第1章:「楽しい女」という誤解
夕暮れのカフェテラスは、仕事を終えた人々が行き交うざわめきと、九月の終わりにしては早い夜風の気配が混ざり合っていた。川沿いの遊歩道に面した席から、ガラス窓に映る自分の横顔をぼんやり眺めながら、葵はストローでアイスティーをかき混ぜる。カラン、と乾いた氷の音が、妙に耳の奥で響いた。
金曜の夜だというのに、まっすぐ帰る気になれなかった。部屋の電気をつけて、誰もいない静けさの中で靴を脱ぐ。その一連の動作を思い浮かべただけで、足は駅とは反対の方向に向いてしまった。
金曜の夜は、今でも苦手だった。七年のあいだ、金曜は「連絡が来るかもしれない夜」で、来なかった夜のほうが多かった。夕食の支度をしながら、お風呂に入りながら、画面を何度も確かめる。通知音が鳴らないのを知っていて、音量を最大にしたまま枕元に置いた。あの人と別れて一年半が経つのに、金曜の夕方になると、体のどこかが勝手に身構えてしまう。スマートフォンを握る指に力が入る。もう誰からも、待たれるような連絡は来ないと、分かっているのに。
「葵って、本当に明るくて一緒にいて楽しいよね。周りをパッと明るくする天才だよ」
数日前、同期の飲み会で、別部署の男性にそう言われた。悪気のない笑顔だった。褒めようとして選んだ言葉だということも、分かっていた。それなのに、その瞬間、葵の胸の奥でチクリと小さな痛みが走った。
——まただ。
同期会は、駅前の居酒屋の座敷で開かれていた。十人ほどが長いテーブルを囲み、誰かの昇進祝いという名目で、乾杯はもう三回目に入っていた。声をかけてきたのは、他部署から参加していた安藤という男性だった。去年から営業に移ったとかで、顔を合わせるのは数えるほどしかない。人当たりのいい、感じのいい人だ。だからこそ、彼の言葉に他意がないことも、葵にはよく分かった。
「ありがとうございます。よく言われるんです」
そう返して笑ってみせると、周りの同期たちが「確かに」「葵がいると場が回るもんな」と口々に盛り上げてくれた。正解の受け答えだったと思う。実際、あの夜の葵は座敷の誰よりもよく笑っていたし、空いたグラスにはいち早く気づいたし、話の輪から外れそうな隅の席には自分から声をかけに行った。帰りのタクシーを手配したのも、割り勘の端数を計算して集金したのも、葵だった。
「そういうの、俺には絶対できないから尊敬するわ」
安藤さんはビールを傾けながら、満足そうにそう続けた。尊敬される。本来なら、ありがたいことのはずだった。それなのに、グラスを握る指先だけが、氷を握ったみたいに冷えていた。
「そういえば葵ってさ、結婚とかどうなの」
向かいの席の同期、美帆が、枝豆の殻を皿に置きながら聞いた。三年前に結婚して、今は育休明けの時短勤務だ。
「えー、したいけど、相手がいなくて。誰かいい人いない?」
「いるいる、って言いたいところだけど、葵に紹介するのはもったいない気がするんだよね。もっといい人じゃないと」
「何それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。だって葵は絶対すぐ見つかるでしょ。モテるもん」
「モテないってば」
「またまた」
美帆が笑い、周りも笑った。葵も笑って、ウーロンハイをひと口飲んだ。すぐ見つかる、というのが本当なら、どうして三週間前にまた一人になったのだろう。口には出さなかった。康平のことは、まだ誰にも話していない。話せば、「なんで?」と聞かれる。なんで、に答えられる自分がいない。
「ほら、安藤、お前も早く結婚しろよ」
「俺はいいんだよ。仕事が恋人だから」
どっと笑いが起きて、話題は営業部の新しい部長のことへ移っていった。葵は笑いの輪に混ざったまま、箸でしいたけの傘を何度も裏返していた。
お手洗いに立って、洗面台の鏡の前で、口角を指で押し上げてみた。ちゃんと上がる。上がるのに、鏡の中の顔は、他人の写真を眺めているみたいによそよそしかった。
「楽しい女」のポジションには、不思議とすんなり収まることができる。誰かが困っていれば真っ先に声をかけ、場がしらければ冗談を言って笑わせる。職場の飲み会でも、人数合わせで呼ばれた合コンでも、葵の周りには自然と人が集まり、それなりに盛り上がる。声を掛けられることも、少なくなかった。
今日の昼間も、そうだった。
*
葵が働いているのは、関西に本社のある食器と生活雑貨のメーカーで、所属は商品企画部だ。季節ごとの新シリーズの方向性を決め、色や形の組み合わせを考え、工房や工場とやり取りしながら一つの食器を店頭に並べるまで連れていく。年末の発売を控えた新シリーズ「ひだまり」は、入社十年目の葵が初めて主担当を任された企画だった。
「本当に、すみませんでした……」
昼休みが終わる直前の企画部のフロアで、後輩の森川みなみが、胸の前で資料を抱えたまま頭を下げていた。入社三年目の、人懐っこくて、そそっかしいところのある子だ。取引先の工房に送るサンプル発注書の数量を、一桁間違えて送ってしまったらしい。
「あー、うん。大丈夫、大丈夫。まだ向こうで着手してないはずだから、先に電話してみようか。ほら、私が言うよ」
「でも、私のミスなのに」
「発注書のフォーマットが分かりにくいって、前から思ってたんだよね。私が早めに直しておけばよかった。みなみちゃんは悪くないよ」
そう言いながら、葵はすでに受話器を持ち上げていた。本当は、フォーマットは悪くない。確認を怠ったのはみなみで、それを指摘するのが先輩の役目でもある。けれど目の前で泣き出しそうな顔をされると、いつも口が勝手に動いてしまう。叱るより先にかばう。かばってしまえば、場の空気は軽くなる。
電話の向こうの工房の担当者は、ありがたいことに「ああ、まだ土を練ってないんで、問題ないですよ」と笑ってくれた。受話器を置くと、みなみが目を潤ませて「葵さん、神です」と拝んでくる。葵は「やめてよー、大げさ」と笑って手を振った。
「でも葵さんって、悩みとかなさそうですよね。いつも余裕があって、憧れます」
無邪気に言われて、葵は一瞬だけ返事に詰まった。悩みなら、ありすぎるくらいだ。けれど、それをこの子に打ち明けられるはずもなかった。
「あるある、めちゃくちゃある。昨日もさ、冷蔵庫のヨーグルトの賞味期限が一週間切れてたの、食べてから気づいて凹んだもん」
「えっ、食べたんですか?」
「食べた」
「葵さん、強い……」
みなみが肩を揺らして笑った。話はそこで終わった。本当の悩みの代わりに、笑える程度の本当の話を差し出す。そういうときに嘘をついている自覚すら、もう葵にはなかった。
その様子を、離れた席から眺めている人がいた。商品開発課の高梨さんだ。今回のシリーズでは、試作品の窯入れから量産体制の調整までを一手に引き受けてくれている。同い年くらいなのに、いつも物静かで、会議でも余計なことは言わない。ただ、言うべきときには、驚くほど的確に言う人だった。
「葵さん、ちょっといいですか。今朝上がってきた最終サンプルなんですけど」
みなみが席に戻ったあと、高梨さんが小さな箱を持ってやって来た。机の上で包みを開くと、白い緩衝紙の中から、手のひらほどの小皿が四枚、顔を出す。卵色、生成り、薄いグレー、若草色。どれも陽だまりの縁側に置かれたような、やわらかな色合いだ。それが「ひだまり」シリーズの基本の四色だった。
「いい色ですね。ほんとに、イメージ通りです」
「ええ。で、これも一緒に焼いてみたんです。試作のときに、葵さんが最後まで手元から離さなかったやつ」
高梨さんは、もう一枚、別の小皿を取り出した。
深い藍色だった。釉薬が縁に向かってわずかに溜まり、そこだけ夜の海みたいに濃い青になっている。光を受けると、底のほうに星屑を沈めたような細かな斑点が見えた。
一目見て、息が止まった。
「……きれい」
思わず、口からこぼれていた。そうだ、これだ、と体のどこかが言っていた。試作の色見本を並べていたとき、葵はなぜか、この青の見本だけを何度も裏返しては戻していたのだ。
葵という名前は、母が好きだった花からもらったと聞いている。けれど、子どもの頃の葵が好きだった色は、花の色ではなかった。夏休みの終わりの夕方、空の端っこで日が落ちる直前に濃くなっていく、あの青だ。大人になってからは、そんなことを口にした覚えもない。
「ラインナップに入れませんか。四色のアクセントとして」
「あー……」
葵はそこで、口の端を引き上げた。慣れ親しんだ、ちょうどよい角度に。
「いいんですけど、ちょっと攻めすぎじゃないですかね。『ひだまり』って、もっとほっとする感じのシリーズだし。お客さんも、無難な色のほうが選びやすいと思うんですよ」
「そうですかね」
「そうそう。私の好みで決めちゃうのも違いますし」
「葵さんの好みなんですね、やっぱり」
高梨さんは、それ以上は何も言わなかった。責めるでもなく、押すでもなく、ただ小さく頷いて、藍色の皿を箱に戻しかけた。それから考えるような間を置いて、結局、その皿だけを葵のデスクの端に残していった。
「置いておきます。邪魔だったら、捨ててください」
高梨さんは、立ち去りかけて、ふと足を止めた。
「ひとつだけ、いいですか」
「はい」
「この皿を窯に入れるとき、親方が言ってたんです。『この藍は、手に取る人を選ぶ色や』って」
「選ぶ?」
「ええ。でも、続きがあって。『選ばれた人にとっては、一生もんや』って」
親方は、窯の火加減を見るときには、口をきかない人だ。その人が、そんなことを言ったのか。
「……変な人でしょう」
「変ですね」
「でも、あの人が言うときは、たいてい外れないんです」
それだけ言うと、高梨さんは今度こそ背を向けた。
去っていく背中を見送りながら、葵は胸のあたりが、妙にそわそわするのを感じていた。自分でも理由の分からない、落ち着かなさだった。
夕方、定時で上がるとき、藍の小皿はまだデスクの端にあった。手に取りかけて、やめた。結局、見ないふりをしたまま、パソコンの電源を落とした。
*
そうやって、いつも選んでしまう。
自分の本当に好きなものより、誰からも文句の出ないものを。自分の言いたいことより、その場が丸く収まる言葉を。
その癖は、仕事の中ではまだ「気配りのできる人」として通用する。けれど恋愛では、そうはいかなかった。
いざ交際が始まると、なぜか関係は長く続かない。
最初のうちは「いつも楽しそうだね」「一緒にいると癒やされる」と喜ばれる。ところが数か月が過ぎる頃から、相手の態度が変わっていく。連絡の頻度が落ち、会う回数が減り、気づけば自然消滅のように終わりが訪れる。
三週間前に終わったのも、そうだった。
康平は、友人の紹介で知り合った二つ年上の人だった。四か月続いた。穏やかで、食べ物の好き嫌いがなくて、葵の冗談にいつも声を出して笑ってくれた。悪い人ではなかった。むしろ、いい人だった。
付き合って二か月目の記念日には、小さなケーキを買ってきてくれた。部屋で二人きりの、ささやかなお祝いだった。ロウソクを吹き消す直前、「何かお願いごとした?」と聞かれて、葵は「康平とずっと仲良くいられますように、って」と笑って答えた。嘘ではなかった。けれど、本当は「あなたが私を置いていきませんように」と願っていたのだ。同じ祈りでも、言い方ひとつで、かわいげのある冗談になってしまう。葵はそういう変換だけは、昔から得意だった。
別れ話は、彼の好きだった駅前のラーメン屋の帰り道に出た。
「あのさ、葵。俺、最近ずっと考えてたんだけど」
信号待ちの横断歩道で、康平は前を向いたまま言った。
「葵ってさ、俺がいなくても平気そうだよね」
「えー、何それ。そんなことないよ」
反射的に笑って答えていた。冗談として受け流すのが、一番角が立たない。それが身についた反応だった。
康平は笑わなかった。信号が青に変わって、人の流れが動き出しても、しばらく立ち止まったままだった。
「そういうとこなんだよな。俺、会ってても、葵のこと知れてる気がしないんだ。楽しいんだよ、ほんとに。楽しいんだけど、それだけっていうか」
「それだけ、って」
「怒ったとこも、凹んだとこも、見たことないだろ、俺。四か月も付き合ってるのに」
返す言葉がなかった。怒ったところも凹んだところも、見せなかったのだから、見たことがなくて当然だった。
本当は、あったのだ。
付き合って三か月目の日曜日、康平の部屋で映画を観ていたときのことだ。テーブルの上に置かれた彼のスマートフォンが光って、「ゆか」という名前のメッセージが一行だけ浮かんだ。「昨日はありがとう、また飲もうね」。画面はすぐに暗くなった。
「会社の人?」
できるだけ軽い声で聞いたつもりだった。
「ああ、同期。こないだ、プロジェクトの打ち上げがあってさ」
「そうなんだ。仲いいんだね」
「べつに、普通だよ」
康平は画面を見もしないで答えて、映画の続きに目を戻した。葵も、笑顔のままスクリーンに向き直った。けれど、そこから先の台詞は、ひとつも頭に入ってこなかった。昨日。昨日は私と会う約束がなかった日だ。打ち上げ。同期。ゆか。胸の真ん中で、黒い塊がどんどん膨らんでいく。叫び出したいほど苦しいのに、顔だけは映画を楽しんでいる人のままだった。
トイレに立って、鍵をかけ、便座のふたに腰を下ろして、両手で顔を覆った。声を出さずに三十秒だけ息を詰めた。それから水を流し、洗面台で顔に水をかけて、出た。
「目、赤くない?」
戻ってきた葵を見て、康平が首をかしげる。
「あ、コンタクトがずれちゃって。もう大丈夫」
そう言って、笑った。康平は「そっか」と頷いて、それ以上は何も聞かなかった。聞かないでいてくれたことが、優しさなのか、無関心なのか。葵には最後まで分からなかった。
そんなふうに、彼が知らないところで、何度も火を消した。共通の知り合いのSNSに彼が写り込んでいないか確かめたり、返信が丸一日途絶えた週末に、狭いワンルームの中をぐるぐる歩き回ったりもした。そのくせ翌日に会えば、「昨日は忙しかったんだね」と、物分かりのいい顔で笑っていた。
どす黒い感情を抱えた自分を、彼に見せられるはずがない。そんなものを見せたら、この人もいなくなる。そう思うと、喉元まで上がってきた本音は、ひとつ残らず飲み込むしかなかった。
「ごめんな。葵が悪いとかじゃないんだ。ただ、俺のほうが、しんどくなっちゃって」
彼はそう言って、困ったように頭をかいた。しんどくなった、という言い方が、なぜか一番こたえた。笑顔を向けられるたびに、「ここまでしか入れない」と言われているように感じていたのだと、その後の康平の説明で知った。
結局、葵は最後までいつもの調子で、「そっか。今までありがとうね。楽しかったよ」と手を振った。駅の改札を通ってから、ホームのベンチで二本電車を見送った。涙は出なかった。ただ、耳の奥でずっと、自分の「楽しかったよ」という声が空々しく鳴っていた。
その前の人も、似たような終わり方をした。去年の冬に、職場の先輩の紹介で付き合った人で、三か月続いた。別れの言葉は「葵は、僕がいなくても大丈夫な人だから」だった。あのときも、葵は笑って頷いた。
同じ台詞を、二人の男性から聞いた。偶然では、ないのだろう。
*
原因がどこにあるのかは、薄々気づいていた。
葵は誰とでも分け隔てなく明るく接してしまう。職場でも、友人の前でも、そして恋人の前でも、つい「機嫌の良い葵」「笑顔の葵」を演じてしまう。自分の内側にある不安や、どす黒い独占欲や、うまくいかない焦りをぶつけてしまったら、相手は引いてしまうのではないか。その恐怖が、無意識のうちに喉元まで出かかった本音を押し戻す。
その結果、恋人たちはこう思うのだ。
——葵は誰にでもあんなふうに笑いかけている。自分にだけ向けられた笑顔ではないのではないか。自分がいなくても、この人は一人で楽しそうに生きていけるのではないか。
分かっているのだ、頭では。分かっていて、それでも直せない。
思えば、子どもの頃からそうだった。共働きだった両親は、夕飯の席でよく言い争いになった。小学生の葵は、二人の間で冗談を言って、変な顔をして、笑わせようとした。笑い声が上がれば、怒鳴り声は止まる。それを一度成功させてしまってから、笑顔は葵にとって、場を守るための道具になった。誰に教わったわけでもない。ただ、効いたのだ。効いてしまったから、やめられなかった。
「私、またやっちゃったのかな……」
口の中だけでつぶやいた声は、店内に流れるボサノバと、グラスの底に沈む氷の音に溶けて、誰にも届かないまま消えていった。
そのとき、隣のテーブルから、女性の尖った声が聞こえてきた。
「ねえ、連絡くれるって言ったよね。三十分待ったんだけど」
視線だけ動かすと、斜め前の席に若いカップルが座っていた。二十代の半ばくらいだろうか。女性のほうは頬を膨らませて腕を組み、男性のほうは両手を合わせて、拝むような格好をしている。
「ごめんって。会議が長引いて、スマホ見る暇なくてさ」
「そういう日こそ一言送れるでしょ。私、何かあったのかと思って、心配したんだから」
「心配してくれたんだ」
「してないとは言ってない」
「うわ、怒ってるのに優しい」
「怒ってるの! ちゃんと!」
言いながら、女性の口元がついにゆるんだ。男性が「ごめん、本当にごめん」と繰り返し、彼女が耐えきれずに吹き出す。テーブルの上のケーキ皿が、フォークで半分ずつ取り分けられていく。
葵は、ストローを持つ手を止めていた。
怒っていいんだ、と思った。あの子は、約束を破られて拗ねて、心配したと言って、膨れてみせて、それでも男の人は笑ってお皿を差し出している。怒ったあとで、ちゃんと仲直りのケーキがやってくる。
自分には、いつからそれができなくなったのだろう。
答えは、考えるまでもなく浮かんできた。——あの人のとき、だ。
連絡が来ない夜に怒る資格が、自分にはなかった。腹を立てれば、「家庭がある人に、何を言っているの」と、自分のほうが責められる気がした。だから何も言わなかった。待つことと、物分かりのいいふりをすることだけが、あの七年の間に、すっかり上手になった。
氷が溶けて、グラスの中でカランと音を立てた。薄まったアイスティーを一口飲むと、味がしなかった。
隣のカップルは、笑い声を残して席を立っていった。取り残されたテーブルの上で、食べかけのケーキの皿がふたつ、夕陽の名残を受けて淡く光っていた。
*
スマートフォンが震えた。友人のグループトークだった。開かなくても、内容はなんとなく想像がつく。ここ最近の話題は、もっぱら子どもの成長や保活の苦労、夫へのささやかな愚痴ばかりだ。
葵は画面を一度だけ覗いた。結婚式の写真が一枚、赤ちゃんの寝顔が一枚、家族で囲んだ食卓が一枚。三枚の写真に、友人たちの「おめでとう」と「かわいい!」が積み重なっていく。そのうちの一つに、葵も反射的にスタンプを返した。心からのお祝いの気持ちに嘘はない。それなのに、送信ボタンを押したあと、胸の中央にずしんと重いものが沈んでいった。
続けて、別の通知が浮かんだ。親友の真由美からだった。
〈来週、ご飯行かない? 最近ぜんぜん会ってないし〉
親指が、一瞬だけ迷った。会いたい。会いたいのに、会えばきっと見抜かれる。
〈ごめん、来週はちょっと忙しくて! 落ち着いたら連絡するね〉
絵文字までつけて、送信した。嘘ではない、と自分に言い聞かせた。忙しいのは本当だ。ただ、会えないほどではなかっただけで。
画面を伏せて、テーブルの上に置く。
もう、31歳になっていた。
結婚して、子どもを産んで、家庭を築いている同世代は少なくない。自分だけが、みんなが先にスタートを切ったレースに、遅れて参加しているような気分だった。いや、そもそも自分は、スタートラインにすら立てていないのかもしれない。
ふと、苦い記憶が頭をもたげる。
——七年。
23歳から30歳になるまでの、いちばん長い時間を預けた人は、妻子のある人だった。
その話を、葵は誰にも言えずにいる。終わりが来たあとで、ようやく親友にだけ打ち明けた。それも、細かい経緯までは話せていない。あれは、あまりにも自分の「恥」だったから。
それでも、「ちゃんとした恋愛がしたい」という思いだけは、ここ一、二年のあいだ、呪いのように葵の中で膨らみ続けていた。
誰かの影に怯えるのではなく、誰かに隠れて愛を乞うのでもなく、昼下がりの公園を堂々と手をつないで歩く。スーパーの野菜売り場で、「今日の夕飯は何にしようか」と、他愛のない言い合いをする。そして、愛する人との間に授かった命を、温かい家庭の中で育てていく。
そんな、世間から見れば「当たり前」の日常が、今の葵にはいちばん遠くて、眩しいものに思えた。
通りすがりの女性が一人でカフェの奥の席につき、読みかけらしい文庫本を開いた。注文したコーヒーが届くと、嬉しそうに一口飲んだ。誰かと一緒でなくても、今夜の過ごし方を決めている。その手元を見て、葵は自分のグラスを引き寄せた。
カフェの窓の向こうでは、川沿いの街灯がポツリポツリと灯り始めている。空の端は、昼の水色から夜の群青へ移ろいかけていた。夕方と夜のあいだの、ほんの短い時間にだけ現れる、濃い青。それを見ていると、なぜか胸のどこかがうずいた。氷水みたいになったアイスティーを飲み干すと、喉の奥がツンと痛んだ。
「いつまで、こんなところで足踏みしているんだろう」
独り言を飲み込んで、伝票をつかんだ。ガラス窓に映る顔は、誰も見ていないのに笑っていた。葵は指先で口元を押さえ、そのままレジへ向かった。
レジで会計を済ませると、店員の青年が「ありがとうございました」と頭を下げた。「ごちそうさまでした」と、葵はいつもの調子で言った。外へ出てから、何を飲んだかすら覚えていないことに気づいた。
外に出ると、川面から湿った風が上がってきた。遊歩道を歩いていくと、橋のたもとで前撮りの撮影をしている一組がいた。白いドレスの裾を持ち上げた女性と、緊張した面持ちの男性。カメラマンが「もう少し近づいて」と声をかけるたびに、二人が照れて笑う。周りで足を止めた通行人たちが、ぱらぱらと拍手を送った。葵も立ち止まり、反射的に手を叩いていた。花嫁が気づいて、こちらに小さく会釈をする。葵は満面の笑みで会釈を返した。
おめでとう、お幸せに、と本気で思った。思いながら、拍手をしている自分の手が、いつもよりずっと遠くにあるような気がした。
ベンチには、買い物袋を足元に置いた老夫婦が並んで座っている。おばあさんが何か言って、おじいさんがうなずく。言葉はここまで届かないのに、二人の肩のあいだに流れている空気だけが、ひどく柔らかそうに見えた。
葵はそれを、通り過ぎざまに横目で見送った。羨ましいとも、悲しいとも、うまく名前がつけられなかった。
数歩進んだところで、後ろから声がかかった。
「お姉ちゃん、あめちゃん、いらん?」
振り返ると、おばあさんが小さく手を振っていた。
「のど、冷えるさかい。ほら」
差し出された掌に、薄荷の飴がひとつ載っていた。
「……ありがとうございます」
「ええのええの。さっきから、よう歩いてはるなあ思て」
見られていたのか。葵は反射的に笑顔をつくって、頭を下げた。口に入れた飴は、冷たい甘さがして、喉の奥までひんやりと届いた。
笑顔のまま歩き出してから、気づいた。さっきの笑顔は、いつもの笑顔だったのか。それとも。分からなかった。
ふと、デスクの端に残してきた藍色の小皿のことを思い出した。今ごろ、誰もいないフロアの暗がりで、あの深い青は何色に見えているのだろう。
月曜の朝、あの皿をもう一度見てみようか。そう思ってから、葵は自分の考えに驚いた。
風が川面を渡ってきた。葵は上着の前を合わせ、駅とは反対の道をもう少しだけ歩いた。




