいでしょ」
「……おいしいです」
噛まずに飲み込むように、ひと口ずつ運んだ。ショウは前の会社の話を延々としている。上司がいかに無能だったか、自分がいかに正しかったか。
「すごいですね」
「へえ、そうなんですか」
「それは大変でしたね」
あの三つの言葉が、また口から出ていった。
「でしょ? やっぱり葵さんは、分かってくれるなあ」
別れ際、ショウは駅の改札の前で手を振った。
「また連絡するね」
「はい、楽しみにしてます」
改札を抜けてから、口の中にまだ残っている草の匂いに気づいた。自販機で水を買って、ホームで一気に飲んだ。その夜以降、ショウからの連絡は来なかった。それがほっとしたのか、傷ついたのか、自分でも判断がつかなかった。
それでも、葵は返信を続けた。丁寧に、感じよく、絵文字を添えて。「楽しい女」の仮面は、画面越しでも機能した。むしろ、文章のほうが、よく働いた。
一度だけ、実験をしてみたことがある。二週目の木曜の夜、プロフィールの自己紹介文を、書き換えてみたのだ。
〈本当は、休日は家でぼんやりしているのが好きです。人に気を遣いすぎて、疲れてしまうことがあります。結婚して、子どもを持つことを、真剣に考えています〉
読み返すと、頬が熱くなった。裸で街を歩くような気分だった。それでも、保存ボタンを押した。
翌朝、いいねの通知の数が、目に見えて減っていた。昨日まで毎日二桁あったのが、一桁になり、昼には、ゼロになった。
夕方、葵は、おそるおそる、元の文章に戻した。〈明るくて前向きだとよく言われます。休日は料理やカフェ巡りを楽しんでいます〉。保存した途端に、スマートフォンが小さく震えて、一件のいいねが届いた。
画面を見つめて、複雑な気持ちになった。正直に書いた私は選ばれず、嘘の混じった私が、選ばれる。それは、これまでの人生で何十回も確かめてきた事実の、ただの再確認だった。
*
十月に入った最初の月曜日、出社すると、デスクの端にはまだ藍色の小皿が置かれていた。
葵は目を逸らして、パソコンの電源を入れた。気がつくと小皿は、先週より、手前に動いている気がする。誰かが動かしたのだろうか。それとも、自分が無意識に引き寄せたのか。
「葵さん、おはようございます」
後ろから声がして、振り返ると、高梨さんが小さな紙袋を持って立っていた。
「サンプルの追加、届いたので。……顔色、あんまりよくないですね。寝てますか?」
「え、そうですか? 大丈夫ですよ、ちょっと夜更かししちゃって」
葵は反射的に笑った。高梨さんは、そんな葵の顔をじっと見てから、短く言った。
「寝不足は、笑っても隠せないですよ」
責めるでも、茶化すでもない、ただ事実を述べるような言い方だった。葵が返事に詰まっているうちに、彼は「あ、こっち、確認お願いします」と書類を机に置いて、さっさと自分の席に戻っていった。
何も、見透かされているわけではない。そう思おうとした。けれど、胸のどこかが小さく鳴ったのは、確かだった。
夜更かしの原因は、もちろんアプリだった。帰宅して、シャワーを浴びて、布団に入ってから、気がつくと二時間も、画面をスクロールしている。返信が来ているかを確かめるたびに、胸が弾む。来ていないと、勝手に、がっかりしている。そんな自分に、いちいち気がつく。
お昼休みには、みなみが嬉しそうに寄ってきた。
「葵さん、どうでした? アプリ、いい人いました?」
「うーん、まだまだかな。でも、いろんな人がいて面白いよ」
「さすが葵さん、余裕ですね。私なんて最初、緊張して全然メッセージ返せなかったのに」
「あはは、慣れだよ、慣れ」
サンドイッチの包みを開けながら、葵は笑っていた。この子には、きっと一生分からないだろう。夜の部屋で画面を覗き込んでいる自分の顔が、どんな色をしているのかなんて。そう思ってから、それを分からせないようにしているのは自分のほうだ、と思い直した。
「ちなみに、葵さんってどんな人がタイプなんですか?」
「え、うーん。優しい人、かな」
「ありきたり! もっと具体的に」
「具体的に……一緒にいて、疲れない人?」
「それ、誰だって疲れない人がいいですよ」
みなみが笑う。葵も笑った。確かに、答えになっていない。好きな食べ物も、好きな映画も、好きな色さえ、聞かれれば相手に合わせて答えてきた。タイプなんて、自分の中に探しに行ったこともなかった。
その週の木曜日、葵は一人でフロアに残っていた。終電まで間があって、みなみも帰ったあとの静けさの中で、色見本の整理をしていた。キーボードの音が止んだとき、デスクの端の小皿が目に入った。
給湯室で洗って、拭いて、机の上に戻す。引き出しの奥にしまってあった個包装の羊羹を一本、その上に載せた。深い藍の底に、栗色の羊羹が、不思議なほど映えた。誰もいないフロアで、それを一口ずつ食べた。甘い。ただそれだけで、涙がにじみそうになった。
食べ終えてから、衝動的にスマートフォンを取り出して、皿の写真を一枚だけ撮った。誰にも見せるあてのない写真だった。
自分の好きな色の上に、自分の好きなものを置く。たったそれだけのことが、こんなにも久しぶりだった。
翌朝、小皿は乾いて、元の位置にあった。誰にも気づかれていないはずだった。
翌週の月曜、高梨さんが朝一番に打ち合わせの資料を届けに来て、デスクの端で足を止めた。
「皿、洗ってくれたんですね」
「あ……すみません、勝手に。羊羹を食べたくて」
言ってから、顔が熱くなった。何の言い訳にもなっていない。
「羊羹」
「はい。藍に、すごく合うんです」
高梨さんは、小皿をちらりと見て、それから葵の顔を見た。
「じゃあ、それはもう、葵さんの皿ですね」
「いえ、会社のサンプルですから」
「サンプルは、もう一枚あります」
それだけ言って、資料を置いて去っていった。残された葵は、皿の縁を、人差し指でなぞった。
*
二人目に会ったのは、登録して二週間が過ぎた土曜日だった。
ユウトという名前の、35歳の男性だった。プロフィールの写真は、湖畔で撮ったらしいさわやかな笑顔。メッセージのやりとりは、二週間続いた。映画の趣味が近くて、返信も丁寧で、文章の端々に、気遣いが滲んでいた。会いたいと言われたとき、葵は迷った末に、「はい、ぜひ」と返した。
前日の仕事帰り、行きつけの美容院に寄った。いつもの美容師さんが、毛先を整えながら、鏡越しに聞いた。
「葵さん、明日デートですか?」
「あ、まあ……そんな感じです」
「いいなあ。どんな人ですか?」
「普通の人、だと思います。会ってみないと、分からないですけど」
「わあ、楽しみですね」
「ですねー」
鏡の中の自分が、楽しみで仕方がないという顔で笑っている。美容師さんが、その笑顔につられて笑う。誰も、疑わない。——この笑顔の裏で、胃が痛くなっていることなんて。
当日の朝、葵は洗面所の鏡の前で、何度も表情の練習をしてしまった。目を細めすぎない。口を開けすぎない。前髪は、今日は分けないほうが優しく見える。ワンピースは、清楚すぎず、くだけすぎず。たった一度のお茶なのに、面接に向かう人みたいだと、我ながら呆れた。
家を出る前に、玄関の姿見で全身を確かめた。そこにいる女性には、どこにも隙がなかった。——隙がなさすぎて、誰にも触れる場所がなさそうに見えた。
待ち合わせは、駅前のカフェだった。先に着いて、窓際の席に座る。約束の時間ちょうどに、写真よりも疲れた顔のユウトが現れた。
「はじめまして。葵さん、ですよね。写真通りですね」
「ありがとうございます。ユウトさんも、写真通りです」
もちろん、嘘だった。写真は、五年前のものらしい。けれど、そんなことは言えるはずもなかった。
最初の三十分は、悪くなかった。映画の話、仕事の話。葵はいつものように、笑顔で相槌を打ち、話を引き出し、ときどき冗談を挟んだ。ユウトは何度か声を出して笑った。「葵さん、話しやすいなあ」と言われて、葵は内心ほっとしていた。
流れが変わったのは、二杯目のコーヒーが運ばれてきたあたりだった。
「あのさ、聞いていいですか。葵さんって、結婚したら仕事、辞めるタイプですか?」
「え? うーん、どうでしょう。続けたいとは思っていますけど」
「そっか。ちなみに、年収ってどれくらいなんですか? いや、失礼なのは分かってるんだけど、お互い、ミスマッチは避けたいじゃないですか」
その質問が、やけに事務的に響いた。葵は笑顔を保ったまま、無難に金額の範囲だけを答えた。ユウトは「へえ」と頷いて、テーブルの端に置いたスマートフォンを、ちらりと見た。画面が光るたびに、視線がそちらへ流れる。
「あと、これはあくまで、聞いておきたいだけなんですけど」
ユウトが声を落とした。
「子どもって、欲しいと思ってます? あ、俺は別に、どっちでもいいんですよ。ただ、お互いこの年齢でしょう。早めにすり合わせておいたほうが、後で揉めないかなって」
スプーンを持つ手が、止まった。
欲しい。欲しくて欲しくて、仕方がない。その答えが、喉元までせり上がってきた。けれどその瞬間、葵の中の何かが、ブレーキをかけた。
「うーん、授かりものですからね。もちろん、縁があればいいなって思いますけど」
自分の声が、笑っていた。
「あはは、でも私なんて、もう厳しいほうですよね。ユウトさんは、まだまだ選べる立場ですし」
冗談めかして言った。ユウトは「いやいや、そんなことは」と、半分だけ否定して、半分だけ笑った。その「半分」が、葵の胸にじわりと沁みた。
会計のとき、ユウトは当たり前のような顔で「割り勘でいいですか」と言った。葵は「もちろんです」と財布を出した。駅の改札の前で、彼は「今日はありがとう。また連絡します」と言って、手を振った。
その「また」は、来なかった。
帰りの電車の中で、葵は座席の端に体を預けて、窓の外を流れる夜景を見ていた。自分は何を期待していたんだろう。笑って、気遣って、冗談を言って、「話しやすいなあ」と言われて。それは、これまで何十回も繰り返してきた、「楽しい女」の仕事の成果だった。そして、その仕事の成果を差し出すたびに、本当に欲しいものから、自分のほうから遠ざかっている。
子どもが欲しい、と言えなかった。大事にされたい、とも言えなかった。画面の向こうの顔の見えない人たちだけでなく、目の前に座っていた人にさえ。
自宅の最寄り駅に着いても、すぐ家に帰る気になれなかった。ホームのベンチに腰を下ろして、バッグから化粧ポーチを出し、小さな鏡を覗く。口紅は、ほとんど落ちていなかった。三時間、笑い続けた頬が、ひりひりと痛かった。
鏡の中の自分に、ぽつりと話しかけた。
「……お疲れ。がんばったね」
誰にも言ってもらえないなら、せめて自分で。そう思ったのに、返事をするはずの鏡の中の顔は、泣き出す一歩手前で、それでも口角だけを律儀に上げていた。
優しそうな人も、いなかったわけではない。ヒロキという33歳の男性は、返事が丁寧で、文面から人柄の良さが伝わってくるような人だった。十日ほどやりとりが続いた夜、葵はメッセージの入力欄に、〈実は最近、ちょっと疲れてて〉と打ってみた。送信ボタンの上で、指が止まる。三十秒ほど、画面を見つめた。それから、一文字ずつ、消した。
〈最近、仕事が楽しくて忙しいです!〉
結局、そう送った。〈頑張り屋さんなんですね〉と返ってきて、〈いえいえ、楽しんでるだけです〉と返した。そのやりとりのあと、ヒロキからの連絡は、減っていった。理由は、考えなくても分かった。
*
もう一人、忘れられない相手がいる。
ユウトとのことがあった一週間後に、マッチングした男性だった。やりとりを始めて四日目の夜、唐突にメッセージが届いた。
〈今夜、会えない? 近くのホテル、取ってあるんだけど〉
画面を見たまま、葵は固まった。それまで、天気や仕事の話しかしていなかった。ただの一度も、電話すらしていない。
〈ごめんなさい、そういうつもりではないです〉
震える指でそう返すと、数分後に既読がつき、〈あ、そうなんだ。じゃあいいや〉とだけ返ってきた。そのあとすぐ、相手のプロフィールが画面から消えた。ブロックされたのだろう。
たった数行のやりとりだった。それなのに、体の芯が冷えて、しばらくスマートフォンを床に置いたまま、動けなかった。恥ずかしいのか、悔しいのか、怖いのか。どの感情も正確ではなかった。ただ、「誰でもいい誰か」として扱われた感触だけが、皮膚の下にざらりと残った。
画面の向こうで、毎日、誰かが誰かを選んで、誰かを捨てている。それが当たり前の場所に、自分は、何を求めて足を踏み入れたのだろう。
一日に何人もの男性と同時にメッセージを交わす。会話が弾んでも、数日経つとパタリと連絡が途絶えたり、あるいは、突然下世話な話題を振られて凍りついたりする。
「アプリって、こんなにすり減るものなんだ……」
休日、部屋のベッドに寝転がって画面をスクロールしていると、指が鉛のように重かった。プロフィールに並ぶ「結婚願望:すぐにでも」「趣味:映画鑑賞、ドライブ」といった項目を眺めても、それが本心なのか、モテるために盛られた虚像なのか、誰にも見分けがつかない。
——この中に、本当に私の人生を預けられる人がいるのだろうか。
——それとも私は、また傷つくための新しい扉を、自分から開けてしまっただけなのだろうか。
手軽に出会えるはずの場所は、葵の心をいちばん孤独にした。画面を閉じれば、部屋にはしんとした沈黙だけが残る。SNSを開けば、友人たちの幸せそうな家族写真が目に飛び込んでくる。その眩しさと、自分が今立っているデジタルな荒野との落差に、涙が出そうになる夜が続いた。
ある夜、葵は布団の中で、ふと気づいた。
最近、笑っていない。いや、笑ってはいる。会社でも、アプリの中でも、笑顔の絵文字を山のように並べている。けれど、一人になった途端、顔の筋肉が、びっくりするほど何も動かないのだ。
「私、やっぱり疲れてるのかな……」
アプリのアイコンを見るだけで、胃のあたりがキリキリと痛むようになった。葵は通知をオフにして、そのアプリを、フォルダの奥底へと追いやった。
誰かを愛したい、ちゃんとした恋愛がしたいと願う気持ちはあるのに、その入口ですでに息切れしている自分が、いじらしくて、情けなかった。
日曜の夕方、近所のスーパーに買い物に出かけた。野菜売り場で玉ねぎを手に取っていると、隣のカートの前で、同い年くらいのカップルが立ち止まっていた。
「今日の夕飯、何にする?」
「なんでもいい」
「それが一番困るんだけど」
「じゃあ、カレー」
「昨日もカレーだったじゃん」
「え、あれはシチューだよ」
「同じようなもんでしょ!」
言い合っているのに、二人とも笑っている。女性が男性の腕を軽く叩き、男性が大げさに痛がってみせた。カートの中に、カレールーの箱が放り込まれる。
葵は玉ねぎを持ったまま、動けずにいた。何でもない会話だった。言い争いにすら、なっていない。けれど、あの他愛なさこそが、自分のいちばん欲しいものだった。
玉ねぎをかごに入れて、肉売り場へ向かう。一人分のパックの前に立った瞬間、鼻の奥がつんと痛んだ。一人分のひき肉は、いつもより小さく見えた。
*
そんな、すっかり心がすり減っていたある日の仕事帰りのこと。
駅へ向かう途中で、スマートフォンが短く震えた。真由美からのメッセージだった。
〈最近、全然連絡ないけど、生きてる?〉
続けて、もう一通。
〈葵、また一人で抱え込んでるでしょ。顔、見せなさい。今週の金曜、空いてる?〉
信号待ちの交差点で、葵はその文字を見つめた。生きてる? という、ぶっきらぼうな問いかけが、胸の硬くなった部分に、じんわりと触れた。
〈空いてる〉
そう打って、迷ってから、もう一行付け足した。
〈会いたい〉
真由美がすぐに既読をつけても、葵は次の言葉を足さなかった。会える理由を面白く説明しなくても、約束はできる。そのことが、不思議だった。
送信したあとも、葵はしばらく画面を見ていた。〈会いたい〉の四文字は消えずに残っている。
信号が青に変わり、人の波が動き出した。葵はその流れの中に、ゆっくりと足を踏み出した。
返信は、すぐに来た。
〈何か食べたいものある?〉
〈なんでもいい〉
〈それが一番困る〉
思わず、吹き出してしまった。日曜のスーパーで聞いた、あの会話と同じだった。
〈よし、会社近くのイタリアン、予約しとく! 絶対来てよ!〉
画面を見つめながら、葵は、久しぶりに自分の口が勝手に笑っているのを感じた。作っていない笑顔だった。




