4月11日(土)赤いハイヒールの家 中
今日は、赤いハイヒールの家への訪問か。
A様は毎週、土曜日にヘルパーを利用している。
支援内容は、お薬の飲み忘れがないかの確認と、健康状態の観察だ。
生前は娘様が仕事の合間に、A様の様子を見に来ていたらしい。
9時ちょうどにA様の御宅の玄関先に着いた。インターホンは壊れているため、
「おはようございまーす! 訪問介護“とこよ”の者でーす!」
と声を張る。
「開いとるよー!」
中から元気な声が返ってきた。
ガチャ――直後、ドアノブが回り自然と扉が開く。
私は、恐る恐る玄関先の靴に視線を落とす。
赤いハイヒール……やっぱりあった。
気にしたら負けだ。
J様の家よりマシと、視線を前方に戻し、
「お邪魔しまーす!」
と声をかけて、上がり框に足をかけた。
「国会議事堂にミサイルでも落ちんかのう」
A様はテレビのニュースを観ながらとんでもないことを口にする。
「A様、ブラックジョークはそれぐらいにしてくださいね」
「ありゃりゃ、聞こえておったか。菜々ちゃん、冗談、冗談――てへぺろ!」
A様は舌を出しておどけて見せる。
A様はコミカルで小柄なお婆ちゃん。
とっても愛嬌があって私ともすぐに打ち解けた。
「てへぺろって……古いけど、A様からしたら新しいような……」
なんとも形容しがたい。
カチャ――カチャ――。
先週同様、誰もいないのにまたしても食器の音が台所から響く。
「もうワシ一人で大丈夫なのに、娘が毎日来るんじゃ。仕事が忙しいのにのう」
「そうなんですね。娘様はどんな方なんですか?」
A様が認知症かは診断していないため実際のところは分からない。
それでも、認知症の方の言葉は、否定しないのが介護の基本だ。
「ワシと似て美人じゃった。たがの、真面目すぎて嫁のもらい手が見つからんのじゃ。菜々ちゃんとそっくりじゃ」
「ええっ!? それで言うなら、私も結婚できないんですか?」
「ほほほ」
「いや、『そんなことない』って言ってくださいよ!」
「菜々ちゃんはいくつかの?」
「華の22歳です!」
「そうかそうか。なら、早めに男を見つけるといい。そうじゃ、近所の篤郎さんのとこなんかどうかの?
ここいらの地主じゃぞ!」
「地主さん!」
玉の輿じゃん! 甘美な響きに心が躍る。
「ちなみにおいくつなんですか?」
「まだ、若いぞ……確か75歳じゃったかの」
「うっ……たしかに若いですけど(A様からしたら)……」
A様の健康チェックと内服の確認と介護記録を済ませてA様宅を後にした。
やっぱり……帰り際には、玄関先から赤いハイヒールは消えていた。
❇
はあ、家に帰ったらあの赤いハイヒールが玄関先にあるかも……そう考えると帰りたくない。
もう、夕方の四時か……、事務所の机でそんな事を考えていると佐上先輩が訪問から戻ってきた。
「おっ、菜々ちゃん! おひさー!」
「お久しぶりです。相変わらず元気いっぱいですね」
「それが、そうでもないわよ」
「また、セクハラされたんですか?」
「違うのよ。今日は、利用者の部屋を片付けてたんだけど、片付けたそばから散らかすから……キリがないのよ」
「それは、なかなか大変な利用者さんですね」
「いや、利用者じゃないんだけどね」
「家族とかですか?」
「独居の方よ……」
だんだん嫌な予感がしてきた。
「幽霊とか?」
「ちょっと、そんな怖いこと言わないでよ。
たぶん風とかじゃない? 窓は閉まってたけど」
「あれ……佐上先輩ってもしかして……」
私はそこまで言いかけて言葉を飲み込んだ。
この人、やっぱり鈍感なんだ。
「ちょっと、なんでそこで切るのよ……気になるじゃない」
「いえ、すみません。気にしないでください」
「そう言われると、余計気になるじゃない!
教えなさいよ!」
佐上先輩が背後から締め上げてくる。
「ちょっ、先輩、ギブですって! ぱ、パワハラ……パワハラ……」
「いいえ、これは愛のある《《指導》》よ!」
じゃれ合っていたら気づけば定時を迎えていた。
■
ふぅ……自宅玄関前、私は息を飲む。
赤いハイヒール……A様の娘様、今日も我が家に来ていないわよね……。
ゆっくりと玄関の扉を開ける。
薄暗い玄関で目を凝らす。
……。
……。
……何もないわね。
半分身構えていたこともあり、肩透かしを食らったような気分だ。
いや、なければその方がいいんだけどね。
仕事量は少ないのに疲労感がエグい。
これで、まだ勤務して一週間しか経っていないのが恐ろしい。
気づけばソファーで横になり、うたた寝をしていた。
カチャ――カチャ――。
かすかに食器が擦れる音がした気がしたが、そのまま微睡みの中に沈んでいった。




