4月16日(木)しきたりの家 中
待機日と連休を終え、とうとうこの日が来た……。
J様宅への訪問……私の担当の中では圧倒的な《《困難事例》》だ。
しきたりの家……私は勝手にそう呼んでいる。
前は榊原さんがいてくれた。
あんな人でも、いないよりはいてくれた方が心強い。
弱気になるな、私。
手順さえ守れば大丈夫……
自分を奮い立たせて、J様宅の門扉の前に立つ。
荘厳な日本家屋が異様な威圧感を放っている気さえした。
――手順1、
まず、門扉の前で一礼よね。
「入ってもよろしいですか?」
私は頭を下げる……たぶん、声は上ずっていた。
ガラガラ……玄関先の扉がひとりでに開いた。
既に異常だ。でも、入っていいってことよね。
――手順2、
玄関先では振り返らずにお邪魔する。
今回は勝手に閉まったら怖いので扉は、後ろ手に自分で閉めた。
ガチャ……鍵の閉まる音が背後で響く。
うっ……振り向いちゃだめ。振り向いちゃだめ。
恐怖を押し殺しながら仏間へ進む。
――手順3、
ここが鬼門……私は仏壇に深く頭を下げた。
合図があるまで顔は上げない。
チリンチリン……。
何やら鈴の音が響く。これ、大丈夫よね……毎回、合図が変わるのはなんなのよ。分かりにくいからやめてほしい。
――手順4、
その後、廊下の突き当たりにあるJ様の部屋へ一直線に向かう。
……薄暗い廊下……突き当たりは闇に包まれてよく見えなかった。
ふぅ……特に不審な声や物音はしない。
「Jさーん。こんにちは!」
部屋をノックするとJ様が笑顔で出迎えてくれた。
一通りの支援をこなし私は最後の手順へ向かう。
……J様自体は比較的、介助量の少ない利用者さんだ。問題は家の方だ。
――手順5、
廊下を進み玄関先にて一礼。
このまま帰っていいのよね。
ガチャガチャ……ダメだ……鍵がびくももしない。
ピチャピチャ……
仏間とは廊下を挟んで向かい側にある、回廊……そこから水気を帯びた足音が聞こえてくる。
……合図があってもなくても退室せよ。
この手順が急いで逃げろと言われているような気がしてきた。
ガチャ、ガチャ、ガチャ
必死に何度も鍵を動かす。
ピチャ、ピチャ、ピチャ……
次第に足音が近づいてくる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
怖くて振り向けない。
ピチャ……足音が背後で止まる。
ガチャ!
そこでようやく鍵が開いた。
私は扉を閉める余裕もなく飛び出してしまった。
気のせいかもしれないが、背後からはかすかに、玄関の横扉がスライドして閉まる音が聞こえた。
《《家主》》とやらのせいで、完全に自動ドアになっているわね。
茶化さないと恐怖でどうにかなりそうだった。
これを毎週……私、耐えれるかな……。
この家は謎が多い。手順がある理由、J様はあの家で一人で暮らしていて平気なのか……そもそも、《《家主》》とはなんなのか。
何もかもが分からない。
J様宅から逃げるように事務所に戻った。
車で1時間半……遠すぎる。
“とこよ”が対応する利用者さんは、通常の事業所が受けてもらえないパターンが大半だ。
そのため、多少遠くても支援に伺うのが、榊原さんの方針らしい。
■
「戻りました……」
事務所が安らげる安全地帯になりつつあった。
「大丈夫? 菜々ちゃん!
なんか、げっそりしているけど」
佐上先輩が珍しく事務所で私を出迎える。
「ねぇねぇ……菜々ちゃん!
明日、休みでしょ?」
「は、はい……」
「私も明日の支援、キャンセルが続いたから、ハゲに言って有給取るの。今晩飲み行かない?」
「ハゲ……?」
「ああ、榊原さんのことよ」
「さすがにハゲは可哀想じゃないですか?」
「だって、さかきばら……だよ。名前長すぎじゃん? ハゲの方が呼びやすいし。業務の効率化よ効率化!」
「そんな、効率化聞いたことないですけど……」
「菜々ちゃんの歓迎会ってことで、私が奢ってあげるから」
「奢り! ホントですか!」
一気にテンションが上がる。
「ふふ、現金な子ね。でも、素直な子が一番可愛いわね!」
■
私たちは定時を迎え、佐上先輩の行きつけの居酒屋に向かった。
――居酒屋“極楽”
普段なら気にならない店の名前も、何となく気にしてしまう。
地域の住民が通う、こぢんまりとした昭和の雰囲気をまとった居酒屋だ。
「おっ、萌香ちゃん! 久しぶり!」
「おっひさー! おやじさん、今日は後輩の歓迎会だから、美味しく作ってね!」
「ばっかやろう。俺はいつでも美味しいものしか作らねえよ!」
50代くらいの店主が佐上先輩と軽快なやりとりをする。
「はいはい、そんじゃいつもの席に座るね!」
私たちは奥の座敷に二人で腰を下ろす。
「佐上先輩、常連なんですね」
「ふふ、ここは私が“とこよ”で勤めだした時から通ってるから」
「それっていつからなんですか?」
「ええっと……中学卒業してからだから……12、13年前?」
「佐上先輩、こんなとこに13年も勤めてるんですか!」
「こんなとこって……あんた、なかなか言うわね」
「わわっ、こんな素晴らしいところって意味です。それより、“とこよ”ってそんなに前から営業しているんですね」
「ああ……ハゲと蓮司はもっと長いと思う」
「石狩さんですよね……どんな人なんです?」
「うーん。一言で言うなら大仏とか石仏みたいな人かな……」
「それ、人の例えとして合ってます?」
「ふふっ、まあ、真面目で寡黙なのよ……」
石狩さんの話をしている時の佐上先輩は、少しだけ口角が緩んでいた気がした。
「へいおまち!」
店主がどかっと机にビールジョッキ(大)を置く。
「おっ、酒が来たわね!
ここは、強制生ビールだから」
凍ったジョッキにビールが並々注がれていた。
「「かんぱい」」
二人でジョッキを重ねる。
「んーっ! うまいっ!」
仕事の疲れを酒が洗い流してくれる。
「おおっ、菜々ちゃんってば、なかなかいい飲みっぷりね」
「ふふ、佐上先輩もなかなかお酒強そうですね」
先輩の人柄もあって私たちは、すぐに意気投合した。
「ほいっ、だし巻き卵と焼き鳥盛り合わせね」
ほかほかの湯気が立ち、フワフワのだし巻き卵の上に、大根おろしがこれでもかと乗せられていた。
焼き鳥も香ばしい匂いが食欲をそそる。
「うわー、美味しそう!」
「でしょ、でしょ! てか、私がいつも注文するのが来るから何か食べたいものがあったら言ってね」
「はーい!」
酒も進み、気になっていたことを佐上先輩にぶつける。
「ちなみに私たち以外の他のスタッフで……長く続いた人はいるんですか?」
聞くのが怖かったが、聞かずに続けるのはもっと怖かった。
「うーん……ケガや病気で辞める人が大半だからねえ。あとはブッチも多いかな」
「そうなんですね……」
この環境なら無理もない。
「まあ、大丈夫よ。私が勤めてから亡くなったスタッフは数えるほどしかいないから」
「ぶっ!」
思わず酒を吐き出しそうになる。
「ちょっ、菜々ちゃん、大丈夫?」
佐上先輩が布巾を手渡す。
「数えるほどって普通じゃないですよ」
支援経過の途中で、利用者さんがなくなることは、ままあるが、スタッフが亡くなるなんてそれこそ滅多に無い。
「私、“とこよ”しか知らないから、他がわかんないのよね。普通じゃないの?」
普通であってたまるか。いろんな事情があるだろうけど、介護の現場でそこまでスタッフが危険にさらされるようなことは、そうそう起きない。
「まあ、一概には言えないですけど……」
でも、佐上先輩を怖がらせてもいけないし、当たり障りなく返した。
……やっぱり“とこよ”は異常なんだ。
佐上先輩……それに気づいてないのはある意味、
ここでの仕事に向いているのかもしれない。
■
気づけば閉店まで店にいた。
「ねぇねぇ……菜々ちゃんも私のこと萌香って呼んでよ……」
「いいですけど、先輩、飲み過ぎですって。
一人で帰れます?」
「むりぃー、私、今日は帰りたくないなぁ……」
「そういうのは男にやってください」
「てか、菜々ちゃん。私より飲んでたのに何でそんな平気そうなのよぉ……」
「私を酔わすなら、酒樽を持ってきてください」
「やばー、ほんまもんの酒豪だ……うっ、おぇっ……吐きそう……」
「先輩、家どこなんですか?」
「わかんなぁい……菜々ちゃんの家泊めてぇ」
完全に甘えモードになっている。
■
私は流されるまま、先輩を家に連れ込んだ。
「先輩って送り狼の被害に遭ったことはないですか?」
「ああー私、そんな軽い女じゃないわよ。
数えるほどしかないんだから……」
あるのかよ。
「菜々ちゃーん。一緒にねんねしようねぇ」
先輩が突然抱きついて、ソファーの上に押し倒される。
そのまま、佐上先輩は寝息を立て始めた。
「はぁ……」
私が男なら嬉しい展開だったのかもしれないけど……先輩を押しのけるのを諦めて、そのまま目を閉じた。




