第2章:七年の呪縛と、焦燥の31歳
カフェを出てから駅まで、葵はわざと遠回りをして歩いた。夕暮れの冷たい風に背中を押されるようで、足取りはどこかおぼつかなかった。川沿いの街路樹の葉が、風にあおられてカサカサと乾いた音を立てている。九月の終わりに、季節はもう一段、先へ進もうとしていた。
帰りの電車は、金曜の夜らしく混んでいた。吊り革につかまって、向かいの窓に映る人の顔を眺める。疲れた顔、赤い顔、スマートフォンに見入る顔。みんな、それぞれの行き先を持っているように見えた。自分だけが、行き先のない切符を握りしめているようだった。
次の駅で目の前の席が空いたとき、離れたところにマタニティマークをつけた女性が立っているのに気づいた。「どうぞ」と声をかけると、女性は「ありがとうございます」と深く頭を下げて、腰を下ろした。お腹に手を添える仕草を、葵は吊り革につかまったまま、見ないふりをして見ていた。自分の手には、添える場所がどこにもなかった。
ふと見上げた車内広告に、「ブライダルチェック、はじめませんか」という文字が躍っていた。婦人科クリニックの広告だった。葵は、視線を逸らした。二か月前、同じ広告の隅のQRコードをスクリーンショットに撮って、そのまま開けずにいる。
最寄り駅の改札を出ると、コンビニの明かりが目に入った。入って、半額になった弁当と、缶チューハイを一本かごに入れる。レジの店員に「温めますか」と聞かれて、「お願いします」と答えた。それが、その日、葵が自分の口から出した最後の「本当の」返事だった。あとは、家に帰るまで、誰とも口をきかなかった。
築十五年のワンルームのドアを開けると、閉め切った部屋の空気が、こもった匂いで迎えてくれた。電気をつけて、靴を脱ぎ、バッグを置く。想像していた通りの動作をなぞって、想像していた通りの静けさの中に、体を沈める。
キッチンの吊り戸棚の奥と食器棚には、まだ、揃いのマグカップが残っている。
白地に細い青の線が入った、揃いのマグカップだった。七年目の記念日に、「二人で使えるものがほしいな」と言って、葵が自分で買った。彼は「ありがとう」と笑って受け取って、一度もそれを持ち帰らなかった。置いていくのは危ないから、と彼は言った。見つかってしまうから、と。結局、二つとも葵の部屋に残った。別れてからも、片方は食器棚に、もう片方は吊り戸棚の奥に押し込んだまま、捨てることも、使うこともできずにいる。
温め終えた弁当を食べ、缶チューハイを半分だけ飲んだところで、スマートフォンが震えた。母からの着信だった。
「もしもし、葵? 今、大丈夫?」
「うん、大丈夫。どうしたの」
出る前に、頬を手のひらで二、三度こすった。電話の向こうに見えもしないのに、顔の筋肉を動かさないと、明るい声が出せないのだ。
「どうしたってほどじゃないんだけどね。さっき、お隣の山本さんの娘さんの話を聞いてね。ほら、あんたの一つ下の子。二人目が生まれたんですって」
「へえ、おめでたいね。よかったじゃん」
「お孫さんの写真、見せてもらってね。ちっちゃい手でねえ、指をぎゅっと握ってるの」
「かわいいね」
「かわいいのよ。お父さんまで、他所の孫なのに写真を見に行ってね」
「え、お父さんが?」
「そうなのよ。帰ってきてから、『ええなあ』って、それだけ言って黙っちゃって」
その様子が目に浮かんで、葵は声を出して笑った。笑うほど、喉の奥は狭くなっていった。
「ところで、ご飯はちゃんと食べてるの」
「今まさに食べてる。コンビニのお弁当」
「また? 体壊すわよ」
「半額のやつだから、お得なんだよ」
「そういう問題じゃありません」
「それでね」
母は間を置いて、声を落とした。
「お母さん、別に急かしてるんじゃないのよ。ただね、あんた、最近どうなのかなと思って。いい人とか、いないの?」
やっぱり、という言葉が喉元まで上がってきて、葵はそれを引っ込めた。
「いるよー、いっぱい。選び放題で困ってるくらい」
「もう、ふざけて」
「ふざけてないって。心配しなくても大丈夫だよ。仕事も忙しいし、毎日楽しいし」
「……あんたはね」
母が、ふいに静かな声になった。
「昔から、大丈夫しか言わない子だったから」
手の中の缶が、冷たかった。何も返せずにいると、母は「ごめんね、変なこと言って。お父さんも、元気にしてるからね。たまには帰ってらっしゃい」と明るい声に戻って、早口で電話を切った。
通話の切れた画面を見つめて、葵はしばらく動けなかった。母はもしかして、気づいているのだろうか。あの七年の間、電話口で毎回「大丈夫、大丈夫」と繰り返していた娘が、どこで何をしていたのかを。いや、気づいているはずがない。気づいているなら、もっと違う言い方をするはずだ。
そう思い込もうとして、缶の残りを一息に飲み干した。
*
23歳の春だった。
入社二年目の葵は、業界団体が主催する商品開発のセミナーに、上司の代理で出席した。会場の隅にあったコーヒーのサーバーの前で、知らない男性に声をかけられたのが始まりだった。
「それ、手が震えてますよ。もしかして、緊張してます?」
別の会社の人だった。名刺には、有名な食器ブランドの名前と、課長という肩書きが並んでいた。三十代半ばの、背の高い人だ。ネクタイの結び目が緩んでいて、笑うと目尻に皺が寄った。
「す、すみません。初めてで、こういう場」
「大丈夫、みんな慣れてるふりをしてるだけですよ。僕も、最初の頃は名刺を落としまくってた」
その笑い方が、肩の力をすっと抜いてくれた。休憩時間のあいだだけの、ほんの短い立ち話だったのに、葵は帰りの電車で何度もその顔を思い返していた。
それから数日後、セミナーのお礼を兼ねて、彼のほうからメールが届いた。何度かのやりとりのあと、食事に誘われた。仕事の相談に乗ってもらうだけのつもりで、葵は出かけていった。
「新人のうちはさ、断れない仕事が全部くるんだよね」
「はい。でも、断ったら迷惑かなって思ってしまって」
「迷惑なんてかからないよ。断れない人のほうが、本当は困るんだ。いつか潰れるから」
「……潰れそうに見えますか、私」
「見えない。見えないから、心配なんだよ」
彼は話を聞くのがうまい人だった。新人のつまずきや、人間関係のしんどさを、否定せずに最後まで聞いて、「それはきつかったね」と言ってくれる。そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。いつも聞き役に回ってばかりの葵が、気がつくと、自分のことを一時間も喋っていた。
「葵さんは、がんばり屋なんだね」
帰り際、彼が言った。
「でも、がんばりすぎないでいいんだよ。たまには僕に、甘えていいから」
その夜、帰り道の改札で、葵は自分の心臓の音が、他の人にも聞こえるのではないかと思ったほどだった。
彼に家族がいると知らされたのは、三か月後のことだ。
三回目か、四回目のデートだったと思う。食事のあとの車の中で、彼はハンドルを握ったまま、長い沈黙のあとに口を開いた。
「葵ちゃん。……話さなきゃいけないことがある」
左手の薬指に、指輪はなかった。そのことに、葵は一度も疑問を持たなかった。
「僕には、妻と、子どもがいる。ずっと言えなかった。きみに嫌われるのが、怖くて」
頭の中が真っ白になった。車の窓の外で、赤信号が長く続いていた。
「でも、妻とはもう何年も、冷え切ってるんだ。形だけの夫婦で、家の中ではほとんど話さない。きみといると、そういう生活で忘れていた感情が、よみがえるんだよ」
その言葉を、疑うことを葵は知らなかった。いや、知っていたのかもしれない。知っていて、疑わないことを選んだ。ここで降りてしまえば、あのコーヒーサーバーの前で笑った人も、「甘えていいから」と言ってくれた声も、全部が嘘になってしまうような気がして。
「……いつか、ちゃんとするから。必ず離婚するから。もう少しだけ、待っていてほしい」
「いつか」。それが、あの七年の間、葵が抱きしめ続けた言葉になった。
*
週末のデートは、いつも人目のつかない場所だった。郊外のドライブインや、県境を越えた先の小さなビジネスホテル。昼間の街を二人で歩いたことは、数えるほどしかない。歩くときは、彼が必ず先を歩き、葵はその三歩後ろをついていった。誰かに見られても、仕事の関係の人に見えるように。
ある土曜の夜、ビジネスホテルの部屋で、コンビニの袋を広げて夕食にした。彼がリモコンでテレビのチャンネルを回している。
「来週の土曜は、どう?」
「来週は、子どもの運動会なんだ」
彼はさらりと言った。画面の中では、芸人が大げさに驚いている。
「そっか。じゃあ、再来週」
「再来週も、まだ分からないな。決まったら連絡する」
「うん、分かった。待ってる」
言ってしまってから、「待ってる」の重さに気づいた。彼は笑って、葵の頭に手を置いた。
「葵ちゃんは、本当に聞き分けがいいね」
褒め言葉だと分かっていた。分かっていたから、葵は嬉しい顔をした。サンドイッチの包みを開ける指が、うまく動かなかった。
それでも一度だけ、昼の海を二人で歩いたことがある。24歳の夏だった。出張の帰りだと言って、彼が一日だけ時間を作ってくれた。遠くまで車を走らせて、人のいない瀬戸内の浜辺に降りた。サンダルを脱いで、波打ち際を並んで歩いた。「誰もいないね」と葵が笑うと、彼は「今日だけは、誰も見てないよ」と言って、初めて昼間の光の中で手をつないでくれた。その手の乾いた感触を、葵は今でも覚えている。たぶん、あの一日が七年を引き延ばしたのだと思う。あの一日があったから、この先に続くはずの何百という週末を、耐えられると思ってしまったのだ。
一度、ドライブインの駐車場で、彼の携帯電話が鳴ったことがある。画面を見た彼は「ごめん」と言って車の外へ出ていった。窓越しに聞こえてきたのは、いつもより高い、柔らかな声だった。「うん、パパ、もうすぐ帰るよ。宿題はちゃんとやった?」。葵は助手席で、膝の上のバッグの持ち手を、ぎゅっと握りしめていた。戻ってきた彼は「ごめん、会社から」と言った。「いいよ」と葵は答えた。会社からではないことは、分かっていた。分かっていることを、言わずにいられる自分が、好きでも嫌いでもなかった。
一度だけ、彼の携帯電話の待ち受け画面が見えてしまったことがある。小さな女の子と男の子が、海辺で笑っている写真だった。目を逸らした。逸らしたのに、その笑顔は、まぶたの裏に焼きついた。この子たちから、お父さんを奪うことはできない。そう思った瞬間から、葵の中で「彼と結婚したい」という気持ちと、「結婚してはいけない」という気持ちが、同時に居座るようになった。どちらも本物で、どちらも消せなかった。だから、「待つ」という、どちらにも決めない選択だけが残った。
友人たちが彼氏とテーマパークに行ったとか、イルミネーションの下で写真を撮ったとか、そんな話を聞くたびに、葵は笑顔を作って「いいなあ」と相槌を打った。そして帰り道に、胸の奥の蓋をぎゅっと押さえつけた。私たちには私たちの、特別な絆がある。私は、あの人の「特別」なんだから。毎晩のように、そう言い聞かせた。
誕生日やクリスマスを一人で過ごした夜が、何度あっただろう。
一番覚えているのは、26歳の冬のクリスマスだ。その日は彼が、朝から家族で旅行に出かけていた。夕方に「メリークリスマス。愛してるよ」と短いメッセージだけが届いた。葵はその夜、一人で駅前のイルミネーションを見に出かけた。ひとりで来ている人なんて、他にいなかった。光のトンネルの下で、恋人たちが次々に自撮りをしては笑い合っている。その中を、葵は誰とも目を合わせずに、足早に通り抜けた。
帰りに買った小さなケーキを、部屋で一人で食べた。ロウソクはつけなかった。携帯電話の画面を見つめて、「今、家族と一緒にいるんだな」と想像しては涙をこぼし、それでも夜の十一時過ぎに「おやすみ」の二文字が届くと、それだけで全部が許されたような気持ちになった。
それを「幸せ」と呼んでいたのだから、いま思えば、あの頃の自分は、ちゃんと壊れていたのだと思う。
友人の結婚式にも、何度か呼ばれた。二次会の席で、新郎新婦の友人たちが「次は葵の番だね」と笑いかけてくる。そのたびに「そうだね、頑張らなきゃ」と答えていた。何を頑張るのか、自分でも分からないまま。式場のお手洗いの個室で、ブーケトスの歓声を聞きながら、声を殺して泣いたこともあった。祝福の輪の外側で、泣いている自分が、世界でいちばん惨めな生き物のように思えた。
待てど暮らせど、彼の家庭が壊れる気配はなかった。「いつか」は、季節が変わるたびに新しい言い訳を連れてきた。仕事が忙しい。妻が体調を崩した。親の介護が始まった。そして、二人目の子どもが生まれた。
二人目が生まれたと聞いた日、葵は会社のトイレで、手を洗いながら鏡に向かって、何度も口の形を作った。「おめでとう」と言わなくてはいけないと思ったのだ。「よかったね」と。彼の前で、笑って、そう言えるように。
声は、出なかった。
*
30歳の誕生日は、その年の三月だった。彼は「当日は無理だから、来週お祝いしよう」と言った。葵は定時で会社を出て、帰りにコンビニで小さなショートケーキをひとつ買った。ロウソクは、売っていなかった。部屋で一人、フォークだけを突き刺して、先端のいちごから食べた。
夜の九時過ぎに、真由美から長いメッセージが届いた。〈誕生日おめでとう。三十代、きっと最高に面白くなるから。楽しみにしてな〉。読みながら、いちごの酸っぱさが、喉の奥に引っかかった。楽しみにする、という言葉が、遠い国の言語みたいに聞こえた。彼から「おめでとう」と一行だけ届いたのは、日付が変わる直前だった。
母からは、翌日の昼に電話が来た。「忙しかったんでしょう」と言われて、「うん、ごめんね」と謝った。誕生日を祝われる側なのに、なぜか謝っていた。
30歳を迎えた年の春、桜がもう散りかけた頃だった。
彼に会うのは、二週間ぶりだった。待ち合わせた郊外のレストランの駐車場で、葵は車に乗り込むなり、膝の上で組んだ両手が震えているのに気づいた。
「あのね。私、もう30歳になったの」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。言いたいことは、もっと別にあるはずだった。
「うん、誕生日おめでとう。遅くなってごめん」
「違うの。そうじゃなくて」
声が裏返った。それを聞いて、彼が初めてこちらを向いた。
「私、子どもがほしいの。結婚だってしたい。あなたと、って、ずっと待ってきた。でも、もう待てない。いつなの。いつまで待てばいいの」
言ってしまった、と思った。七年間、一度も口にしなかった言葉だった。
彼は長いこと、前を向いたままハンドルに額を預けていた。やがて顔を上げた彼の目は、困ったような、けれどどこか冷たい色をしていた。初めて見る目だった。
「ごめん」
低い声だった。
「やっぱり、家庭を捨てることはできない。きみのことも、大切だよ。でも、子どもたちや妻を傷つけるわけにはいかないんだ」
その言葉を聞いた瞬間、葵の頭の中から、音が消えた。
——じゃあ、私は。
胸の奥で、小さな声がした。七年間、傷つけてもいい人だったのだろうか。家庭を傷つけないために、傷つくのは、いつも私の側でよかったのだろうか。
問い返せなかった。問い返すことが、できなかった。「そう」と言って、車を降りた。ドアを閉めるとき、自分でも驚くほど静かに閉めた。バックミラーに映った彼の顔は、安堵しているようにも見えた。
それが、最後だった。
その夜のうちに、連絡先がすべてブロックされた。共通の知人はひとりもいなかった。出会ったセミナーの会場にも、その後は一度も現れなかった。彼は、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗に、跡形もなく葵の世界から消えた。
翌朝、葵はいつも通り出社した。「おはようございます」と笑顔で挨拶をして、パソコンを立ち上げ、会議資料を作った。昼休みには同僚と笑い合い、定時に帰り、自宅でシャワーを浴びた。傍目には、何も変わらなかったはずだ。ただ、玄関で靴を脱いだ瞬間、足から力が抜けて、その場に座り込んだ。そこから三時間、動けなかった。
あの恋の終わりには、盛大な修羅場も、ドラマチックな涙もなかった。あまりにも静かで、息ができないほど冷たかった。ただ、一人の部屋に、静けさと、自分の無力さだけが残った。23歳から30歳までの時間は戻ってこない。彼と過ごした時間は戻ってこない。手の中に残ったのは、誰にも話せない七年間と、これからをどう生きるかという問いだった。
「私、あのとき、何をしてたんだろう……」
今夜も、つぶやいてしまう。部屋の空気は答えてくれなかった。
一番堪えたのは、別れて三か月ほど経った頃だった。衣替えのために引き出しを整理していて、奥から、折りたたんだ駐車場の領収書の束が出てきた。彼が「経費で落とすから」と言って、いつも葵に渡して処分させていたものだった。日付を一枚ずつ眺めていくうちに、七年分の週末が、紙切れの上にずらりと並んでいるのが見えた。そのすべての日付で、自分は誰にも見せない顔をして、あの人の隣に座っていた。声を出して泣いたのは、その夜が最初だった。泣き終わってから、領収書は燃えるゴミの日に出した。マグカップは、出せなかった。
*
別れてしばらくしてから、葵は親友の真由美にだけ、ようやくこの話を打ち明けた。
居酒屋の個室で、涙も出ないまま一通り話し終えると、真由美は何も言わずにジョッキを置いて、しばらく天井を睨んでいた。それから、「ごめん、ちょっと殴りに行きたい」と真顔で言った。
「誰を?」
「その男と、あんたに七年間、何も言えなかった私」
その言葉を聞いたとき、初めて泣けた。たった一人の友人にさえ隠してきた七年間を、責めもせず、ただ怒ってくれた人がいる。そのことが、葵の凍っていた心の、一番奥にまで届いた。
「真由美は悪くないよ。私が言わなかったんだから」
「それがむかつくの」
真由美は、おしぼりで目の端を乱暴に拭った。
「言わなかったんじゃなくて、言えなかったんでしょ。私が、言わせてあげられなかった」
「そんなこと……」
「あるの。あんたが『大丈夫』って言うとき、一回くらい『嘘つけ』って言えばよかった」
「……ひどい親友だね」
「でしょ」
二人で、泣きながら笑った。
「ねえ、約束して」
「何を」
「次に誰かを好きになったら、ちゃんと怒って。私が許す。怒鳴ってもいいし、物を投げてもいい」
「物は投げないよ」
「じゃあ、せめて文句の一つは言って」
その約束だけは、あれから一度も果たせていない。
それでも、あのときの真由美にも、まだ話せていないことがある。待っていた間に何度も思った、「このまま誰にも選ばれずに終わるのかもしれない」という恐怖だ。
*
食べ終えた弁当の容器を片付け、シャワーを浴びてからも、葵は眠れなかった。
ベッドの上で、スマートフォンを手に取る。気がつくと、検索窓に打っていた。
「31歳 妊娠 確率」
開いてはいけないと分かっているのに、指が止まらなかった。年齢ごとのグラフ。三十五歳を境に急カーブで下がっていく線。「高齢出産」という言葉。「妊活は早めに」という見出し。画面をスクロールするたびに、胸のあたりがきゅうっと縮んだ。
子どもが欲しい。心からそう願うようになったのは、ここ一、二年のことだ。かつては「結婚や出産なんて、いつか自然にできるものだ」と、どこかで楽観視していた。しかし、23歳から30歳までの時間を「不倫」という名の暗闇に捧げた今、その代償の大きさに打ち震えずにはいられない。31歳。世間から見ればまだ若いと言われるのかもしれないが、この「1年」が持つ意味の重さを、葵は痛いほど実感していた。
画面を消して、枕元に伏せた。
別れてからの一年半、葵が逃げ込んだ先は仕事だった。深夜まで残って色見本を並べ、休日には工房へ足を運んで、窯の前に座り込んだ。「ひだまり」という名前は、そんな日々の中で、ふと浮かんだものだ。冬の縁側に差し込む、あのやわらかな光。そこに置かれた皿が、誰かの朝ごはんを、ほんの少し明るくする。そんなものを作りたいと会議で話したとき、部長は「葵さんらしい名前だね」と笑ってくれた。
らしい、というのは、どういう意味だったのだろう。陽だまりのように明るくて、あたたかくて、誰も傷つけない人。そういう意味なのだとしたら、それが私の「らしさ」なのだとしたら。
仕事では、色の組み合わせを何千通りも考える。どの色をどこに置けば、手に取る人が笑顔になるか。そういうことなら、誰よりも上手に判断できるのに。自分の人生の色だけは、もう何年も同じ灰色の絵の具で、塗りつぶし続けている気がした。
「もう二度と、誰かの影に怯えるような恋はしない」
暗闇の中で、心の中で固く誓った。けれど、誓いだけでは何も変わらないことも、今夜のカフェで嫌というほど思い知らされた。職場で「楽しい女」を演じてしまい、肝心なところで本音を隠してしまう癖は、そう簡単には抜けない。過去の傷があるからこそ、「重い女だと思われたくない」「また愛想を尽かされるのが怖い」という防衛本能が、反射的に働いてしまう。
「ちゃんとした恋愛って、どうやって始めるんだっけ……」
天井に向かって、問いかけてみた。答えは返ってこない。
暗闇の中でスマートフォンを開き、メモ帳に、思いつくまま箇条書きを打ち込んでいった。
・付き合っていることを、友達に言える
・週末の予定を、前の週に立てられる
・昼間の道を、並んで歩ける
・誕生日に、当日「おめでとう」と言ってもらえる
・怒っても、泣いても、嫌われない
最後の一行を打ってから、指が止まった。いちばん叶いそうにないのが、それだった。消そうとして、結局そのまま保存した。
翌日の土曜日、昼過ぎに目を覚ました葵は、カーテンの隙間から差し込む光の中で、枕元のスマートフォンが小さく震えているのに気づいた。
友人たちのグループトークに、動画が一本届いていた。「ひなちゃん、今日初めてつかまり立ちしました!」というメッセージとともに、満面の笑みを浮かべる母親と、家具にしがみついて、おぼつかない足取りで立ち上がる赤ちゃんの姿が映っている。
葵は三回続けて再生した。ふにゃふにゃの足が、ぷるぷる震えながら、それでも体を支えようとしている。画面のこちら側で、思わず頬がゆるんだ。
「おめでとう! すごいね!」
スタンプを付けて返信した。可愛い友人の子どもたちの成長は、叔母のような気持ちで見守りたいし、幸せであってほしいと願っている。それは本当なのに、送信した直後、ずしりと重いものが鳩尾のあたりに沈み込んだ。
——私には、何があるのだろう。
そのとき、画面の上部に新しい通知が浮かんだ。会社の後輩のみなみからだった。
「葵さん、昨日はありがとうございました! あの発注の件、ほんとに助かりました。お礼に、今度ランチおごらせてください!」
続けて、もう一通。
「あと、前に話したマッチングアプリのこと、気が向いたら覗いてみてくださいね。私の友達、それで結婚した子が三人もいるんです」
葵はベッドの中で、しばらくその画面を見つめていた。
最近周囲から盛んに勧められてきた「あれ」。現代の30代にとって、それはもはや珍しい出会いの手段ではない。分かっている。けれど、過去の傷を抱え、不器用な生き方をしてきた葵にとって、顔も知らない誰かが並ぶ世界は、果てしなく冷たくて、険しい荒野のように思えた。
それでも、このまま足踏みを続けるわけにはいかなかった。
葵は大きく息を吸って、指先で画面を叩いた。
「ありがとう。今度、ご飯行こうね。アプリ、ちょっと考えてみるよ」
送信を押して、画面を伏せる。窓の外では、昨日より高くなった空が、薄い水色に晴れていた。




