4月20日(月)待機日 存在しない訪問
今日も待機日か……
さっきから一時間おきに時計の針を数えている。
暇すぎるってのも考えものね……。
静かな事務所に缶コーヒーのカチッという小気味の良い開封音が響く。
……本日三度目のコーヒーブレイクで一息つく。
缶コーヒーにミルクとガムシロップを二カップずつ入れ、狂気的で享楽的な飲み物を胃に流し込む。
「ぷはー!」
時刻は既に16時を回っていた。
定時に帰れるのは有り難いけど、
退屈すぎるのも正直きつい。
明日の訪問は……と、
介護ソフトを起動して、翌日のスケジュールに目を通す。
――ん?
――あれ?
4/20 17:30 L様 訪問 白石菜々《なな》?
私、今日の夕方に訪問が入っているんだけど。
……朝、確認した時にはなかったのに。
私はそっと介護ソフトを落とす。
……再起動……うーん。
繰り返しても結果は変わらなかった。
嘘でしょ!
私は慌てて、L様の個人ファイルを棚から探す。
まずい、時間がない、早く住所を調べないと、
距離によっては訪問が間に合わない!
必死になって探していると、ファイルとファイルの隙間から滲んでボロボロになったA4サイズの紙が床に落ちる。
「まったく、ずさんな管理ね」
私は一枚のフェースシートを拾い上げた。
名前にはL様の文字……あった!
とりあえず、住所と最低限の情報は分かるわね。
……って、家がここから遠い!
本当は、過去の記録も見ておきたかったけど、
そんな時間はないわね。
情報不足で支援に当たることが、どれだけリスクが高いか重々承知しているが、そんなことも言ってられない。
まずは訪問時間に間に合うようにしないと!
私は慌てて支度を済ませ、車を走らせた。
「もう、残業確定じゃない!
今日は、せっかく、推しの配信を見ようと思ったのに」
たぶん、榊原さんが、訪問を急遽ねじ込んだに違いない。
あのセクハラ魔神め!
帰ったら逆パワハラをして詰めてやるわ。
――私の見落としの可能性も零じゃない。
その時は、土下座して謝るわよ。
私は鼻息荒くアクセルを踏む。
■
結局、L様の家に到着したのは、
支援開始時刻の17時半、ギリギリだ。
雑草が伸び放題の庭に車を止め、慌てて車からおりる。
郊外の年季の入った平屋……周囲には田畑が広がっていて、隣家まではざっと1km以上は離れている。
「ここで、間違いなさそうね……」
荒れ果てた庭に傷んだ外壁。苔むした表札にかすかにL様の姓が表記されていた。
介護保険内の訪問介護サービスに、
庭の手入れは含まれていない。
日常生活に直ちに支障がでない支援は介護保険の対象外となるのだ。
L様の基本情報を確認する限り、自力で庭の手入れができるような状態じゃない。
にしても……外観は廃墟同然だ。
しかも、“とこよ”が担当しているということは、
幽霊屋敷なのは確定している。
もう、のっけから帰りたいんだけど……
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、
磨りガラス越しに、横開きの玄関扉をノックする。
「訪問介護とこよの白石です!」
……反応がない。
L様は情報では自力での歩行が困難だ。
私は玄関扉に手をかけた。
「……開いた」
うっ……開かれた扉から、風が吹き込み埃とともにカビの臭いが鼻腔を撫でる。
これ、本当に誰か住んでいるの?
まだ、日は沈みきっていないのに、廊下は闇に包まれていた。
「お邪魔しまーす」
声は反響することなく、闇に吸い込まれていく。
床が粉チーズをまぶしたようにうっすらと白みを帯びている。
我ながら最悪の例えね……
躊躇いながらも、靴を脱ぎ上がり框に足をかける。
私のお気にのライオンちゃんの靴下が……
歩く度に古い日本家屋特有のギギギという軋みとともに床が沈む。
「Lさーん!」
名前を読んでも応答はない。
てか、広すぎなんだけど……
和室を一つずつ確認するが……誰もいない。
電気のスイッチに手を掛けるが……点かない。
チリン……チリン……
その時、どこからか鈴のような音色が響く。
「Lさーん……」
音に導かれるように私は庭に面した角部屋へ向かう。
「たぶん……ここだ。失礼しまーす」
建て付けの悪い障子をゆっくりと動かす。
「うっ……」
部屋を開けた途端、生活臭が漂ってきた。
人の皮脂や排泄物の臭い……。
しかし、部屋を見渡すが肝心のL様はいなかった。
電動ベッドの上にめくれた掛け布団、
部屋の隅には魂抜きされていない仏壇とおりん……
さっきの鈴の音はこのおりんの音かしら?
支援に来たのに肝心の対象者がいない。
情報ではL様は車椅子で移動される。
部屋に車椅子がないところを見ると、
ここにはいないのかな。
私は庭に面した長く薄暗い廊下を歩き、
まだ訪室していない部屋を探す。
怖くないと言えば嘘になるが、
J様のしきたりの家に比べたらマシだった。
私ってば、怖さに耐性ついてるかも。
ん……?
ふと、視界の端に違和感がよぎる。
荒れ果てた庭の真ん中に、黄昏に照らされた車椅子がぽつんと佇んでいた。
その前には……古びて縁が欠けている井戸。
まさか……!?
最悪の想像が脳裏に浮かぶ。
私は雨戸を開け、濡れ縁に足をかけた。
――靴下のまま庭に飛び降りる。
「L様!」
私は慌てて、暗くぽっかりと口を開けた井戸の中を覗き込む。
「L様……大丈夫ですか!」
井戸の中は私の声が反響するだけで、
何も返事は返ってこなかった。
ダメだ……暗すぎて底まで見えない。
ドンッ!
「えっ……」
次の瞬間、背中に何かが触れた。
やばいっ、バランスを崩して、井戸の底に体が落ちそうになる。
縁に捕まろうと手を伸ばすが――届かない。
「きゃぁぁぁ!」
――真っ逆さまに井戸に落ちた。
■
「いたたたた……」
落ちた時に擦りむいたのか、右腕に熱が走る。
枯れ井戸だったのね……底は思ったより深くなくてよかった。
ぬかるむ井戸の底でなんとか立ち上がる。
カビ臭いだけで、底には何もなかった。
L様……底に落ちたわけじゃないんだ。
それなら、井戸の前にあった車椅子はなんなの?
手を伸ばすが、空は遠くとてもじゃないけど自力で上れそうになかった。
「これじゃあ支援どころじゃないわよね……」
とりあえず、事業所に連絡を……
私はポケットに入っていたスマホを取り出す。
圏外の文字が画面右上に表記されている。
最悪……あれ……もしかして、L様が気づかなければ、私ってばずっと井戸の中……。
ここに来て、ようやくまずい状況に置かれていることに気づく。
「誰かいませんかー! Lさーん!」
声を張るが……反応はない。
どうしよう……どうしよう……どうしよう。
急に心細くなる。
井戸の深さは5メートルはありそう。
私……なんで、こんな仕事しているんだろう。
初めて“とこよ”を辞めたいと思った。
あと数年で普通に結婚して、普通に幸せな生活を送れればそれでよかった。
それなのに……こんな危険な目に合って……井戸に落ちたのは私の不注意だけど……私の背中には、私を突き落とした何者かの手の感触が残っていた。
不安になればなるほど、腕の痛みも増していった。
くすくす……きゃははは……
私の笑い声じゃない……井戸の外からだ……
子どもの笑い声が聞こえる……しかも、一人じゃない。
井戸の底から見える空はすっかりと闇に落ちていた。
何かいる……何かの気配が井戸の外から覗き込んでいる。
私は身を屈め息を潜める。
丸い枠に二つの小さな黒い影が私を見下ろしている。
ひっ……
あまりの恐怖に悲鳴すら出ない。
シルエットしか見えないのに、二つの影は私をせせら笑っていた。
いたずら盛りの子どもが楽しむような、無邪気な笑い声……
怖い……怖い……怖い……。
目を閉じて、井戸の底に屈み込む。
誰か……助けて……。
キィ……キィ……キィ……。
今度は何?
私はこの音を知っている。
古びた車椅子の車輪の音……。
井戸の付近にあった車椅子だ……。
理由は分からないが次第に音が遠ざかっていた。
スマホの時刻は既に19時を回っていた。
唇が乾き、恐怖すらも枯れ果ててきた。
L様が本当にいるのかすら怪しい。
ここの家……一体何なの?
榊原さんか佐上先輩は、私がここの訪問に出ているのはスケジュールを見てわかるはず……一生井戸の底ってことはないだろうとは思うけど……。
ザッ……ザッ……ザッ……
井戸の外から足音が響く。
今度はなんなのよ……
私は再び身構えて、井戸の底に屈み込む。
さっきの子どもたちじゃない。
大きな黒いシルエットが私を覗き込む。
男だ……直感的にそう思った。
「少し、端に寄っていろ……」
渋い男の声……直後に、井戸の底に脚立が下ろされた。
ダメだ……右腕が思うように動かない。
私はなんとか、脚立に足をかけ左腕だけで上る。
「触るぞ……」
男はぶっきらぼうにそれだけ言うと、私の右脇を支え引っ張り上げた。
その手の感触は明らかに生身の人間だった。
「あ、ありがとうございます」
跳ねた黒髪に華奢な男……齢の頃は三十ぐらいだろうか?
「あなたは?」
「俺のことはいい。
その右腕を診てもらった方がいい」
渋い声……俺のことはいいって……さすがに素性がわからないとこっちだって不安だし怖い。
男に支えられたまま私の車まできた。
隣には彼のものらしきバイクが停めてあった。
彼は、荷台からペットボトルを出し私の右腕を洗い流す。
「つっ……」
「痛むか? これで押さえていろ」
男は袋からタオルを取り出し、私に手渡す。
痛みを堪えながら傷口を抑えた。
男は私を助手席に乗せると、運転席に座った。
車の中に乗ると、擦りむいた自分の右腕から血が出ていて……痛々しい。
「あの……これからどこに?」
「知り合いの医者のところだ」
もう、何がなんだか分からなかった。
この人は誰なのか、何故私が井戸の底にいたのか、すべてが謎だった。
しばらく、車を走らせると、
小さな診療所の看板の前で車が止まった。
玄関前の電灯は明滅していて、田舎町にあるこじんまりとした診療所といった雰囲気だ。
「おい、理恵……いるか?」
男はガラス戸をノックする。
「今晩は店じまいだよ……」
診療所の中から気怠そうな白衣の女性が出てきた。
顔はやつれているが綺麗な方だ……。
「すまん。彼女を診てほしい」
「ふーん」
白衣の女性は私を一瞥すると、タオルで抑えた右腕に視線を落とす。
「はぁ……入んな」
白衣の女性はため息をつきながらも渋々中に、入れてくれた。
古めかしい診療所……室内は薬品の匂いが充満していた。
「ほら、これ飲んで、そこに寝てなさい」
私は、コップに入った水を手渡された。
喉が渇いていたからそれを一気に飲み干した。
そのまま、古びた診察台のような場所に寝かされた。
……あれ……しばらくすると睡魔が襲ってきた。
「その子が例の……?」
「ああ……」
二人が何やら話し込んでいたが、
疲労感も相まって、私は次第に意識を手放していった。




