4月9日(木)しきたりの家 序
社会人の二連休はあっという間だ。
一日休養して、翌日は買い物と掃除、洗濯……そして、佐上先輩と埋め合わせのランチに行ったらあっという間だった。
憂鬱だ……ヘルパーは、決められた日時、決められた時間内で訪問に伺う。
利用者さんの自宅での生活を支えることが主だ。
しかし、我らが事業所“とこよ”に至っては意味合いが変わってくる。ご利用さんとは別に怪異とも付き合っていかないといけない。
「白石さん。だいぶ顔つきが凛々しくなったね」
「そうですか? 険しくなったの間違いですよ」
今日は榊原さんと二人での訪問だ。
引き継ぎと顔合わせのためだ。なにやら、手順が多いらしい。
車を運転しながら、彼は鼻歌を歌っていて、上機嫌だ。
手順……これはなにも支援の手順に限った話ではない。
私は“とこよ”で就職してからより一層、利用者さんの情報を読み込むようになった。
なぜなら、情報の見落としによるリスクが計り知れないからだ。
ろくに引き継ぎのない職場で、引き継ぎがあるってことは……今日の訪問先はそれだけヤバいってこと。
「大丈夫。手順さえ守れば《《家主》》を怒らせることはないから」
「怒る?」
難しい利用者さんなのかな。
「榊原さん……ここの事業所って、幽霊絡みの利用者さんを受け入れているんですよね?」
私にとっては大事なことだった。
管理者である榊原さんがどういう目的でどう思う心情でこの仕事を続けているのか。
「私たちはね最後の受け皿なんだよ。
狭い業界だ。《《この手》》の噂はすぐに広まり、しまいにはどの事業所も支援を断り、受け入れてもらえなくなる。それでも、利用者は生活していかないといけない。排泄支援。食事支援。服薬支援。買い物支援。調理支援。環境整備――どれか一つでも欠けたら利用者の生活は成り立たなくなってしまう」
私は榊原さんの言葉を黙って受け止めていた。
「ただし!」
榊原さんはハンドルを握ったまま、突然声を張る。
「……!」
助手席で聞き入ってた私は、思わず慄く。
「職員の命と身の安全も大事だ。
うちの職場の離職率は9割9分……白石さんも身の危険を感じたらすぐに辞めていいからね」
「……はい」
少しだけ寂しかった。わがままかもしれないが、一緒に頑張ろうと言ってほしかった。
それにしても、ここ“とこよ”の離職率は異常だ。
短いスパンで事故報告書が上がっているにもかかわらず記録者の名前がほぼ全員違う。
日々の介護記録でさえ、榊原さん、佐上さん……まだ顔合わせできてないけど、休職中の石狩さん以外は名前が入れ替わり立ち替わりだ。
■
立派な日本庭園――厳かな雰囲気に圧倒されながらも平屋の御宅に訪問する。
「白石さん……これが手順の書いた紙だ」
榊原さんから一枚の介護記録を手渡される。
J様宅訪問手順
1、門扉の前で一礼。「入ってもよろしいですか」と声を掛ける。何かしら合図がある。
2、上がり框にて、屋内に背を向けずに靴を脱ぐ。
この際、履物は揃えなくても《《家主》》は気にしない。
3、左手前の仏間に訪室し、一礼。
合図があるまで顔は上げない。
合図がなければ……臨機応変に対応する。
4、その後、廊下の突き当たりの左手にあるJ様の部屋に訪室。
この際、各部屋の居室から呼ばれても決して立ち入らない。また、日本庭園に面した回廊があるが、そちらは決して足を踏み入れない。
5、J様の支援を終了した際は、玄関先にて一礼。
この時は屋内に背を向けていても問題ない。
合図があってもなくても退室せよ。
既におかしい……それに、3の臨機応変ってなによ。
一番困るやつじゃない!
利用者さん宅の前だし、曲がりなりにも榊原さんは上司なのでそんなことは口には出さない。
――手順1、
「さて、まずは門扉の前で一礼――」
「「入ってもよろしいですか」」
二人して声を揃える。
コツン……
静寂。
榊原さんが微笑む。
「よしっ、大丈夫だよ」
「えっ! 今のが合図ですか?」
気を張っていないと聞き逃しそうな音だった。
「そうそう。家主パワーだね」
「ふざけてます?」
「白石さんの緊張をほぐそうかと思って……」
榊原さんは玄関に手をかける。
鍵は開いており、ガラガラと小気味の良い音を立てて横扉をスライドさせた。
「Jさーん! 入るよ!」
榊原さんが暗い廊下の先に向けて声を張る。
そのまま返事を待たずに靴を脱ぎ、上がり框に足をかける。
――手順2、
「白石さん。振り向いたら駄目だよ」
榊原さんの声が打って変わって真剣そのものだ。
ガラガラ――背後で扉がひとりでに閉まる。
「……!?」
私は思わず振り向きそうになったが、なんとか踏み止まった。
――背後からかすかに浅い呼吸音のようなものが聞こえる。
私はそれから逃げるように、半ば靴を脱ぎ捨て、榊原さんの後に続く。
――手順3、
左手前の仏間に訪室。仏壇の前で一礼。
……。
……。
……待てど暮らせど反応はない。
横目で榊原さんの様子を窺うが、まだ頭は下げたままだ。
ともかく、私もそれに倣う。
5分ほどして、スス――隣の部屋の襖がわずかに開いた。
「よしっ、行くよ」
榊原さんはその襖の先の暗闇には視線を向けず、
廊下に再び出た。
非常に気になったが、私も見なかった。
ここは、本当にやばい……空気が張り詰めていて、常に誰かの視線を感じる。
つま先から頭まで、舐め回すようにねっとりとした湿度がまとわりついてくる。
――手順4、
廊下を半分まで差し掛かったところで、左の襖が開いていた。
「おーい……おーい」
かすかにその先から誰かの呼ぶ声が聞こえる。
低くかすれた男の声……。
Jさんは女性だったよなと思いながらも、私は反射的に左に顔を向けようとした。
プニッ……榊原さんが振り返り、私の両頬を片手で掴む。
「左を向いちゃ駄目だからね」
プニッ……プニッと何故か続けて2回揉まれた。
「セクハラです……」
榊原さんの手がヤニ臭かったのが、余計に嫌悪感を催した。
J様はよくよく考えれば、構音障害を患っている。
直接はお会いしていないから一概には言えないが、呂律が回らず上手く発音できないはずだ。
榊原さんの後に続き、廊下の突き当たりの部屋に訪室する。
J様は痩身の女性だった。年齢は83歳。
私が自己紹介の挨拶をすると、軽く会釈で返した。
その後は榊原さんとともに部屋の掃除を始めた。
榊原さんはこまめに声かけをしていたが、J様は終始無言だった。
――手順5、
玄関先で榊原さんとともに一礼をする。
次の瞬間――ガンッ、ガンッ、ガンッ、
家中が家鳴りで軋みだした。
何かを叩いているんじゃない。家全体が震えているような……異様な騒音……。
「帰るよ……」
榊原さんは半ば強引に私の手を引き、J様宅を後にした。
本日、二回目のセクハラだ。
帰りの車……私は一言も声を出せなかった。
まだ、体の底から震えているような気がした。
「大丈夫? 今晩、家に泊まる?」
「榊原さん……それ、3回目のセクハラですよ……」
そう絞り出すので精一杯だった。
「ははは、冗談だよ、冗談。
……これから、白石さんには、毎週、J様の家に訪問してもらうから」
嫌だ……喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
田畑が茜色に染まる中――私の心はあの薄暗い廊下に惹きつけられていた。




