第4話 親友という言葉で、私を隠さないで
「親友」という言葉で、これ以上ごまかされたくない。
澪が距離を置いたことで、ようやく自分の本心と向き合い始める遥斗。
近すぎた二人が、幼なじみでも親友でもない関係へ進めるのか。
第4話です。
遥斗と会わない日が、一週間続いた。
一週間。
たったそれだけなのに、生活の中から遥斗が消えると、思っていた以上に静かだった。
冷蔵庫には、彼の好きな卵が残っている。
ソファの端には、遥斗がよく使っていたブランケットが畳まれている。
洗面所には、前に泊まった時に置いていった歯ブラシがある。
全部片づけようと思った。
でも、できなかった。
未練がましい。
そう思いながら、それでも私は、彼の痕跡を捨てられなかった。
会社では、少しだけ噂になった。
けれど、私の名前が大きく出ることはなかった。
白石さんと事務所が守ってくれたのだろう。
佐伯さんは、何も聞かなかった。
ただ、以前と同じように接してくれた。
「相沢さん、無理してませんか」
「大丈夫です」
「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃないですよ」
「佐伯さんって、たまに鋭いですね」
「相沢さん限定です」
その優しさに、私は救われた。
だけど、心が動くたびに、遥斗の顔が浮かぶ。
最低だと思う。
佐伯さんに向き合おうとしているのに、私はまだ遥斗を見ている。
仕事帰り、佐伯さんに呼び止められた。
「相沢さん」
「はい」
「今週末、もしよければ出かけませんか」
穏やかな誘いだった。
私は少し迷った。
でも、頷いた。
「はい」
佐伯さんは嬉しそうに笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、私は思った。
この人を好きになれたらいい。
優しくて、誠実で、私を泣かせない人。
そう思ったのに。
会社を出たところで、足が止まった。
ビルの前に、黒い車が停まっていた。
その横に、白石さんが立っている。
そして、後部座席のドアが開いた。
遥斗が降りてきた。
黒いキャップを深くかぶり、眼鏡をかけている。
すぐに白石さんが周囲を確認した。
どうやら、無理やり来たわけではなさそうだった。
遥斗は私を見ると、一歩近づいた。
「澪」
久しぶりに聞く声。
たった一週間なのに、胸が痛い。
「ここに来たらだめでしょ」
「白石さんには許可取った」
「そういう問題じゃない」
「話したい」
「私は話したくない」
白石さんが静かに言った。
「相沢さん。ここでは人目があります。よろしければ、少しだけ車で移動しませんか。もちろん、相沢さんが嫌なら無理には」
私は遥斗を見た。
遥斗は何も言わず、ただ待っていた。
前なら、強引に連れて行こうとしたかもしれない。
でも今は違う。
私の返事を待っている。
その小さな変化に、胸が少しだけ揺れた。
「……少しだけなら」
私が言うと、遥斗はほっとしたように息を吐いた。
*
車は、会社から少し離れた静かな通りに停まった。
人通りの少ない、夜の公園沿い。
白石さんは運転席に残り、私と遥斗は後部座席に並んだ。
近い。
けれど、以前のように気軽に触れられる距離ではなかった。
遥斗の顔は、少し痩せて見えた。
目の下に疲れがある。
きっと忙しいのに、眠れていないのだろう。
心配になる。
でも、ここで心配したらまた戻ってしまう。
「帰って」
私は小さく言った。
「嫌だ」
「子どもみたいなこと言わないで」
「子どもでも何でもいい」
遥斗は私を見た。
「お前が離れていくの、嫌だ」
胸が揺れた。
でも、私は笑った。
「それを、友達として言ってるなら残酷だよ」
「違う」
「じゃあ何?」
遥斗は黙った。
また。
また、言えない。
私は唇を噛んだ。
「遥斗は、私のことを失いたくないだけでしょ」
「……」
「恋人にする覚悟はない。でも、自分のそばからいなくなるのは嫌。だから親友って言葉でつないでた」
遥斗の顔が苦しそうに歪んだ。
「違う」
「違わないよ」
「違う」
「じゃあ言ってよ」
私はまっすぐ見た。
「私をどう思ってるの?」
遥斗の喉が動いた。
それでも、言葉はすぐには出てこなかった。
悔しかった。
悲しかった。
でも同時に、もう期待しなくて済むと思った。
「ほらね」
私はドアに手をかけた。
「好きじゃないなら、優しくしないで」
「澪」
「親友という言葉で、私を隠さないで」
遥斗の目が揺れた。
「私は、遥斗の逃げ場所じゃない」
ドアを開けようとした瞬間、遥斗が言った。
「好きだから」
手が止まった。
心臓が、音を立てた。
「好きだから、近づけなかった」
振り返れなかった。
振り返ったら、また泣いてしまう。
遥斗の声が震えていた。
「お前を失うのが怖かった。俺の仕事に巻き込むのも怖かった。恋人になって、いつか別れるくらいなら、親友のまま一生そばにいたかった」
車内は静かだった。
少し離れた場所で車が通り過ぎる音だけが聞こえる。
「でも、お前が他の男といるのを見て、無理だって分かった」
遥斗の声が近づく。
「俺、最低だよな。お前を好きなくせに、親友って言葉で縛ってた」
私はゆっくり振り返った。
遥斗は泣きそうな顔をしていた。
テレビの中の完璧な俳優じゃない。
昔から知っている、不器用で、怖がりな遥斗だった。
「……遅いよ」
「うん」
「ずっと苦しかった」
「ごめん」
「ごめんじゃ足りない」
「うん」
「私、遥斗を諦めようとしてた」
「嫌だ」
即答だった。
私は涙が出そうになって、唇を噛んだ。
「じゃあ、どうするの」
「ちゃんとする」
「何を?」
「澪のこと、隠さない」
その言葉に、私は目を見開いた。
「無理だよ。仕事があるでしょ。ファンもいる。事務所だって。映画の公開前なんでしょ。相手役の人にも迷惑がかかるんでしょ」
「白石さんから聞いた?」
「うん」
「そうだよ。簡単じゃない」
「なら」
「でも、それを理由に、澪を傷つけ続けるのは違う」
遥斗の声が少し強くなった。
「俺の仕事は大事だ。作品も、スタッフも、ファンも大事だ。だけど、その全部を言い訳にして、澪だけを曖昧な場所に置いていい理由にはならない」
「……」
「今すぐ全部公表するとか、そういうことじゃない。澪の生活を壊したくない。名前も出させたくない。事務所とも話す。白石さんとも話す。守れる形を考える」
遥斗はまっすぐ私を見た。
「でももう、親友って言って逃げない」
嬉しい。
怖い。
嬉しくて、怖い。
けれど、嬉しさだけで頷けるほど、私はもう簡単ではなかった。
「今さら好きって言われて、すぐに全部許せると思わないで」
遥斗は息を呑んだ。
「うん」
「好きって言われて嬉しいよ。ずっと欲しかった言葉だから。でも、今まで傷ついた時間が消えるわけじゃない」
「……うん」
「遥斗が親友って言うたびに、私は笑ってた。でも、本当は何度も泣いた。帰ったあと、遥斗が寝たソファを見て、何度も思った。どうして恋人じゃないんだろうって」
言葉にすると、胸の奥に溜まっていた痛みが少しずつ形になっていく。
「私の部屋に来るのに、私を選んでくれない。私に弱音を吐くのに、好きとは言ってくれない。そういうの、ずっと苦しかった」
遥斗は何も言わなかった。
ただ、まっすぐ私を見ていた。
逃げない目だった。
「だから、すぐには信じられない」
「分かってる」
「好きって言われたからって、すぐ恋人にはなれない」
「うん」
「佐伯さんとも、ちゃんと話す」
遥斗の顔が強張った。
でも、何も言わなかった。
言う資格がないと思っている顔だった。
「止めないの?」
私が聞くと、遥斗は苦しそうに笑った。
「止めたい。でも、今の俺にその権利ない」
私は涙を拭いた。
「少し、時間をちょうだい」
「うん」
「遥斗のこと、すぐに信じられない」
「分かってる」
「でも」
言葉が喉に詰まった。
「好きじゃなくなったわけじゃない」
遥斗の目が、わずかに潤んだ。
「待つ」
「うん」
「何日でも、何年でも待つ」
「重い」
「重いよ。ずっと好きだったから」
その言葉に、胸がまた痛くなった。
私たちは、ずっと両想いだったのかもしれない。
なのに、近すぎて、怖くて、ずっと友達のふりをしていた。
*
週末、私は佐伯さんに会った。
カフェの窓際。
佐伯さんは、私の顔を見るなり、すべて分かったように微笑んだ。
「答え、出たんですね」
「……すみません」
「謝らないでください」
佐伯さんは穏やかだった。
その優しさに、胸が痛んだ。
「私は、まだあの人が好きです」
「はい」
「たぶん、すぐにはうまくいかないと思います。傷ついた分、怖いです。でも、それでも……向き合いたいと思ってしまいました」
佐伯さんは少し寂しそうに笑った。
「正直、残念です」
「すみません」
「でも、相沢さんがちゃんと選べたなら、よかったです」
「佐伯さんは、本当に優しいですね」
「優しい男で終わるの、けっこう悔しいですけどね」
佐伯さんの冗談めいた声に、私は少し笑った。
「相沢さん」
「はい」
「泣かされたら、いつでも連絡してください」
「え?」
「今度こそ奪いにいくので」
その言葉に、私は目を丸くした。
佐伯さんは笑った。
「冗談半分、本気半分です」
「……ありがとうございます」
「幸せになってください」
その一言が、温かかった。
私は深く頭を下げた。
*
カフェを出ると、空は夕暮れ色に染まっていた。
スマホを見る。
遥斗からメッセージが来ていた。
『今日、会える?』
私は少し迷ってから、返信した。
『少しだけなら』
すぐに既読がついた。
『迎えに行く』
私は苦笑した。
『目立つから来ないで。場所送る』
『分かった。目立たない格好で行く』
『来るんじゃん』
『会いたいから』
その短い言葉に、胸がじんわり熱くなった。
私はもう一度だけ、空を見上げた。
親友という言葉の向こう側へ行くのは、きっと簡単じゃない。
それでも、もう戻りたくなかった。
お読みいただきありがとうございます。
第4話では、遥斗がようやく「好き」という言葉を澪に伝えました。
けれど、長く傷ついてきた澪は、
その一言だけですぐにすべてを許せるわけではありません。
親友という言葉に隠れていた二人の想いが、
ここから本当の意味で動き出します。
次話はいよいよ最終話。
澪と遥斗が、二人の関係にきちんと名前をつけます。




