4月12日(日)匂い 序
利用者:I(84歳)女性 要介護5
担当職員:佐上萌香
8:00 訪問。短期入所生活介護への荷物の準備と更衣支援を行う。
8:15 排泄支援を行う。
8:25 短期入所生活介護の送迎スタッフとともに車椅子への移乗介助を行い見送る。
8:30 施錠して訪問終了。
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佐上先輩から引き継いだ本日訪問するI様。
長男様と二人暮らしで、長男様は朝早くから仕事に出ている。I様は移乗の際は全介助のため、移乗支援も兼ねてヘルパーを利用している。
こう言ってはなんだが、“とこよ”を利用している方とは思えないぐらい普通の家だ。
記録が普通すぎる。
いや、これが当たり前なんだけど、“とこよ”で働いていると感覚が麻痺してくる。
一週間で“とこよ”に染まってきた自分が嫌になる。
しかも、事業所からも近い。万々歳だわ。
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車で10分……目的地の一軒家に到着した。
二階建てのこぢんまりとした家。
ピンポーン……インターホンを押すと長男様が笑顔で出迎えてくれた。
「それじゃあ、白石さん。私は仕事に行くから後はお願いします! 鍵はポストに入れてていいから」
そう言って長男様は自転車に乗り、颯爽と仕事に出ていった。
日曜日なのにお互いお勤めご苦労さまです!
心の中で敬礼して長男様を見送る。
「お邪魔しまーす」
玄関先から左手前の部屋に入ると、ベッドの上に女性が寝ていた。この人がI様か、確かに身長もあるし、体格も良いから一人で抱えるのは骨が折れそうね。
私は荷物の準備を行い。
手早く更衣と、排泄支援を済ませた。
体が大きいから、着替えとオムツ交換だけでもかなり腰にくる。
こんなことをしていたらあっという間に30分が経とうとしていた。
ピンポーン。
「こんにちはー! ショートステイです!」
玄関先から爽やかな男性の声が響く。
「開いてますよー!」
「お邪魔しまーす!」
私の声に反応して、一人の青年が部屋に上がってきた。
「こんにちは! ショートステイの室です」
「あ、え、ええっと、私、白石です……」
や、やばい……直視できない。
目の前には栗色の髪に輪郭のはっきりした顔立ち。
私と歳は近いかも……そして、何よりイケメンだ。
「どうしました?」
「い、いえ……生理現象です」
私は顔を直視しないように手で隠す。
「ふふ、白石さんって面白い方なんですね」
うっ、やめてくれ……。
そんな、甘い言葉を……いや、普通のやりとりか。
「僕、抱えますんで、足元の靴と車椅子の調整だけお願いしてもよろしいですか?」
「か、かしこまりました!」
私ってば完全に変な人だよー。
自分が空回りしているのがわかると余計に恥ずかしくなる。
「I様、抱えますね」
I様が軽く頷くのを確認して、室さんはI様を軽々とベッドから起こした。
私はそれに合わせて、足元の下履きを履かせ、車椅子をベッド脇に付ける。
室さんがI様を抱えたタイミングで、車椅子の位置を微調整する。
まさに、阿吽の呼吸。
はっ、これはもしや初めての共同作業!
……きゃっ♡
自分の世界に浸っている間に室さんは淡々と介助を進める。
「僕、車に荷物乗せてきますね」
なんか、舞い上がっているのは私だけみたい。
I様の寝室の大窓を開けて、そのまま外に設置されているリフトを操作する。
室さんがリフトの先で待機したのを見計らって、私もI様をリフトに乗せ、下に降ろす。
これがあるだけで部屋からそのまま、外に車椅子を降ろせるから本当に助かるわ。
室さんは車椅子に乗ったまま乗車できる、車椅子対応車両を操作してI様を車に乗せた。
私が、I様を見送ろうとしたその時……違和感が鼻を突く。
あれ……何?
なんか、獣臭い……振り向くが、部屋にペットらしき姿は見当たらない。
二階の長男様の部屋か、別の部屋にペットを飼っているのかしら?
「では、これで!」
室さんがわざわざ大窓まで近づいてきて頭を下げる。
「あ、はい!
よろしくお願いします……きゃっ!?」
突然、背後から何かがぶつかってきた。
私はたまらず大窓からリフトの上に落ちる。
「危ないっ!」
室さんが咄嗟に私を受け止めてくれた。
やばい……いい匂い。
私は思わず室さんの背中に手を回した。
「あの……白石さん……大丈夫ですか?」
「あ、すみません……」
私はなんとかリフトの上に立ち、名残惜しそうに室さんの抱擁を逃れる。
「そ、それでは、失礼します!」
室さんは慌てて車に乗り込み、出発していった。
思わず手を回しちゃったから、私、嫌われちゃったかな……はあ……。
思わずため息が漏れる。
……I様の部屋に戻るが特に異変はなく、
先ほどの獣臭さは、もう消えていた。
さっきの……いったいなんだったんだろう。
私は、不気味さを感じながらも、家の施錠を行い、事務所へと戻った。
■
「あっ、菜々ちゃん! おかえりー!」
「佐上先輩……」
事務所では珍しく佐上先輩が待機していた。
「どったの? 大丈夫?」
「ええっと……I様の家ってペットとか飼ってます?」
「いや、私は見たことないけど……なんかあったの?」
「いえ、それなら大丈夫です」
鈍感な佐上先輩に聞いても仕方ないか。
「それより、送迎のスタッフ、室くんだった?
めっちゃイケメンじゃない!」
「そうですね……」
「なになに、菜々ちゃんのタイプじゃなかったの?」
「いや、タイプですけど……」
嫌われちゃったかもしれないし、I様の家での出来事も気になるし……よくわからないモヤモヤが渦巻いていた。
私はため息をつきながら、お茶を入れようと給仕室に向かった。
「ちょっと、菜々ちゃん……それ、大丈夫なの!?」
佐上先輩が突然声を張り上げる。
「ど、どうしたんですか?」
「背中……ちょっと洗面台で見てきなって!」
私は慌てて、洗面台で背中を確認する。
一本、二本、三本、四本……背中に獣の爪痕のようなものが残されていた。
「えっ……なにこれ……」
幸い、肌に傷はついていなかったが、裂けた箇所から肌着が見えていた。
悲鳴を上げたかったが、声が思うように出なかった。




