最終話 友達で終われるほど、器用じゃなかった
ずっと「親友」のふりをしていた二人が、
ようやく本当の気持ちに向き合います。
好きなのに近づけなかった遥斗。
好きだからこそ傷ついてきた澪。
幼なじみでも、親友でもない。
二人が選ぶ最後の答えを見届けてください。
遥斗と会う場所に選んだのは、昔よく行った河川敷だった。
高校の帰り道、二人でコンビニの肉まんを分け合って食べた場所。
遥斗がまだ俳優になる前。
私たちがまだ、自分たちの関係に名前をつけようとしなかった頃。
夕暮れの土手に、遥斗は先に来ていた。
黒いキャップ。眼鏡。地味なジャケット。
それでも、立ち姿だけで目立つ。
「澪」
私を見ると、遥斗は少しほっとした顔をした。
「待った?」
「全然」
「嘘。鼻赤い」
「寒かっただけ」
「待ったんじゃん」
「会いたかったから」
不意打ちだった。
心臓が跳ねる。
遥斗は前よりずっと、言葉を隠さなくなっていた。
私は隣に並んだ。
川面が夕日を反射して、細かく揺れている。
しばらく、二人とも黙っていた。
沈黙が苦しくないのは、昔と同じだった。
でも、今日は違う。
ただの幼なじみとして並んでいるわけじゃない。
「佐伯さんとは、話した」
私が言うと、遥斗の横顔が少し硬くなった。
「うん」
「ちゃんと断った」
「……そっか」
「いい人だった」
「うん」
「だから、ちゃんと向き合わなきゃと思った」
「うん」
遥斗は短く答えるだけだった。
嫉妬しているのが分かる。
でも、それを飲み込んでいるのも分かる。
「止めなかったね」
「止めたかった」
「うん」
「でも、俺がそれを言える立場じゃないって思った」
「少しは成長したね」
「澪、厳しい」
「甘やかしすぎたから」
遥斗は苦笑した。
その顔が、昔と同じで、少しだけ胸が緩んだ。
「白石さんとは話した?」
「話した。事務所とも」
「何て?」
「今すぐ交際発表はしない。澪を守る準備ができてないから」
「うん」
「でも、嘘はつかない」
「嘘?」
「今後、聞かれたら、親しい友人って言い方だけで逃げない」
私は遥斗を見た。
「大丈夫なの?」
「大丈夫にする」
「そんな簡単じゃないよ」
「分かってる」
遥斗は川の方を見たまま言った。
「ファンがいる。仕事がある。スポンサーもある。公開前の映画も、相手役との宣伝もある。俺一人の気持ちだけで動けないこともある」
「うん」
「でも、それを理由に澪を傷つけるのは、もう嫌だ」
その言葉は、静かだった。
でも、確かな重さがあった。
「俺、ずっと怖かった」
「何が?」
「俳優になってから、周りが変わっていった。俺を見る目も、距離も、言葉も。みんな七瀬遥斗として扱うようになった」
遥斗は少し笑った。
「でも澪だけは、昔のままだった。寝癖ついてたら笑うし、調子に乗ったら怒るし、卵焼き焦がしたら普通にまずいって言う」
「だって焦げてたらまずいでしょ」
「うん。そういうところ」
遥斗は私を見た。
「澪の前だけ、俺は俺でいられた」
胸が熱くなる。
「だから、失うのが怖かった。好きって言って、関係が変わって、もし壊れたらって思ったら、何も言えなかった」
「私は、ずっと壊れてたよ」
遥斗の表情が痛そうに歪んだ。
「ごめん」
「うん」
「本当に、ごめん」
「うん」
私は空を見上げた。
夕暮れの色が、少しずつ夜に変わっていく。
「私も怖かった」
「澪も?」
「うん。遥斗の隣にいるの、怖かった」
「なんで」
「だって、遥斗はどんどん遠くなるから」
テレビの中。
映画館のスクリーン。
雑誌の表紙。
駅の大きな広告。
遥斗はどこにでもいるのに、どこにもいないみたいだった。
「私だけが昔の遥斗を知ってるって思ってた。でもそれは、私だけが過去にしがみついてるってことなのかなって」
「違う」
「うん。今は、少し分かる」
私は遥斗を見た。
「でも、親友のままではいられない」
遥斗が息を呑んだ。
「私、遥斗が好き」
やっと言えた。
泣きながらではなく、責めるためでもなく。
ちゃんと、自分の気持ちとして。
「幼なじみとしてじゃない。親友としてでもない。一人の男の人として、ずっと好きだった」
遥斗の目が揺れた。
「澪」
「でも、恋人になるなら、ちゃんと大事にしてほしい」
「する」
「不安にさせないで」
「うん」
「親友って言葉で逃げないで」
「逃げない」
「私が傷ついたら、ちゃんと話して」
「分かった」
「あと、勝手に迎えに来すぎないで」
「それは……努力する」
「そこは約束して」
「……約束する」
私は少し笑った。
遥斗も、ようやく笑った。
その笑顔を見て、胸の奥がほどけていく。
「澪」
「うん?」
「手、つないでいい?」
そんなことを聞く遥斗に、少し驚いた。
今まで何度も、何気なく手首を掴んだり、肩に寄りかかったりしてきたくせに。
恋人になるかもしれない距離になった途端、こんなに慎重になる。
「いいよ」
私が答えると、遥斗はゆっくり手を伸ばした。
指先が触れる。
それだけで、胸が苦しくなる。
遥斗の手は温かかった。
昔から知っている手。
でも今日は、初めて触れるみたいだった。
「ずっと、こうしたかった」
遥斗が小さく言った。
「私は、もっと前からしたかった」
「負けた」
「勝ち負けなの?」
「俺の方が好きだと思ってた」
「それ、ずるい」
「本当」
遥斗は私の手を少し強く握った。
「友達でいいなんて、一度も思ったことない」
胸がいっぱいになった。
「親友って言ったのは?」
「嘘」
「ひどい」
「うん」
「何回も言った」
「ごめん」
「一番大事な親友って言った」
「一番大事な好きな人、って言えばよかった」
涙が出そうになった。
遥斗は私を見つめて、静かに言った。
「澪が好きだ」
「うん」
「誰にも渡したくなかった」
「うん」
「でも、もう縛るんじゃなくて、選んでもらえる男になる」
その言葉に、私はゆっくり頷いた。
「じゃあ、ちゃんと頑張って」
「頑張る」
「私、けっこう面倒だよ」
「知ってる」
「傷ついたら黙るし」
「知ってる」
「卵焼きも毎回作るとは限らない」
「それは困る」
「困らないで」
遥斗が笑った。
その笑顔につられて、私も笑った。
ようやく、笑えた。
*
それから一ヶ月後。
遥斗は、主演映画の完成披露試写会に出席した。
私は会場には行かなかった。
家で配信を見ていた。
遥斗は黒いスーツを着て、ステージの上に立っていた。
相変わらず、眩しい人だった。
司会者が、少し踏み込んだ質問をした。
「七瀬さん、最近プライベートでも話題がありましたが、大切な方はいらっしゃるんですか?」
会場が少しざわついた。
私の心臓も跳ねた。
遥斗は一瞬だけ、カメラを見た。
まるで、画面の向こうにいる私を見つけたみたいに。
そして、穏やかに笑った。
「います」
会場がさらにざわめいた。
私は息を止めた。
「ずっと昔から、支えてくれている大切な人がいます」
遥斗は言った。
「以前は、その人を守るためだと思って、曖昧な言葉を使ったこともありました。でも、今はそういう言葉で隠したくありません」
胸が震えた。
遥斗の声は落ち着いていた。
けれど、言葉の奥に覚悟があった。
「友人という一言だけでは、説明しきれないほど大切な人です」
会場が静まり返る。
司会者も一瞬、言葉を失った。
遥斗は続けた。
「ただ、相手は一般の方です。名前も生活も、僕が守るべきものだと思っています。だから、必要以上に詮索されないことを願っています」
完璧な交際宣言ではない。
私の名前も出していない。
それでも、親しい友人という言葉で逃げなかった。
遥斗が、私を隠すためではなく、守るための言葉を選んでくれた。
それだけで、涙が出た。
コメント欄は一瞬で流れていく。
驚きの声。悲鳴。祝福。困惑。
きっと、これから簡単ではない。
でも、遥斗は一歩踏み出した。
私も、逃げないと決めた。
試写会が終わってしばらくすると、スマホが鳴った。
遥斗からだった。
『見た?』
「見た」
『怒ってる?』
「少し」
『え、なんで』
「心臓に悪い」
『ごめん』
「でも、嬉しかった」
電話の向こうで、遥斗が息を吐いたのが分かった。
『会いたい』
「今日も?」
『今日こそ』
「疲れてるでしょ」
『澪に会わない方が疲れる』
「そういうこと、また言う」
『本音だから』
私は笑った。
「鍵、いつものところ」
『うん』
「でも今日は、ソファで寝落ち禁止」
『じゃあどこで寝ればいい?』
「帰ってください」
『冷たい』
「親友じゃないから、甘やかしません」
電話の向こうで、遥斗が少し黙った。
そして、嬉しそうに言った。
『恋人なら?』
私は窓の外を見た。
夜空に、星はほとんど見えない。
それでも、胸の奥は静かに温かかった。
「少しだけ、甘やかす」
『すぐ行く』
「目立たないようにね」
『分かってる』
電話が切れた。
私は冷蔵庫を開けた。
卵がある。
豆腐も、ねぎも。
結局、また用意している。
でも、もう前とは違う。
これは、親友のためのご飯じゃない。
好きな人のための、夜食だ。
*
遥斗は、三十分後にやって来た。
玄関を開けると、彼は少し息を切らしていた。
「走ってきたの?」
「早く会いたかった」
「俳優が夜道を走らないで」
「澪が待ってると思ったら」
「待ってるとは言ってない」
「待ってただろ」
「……少しだけ」
遥斗は嬉しそうに笑った。
靴を脱ぎ、部屋に上がる。
何度も見た光景。
けれど、今日はすべてが違って見えた。
「澪」
「なに?」
「ただいま」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
昔から、遥斗は私の部屋に来るとそう言うことがあった。
帰ってきたみたいだ、と。
でも今日は、その言葉がまっすぐ届いた。
「おかえり」
私が言うと、遥斗は泣きそうな顔で笑った。
「それ、やばい」
「何が?」
「幸せすぎる」
「大げさ」
「大げさじゃない」
遥斗はそっと私に近づいた。
そして、確認するように言った。
「抱きしめてもいい?」
私は頷いた。
次の瞬間、遥斗の腕の中にいた。
温かい。
近い。
でも、もう苦しくない。
ずっと触れられなかった距離が、ようやく私たちのものになった。
「澪」
「うん」
「好き」
「うん」
「ずっと好きだった」
「うん」
「これからは、毎日言う」
「毎日は重い」
「じゃあ一日三回」
「増えてる」
遥斗が笑う。
私も笑った。
彼の胸に額を預ける。
聞こえる鼓動が、少し速い。
人気俳優でも、完璧な男でもなく、私の前でだけ不器用になる人。
ずっと友達のふりをしていた人。
ずっと好きだった人。
「遥斗」
「ん?」
「私も好き」
遥斗の腕に力がこもった。
「もう一回」
「言わない」
「なんで」
「調子に乗るから」
「もう乗ってる」
「最低」
「最高に幸せ」
私は呆れたふりをしながら、遥斗の背中にそっと腕を回した。
窓の外では、夜が静かに深くなっていく。
何気ない部屋。
小さなキッチン。
ソファとブランケット。
ずっと友達という名前で閉じ込めていた時間が、ゆっくりほどけていく。
私たちは、友達で終われるほど器用じゃなかった。
だからきっと、これでよかった。
好きだと言えなかった日々も。
近くにいるのに触れられなかった夜も。
全部、今日のためにあったのだと思えるくらいに。
遥斗が私の髪に頬を寄せて、小さく囁いた。
「澪、ただいま」
私は目を閉じて、笑った。
「おかえり、遥斗」
その夜、親友だった彼は、初めて私の恋人として、私の隣で眠った。
― 完 ―
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
「親友」という言葉に隠れていた澪と遥斗の恋が、
ようやくちゃんと名前のある関係になりました。
近すぎたからこそすれ違い、
大切すぎたからこそ臆病になってしまった二人ですが、
最後はお互いの気持ちを言葉にして、前へ進むことができました。
少しでも澪の切なさや、遥斗の不器用な溺愛を楽しんでいただけたら嬉しいです。




