4月19日(日)匂い 中
今日はI様のお宅か……獣の爪痕……臭い……謎が多いあの家……いろいろと理屈をこねてみたものの、端的に言えば行きたくない。
なんてね――そんなことは口が裂けても言えない。
「おはようございます!
訪問介護サービス“とこよ”です!」
「白石さん! おはよう、今日もよろしくね!」
I様の長男様は、私が到着したのと同時に颯爽と自転車で仕事に出ていった。
えっ……!?
気のせいだろうか、長男様とすれ違った瞬間、錆びた鉄のような臭いが鼻をかすめた。
私は違和感を抱えたまま、ご自宅にお邪魔した。
「うっ……なに、これ……」
I様の家の中では異様な悪臭が漂っていた。
獣臭に加えて、腐敗臭やら鉄臭さも混じっていた。
気にしちゃだめ……支援に取り掛からないと……
私は手際よくI様のオムツを交換した。しかし、悪臭の原因は利用者様の便失禁ではなかった。
一階のI様の部屋より……玄関付近の方が異様な臭気で満たされている。
私は、残りの支援を手際よく済ませ、臭気の出所を辿る。
勝手にご利用者さんの自宅を歩き回るのはよくない。そう思いつつも、私の視線は玄関から右手に伸びる階段へ向かっていった。
明らかに上から悪臭が流れ込んできている。
怖い……怖い……
感情とは裏腹に一歩、一歩階段を踏みしめ上っていく。
「うっ……」
先に進めば進むほど臭気が濃くなっていく。
「すみませーん! ショートステイでーす!」
玄関先からインターホンとともに声が響く。
室さんの声……こんなことしている場合じゃなかった。
支援そっちのけで、悪臭の原因を辿ろうとしたことを反省し、踵を返す。
「室さん、おはようございます」
私は笑顔で取り繕い、玄関を開ける。
「あ、白石さん……
顔色が優れないようですけど、大丈夫ですか?」
グルルルル……
玄関先で対応していると背後から猛獣のような唸り声が聞こえてくる。
私は思わず階段の方を振り返る。
――何もいない。
視線を戻すと、室さんも階段の上を見つめ続けていた。
「室さん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……すみません。すぐにI様の移乗に取りかかりますね」
室さんは慌てて、I様の居室に赴き、一人で移乗介助を始める。
「あ、手伝いますよ!」
私がすぐにフォローに入るが、室さんは慌てるようにI様の車椅子への移乗を進めていく。
I様が乗車後、送迎車に乗り込もうとする室さんを呼び止めた。
「室さん……変なことを聞くようで申し訳ないのですが、長男様ってペットとか飼ってますか?」
「いえ、《《今》》は飼っていないと思います……」
えらく歯切れの悪い返答ね。
「今は……というと、以前は飼っていたのですか?」
「え、ええ……一ヶ月ほど前……長男様は毎週のようにペットを飼って……いえ、買い替えていました」
「ん……買い換える?」
「いえ、今のは言葉の綾です。私の気のせいかもしれませんし……
あの、そろそろいいですか?」
これ以上、引き止めても悪いし、私はお礼と会釈だけして、I様と室さんを見送った。
あとは記録を書いて帰るだけ……。
ミシッ――ミシッ――。
天井……いや、明らかに二階の床が軋んでいる。
「I様の家も年季が入っているし、たぶん家鳴りよね」
ついつい独り言が大きくなる。
動物を毎週買い換えるって、どういうこと?
室さんの意味不明な言葉で余計に恐怖心を煽られる。
――グルルルル
また、獣のの唸り声……さすがに聞き間違いなんてレベルじゃない。
帰ろうとするたび、鼻を刺す臭気が私の足を止めた。
私は誰もいなくなった家の二階を上る。
やっぱり……この臭気は二階からで間違いない。
支援は終わっている……もう、ここに残る必要もないのに……だめだ……そう思えば思うほど、この家の謎に食われていく。
二階に上がると、正面に襖が一枚……左に二枚扉の襖……他に部屋は見当たらない。
――ガタガタガタ
二枚扉の襖が私を呼ぶように揺れる。
明らかに、扉の向こうに何かの気配がする。
ただの大型犬とかであってくれ、そう願いながら襖をゆっくりと開けた。
「うっ……おえっ……」
部屋を開けると生暖かい風と共に、むせ返るような臭気が鼻にまとわりつく。
私は、鼻を押さえて、恐る恐る部屋を見渡した。
強烈な匂いとは裏腹に殺風景な室内が広がっていた。
六畳一間……端に敷かれた布団……息子様の部屋かな?
唯一気になったのは、部屋の壁に掛けられた工具…ノコギリや金槌、ペンチや何に使うかわからないものまで揃えられていた。
これは、長男様の趣味が日曜大工なだけだ。
別に部屋に飾っていても変ではない。
……これ以上は職務を逸脱しすぎている。
ようやく、私は冷静さを取り戻し、一階に降りようとする。
「えっ……」
今、階段の下を黒い影がよぎった。
何、今の……虎? それともライオン?
いや、はたまた鵺?
大きな黒い影は、明らかに四足歩行の猛獣か何かであった。
だめ……今、一階に降りるわけにはいかない。
鉢合わせてしまう。
本能的に私は、後ずさる。
グォォォォ!
一階から雄叫びが響く。
やばい、来る!
私は逃げるように、二階のもう一つの部屋へ駆け込んだ。
ここ、物置だ……
乱雑にしまわれた物が詰められていて、思うように身動きが取れない。
ミシッ――ミシッ――ミシッ
何かがゆっくりと階段を上がってくる。
もう、逃げれない。
お願い……こっちに来ないで……。
ミシッ――ミシッ――ミシッ
次第に足音が大きくなってくる。
階段の軋む音が襖一枚を隔てて止まった。
はぁ……はぁ……はぁ
何やら人の息遣いのようなものが聞こえる。
何? 動物じゃないの?
もう、何がなんだかわからない。
目の前の何かが去るのを、待つことしかできなかった。
喉が張りついて息が吸えない。
心臓が早鐘を打つ。その音さえも、すぐ近くにいる、何かに気取られそうだった。
スーっと襖が横に動いた。
「きゃぁ!」
私は思わず悲鳴を上げた。
「うおっ……え、ええっと……白石さん……ここで何を……?」
目の前にいたのは仕事に出たはずの長男様だった。
「えっ、長男様……ここで何を?」
「何をって忘れ物をしただけだけど?
白石さんこそ何を?」
「あの……変な話かもしれませんが、ペットに追われてたというか……」
我ながら意味不明な言い訳だ。
でも、利用者さん宅の物置に隠れていたなんて、普通に考えて不自然すぎる状況だ、
一瞬、長男様の瞳孔が開いた気がした。
「もう……帰りなさい……」
「えっ、は、はい! すみませんでした!」
私は足早に階段を降り、I様のお宅を後にした。
心なしか臭気が和らいだ気がした……。
単に鼻が慣れただけなのかもしれない。
ふぅ……怒られるかと思った。
結局、あの家にいる何かの正体は私には分からなかった。
あまり深入りしないほうがよさそうだ。
好奇心は猫を殺す。
何故か、その言葉が脳裏によぎる。
安全を実感した帰りの車内では、獣の気配よりも、物置に隠れていた件が苦情にならないかの方が気になってきた。




