第2話 友達なら、私の恋を邪魔しないで
「親友」なら、私の恋を邪魔しないで。
遥斗を諦めようとする澪と、
澪が他の男性に向かうことを受け入れられない遥斗。
近すぎた幼なじみの関係が、少しずつ崩れ始めます。
「その男、誰」
遥斗の声は、低かった。
いつもの甘えた響きはどこにもない。
私の隣で、佐伯さんが少し身構えたのが分かった。
「会社の人」
私は答えた。
「飲み会の帰りに、駅まで送ってもらっただけ」
「送ってもらった?」
「そう」
「なんで」
「なんでって、帰り道が同じだから」
遥斗は佐伯さんを見た。
その視線には、明らかな警戒があった。
佐伯さんは少し驚きながらも、落ち着いた声で挨拶をした。
「佐伯と申します。相沢さんと同じ会社で働いています」
「七瀬です」
遥斗は短く名乗った。
マスクをしていても、声と目元だけで分かったのだろう。佐伯さんの表情が固まった。
「七瀬遥斗さん、ですか?」
「はい」
遥斗はマスクを少しだけ下げて、すぐに戻した。
「いつも澪がお世話になっています」
丁寧な言い方だった。
でも、目が笑っていなかった。
私はその態度に、胸の奥がざわついた。
遥斗が不機嫌になる理由が分からない。
いや、本当は少しだけ分かる。
分かるから、余計に苦しい。
どうして恋人でもないのに、そんな顔をするの。
「澪、帰るぞ」
「ちょっと待って」
「もう遅い」
「私は大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「遥斗」
私が強めに名前を呼ぶと、遥斗はようやくこちらを見た。
「何?」
「佐伯さんの前で、そういう言い方しないで」
遥斗の表情が一瞬だけ固まった。
佐伯さんが気を遣って言う。
「相沢さん、僕はここで大丈夫です。また連絡します」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
佐伯さんは穏やかに笑った。
けれど去り際、遥斗に向かって静かに言った。
「七瀬さん。相沢さんは大人です。心配するにしても、彼女の気持ちは聞いた方がいいと思います」
遥斗の目が鋭くなった。
「分かっています」
「分かっている人の態度には、あまり見えませんでした」
「佐伯さん」
私が止めると、佐伯さんは小さく頭を下げた。
「すみません。出過ぎたことを言いました。相沢さん、気をつけて帰ってください」
「はい」
佐伯さんが改札へ向かって歩いていく。
その背中が見えなくなるまで、私は遥斗を見なかった。
沈黙が落ちた。
駅前は人通りが多い。
誰かに気づかれたら、すぐに騒ぎになる。
それなのに遥斗は、私の前から動こうとしない。
「何しに来たの」
ようやく口にすると、遥斗は答えた。
「迎えに来た」
「来なくていいって言った」
「でも心配だった」
「心配?」
「酒飲んでるし、夜遅いし」
「子どもじゃない」
「知ってる」
「じゃあ放っておいてよ」
遥斗の眉がかすかに動いた。
「澪、怒ってる?」
「怒ってるよ」
「なんで」
「なんでって……」
私は笑いそうになった。
怒っているというより、悲しかった。
遥斗の行動はいつも優しい。
でもその優しさには、名前がない。
名前のない優しさほど、残酷なものはない。
「遥斗はさ、私の何なの?」
言ってしまった。
ずっと聞けなかったこと。
ずっと飲み込んできたこと。
遥斗は一瞬、言葉を失ったようだった。
「何って……」
「親友?」
「そうだろ」
その答えが、胸に刺さった。
分かっていたのに。
それでも傷ついた。
「じゃあ、親友なら私が誰と食事に行っても関係ないよね」
「関係ある」
「どうして?」
「心配だから」
「そればっかり」
私は笑った。
たぶん、ちゃんと笑えていなかった。
「友達なら、私の恋を邪魔しないでよ」
遥斗の顔から、表情が消えた。
「恋?」
「佐伯さんに食事に誘われた」
「行くのか」
「行くよ」
「なんで」
「なんでって、誘われたから」
「好きなの?」
声が低くなる。
私は胸の痛みを押し殺して言った。
「これから好きになるかもしれない」
「澪」
「遥斗には関係ない」
「ある」
「ないよ。だって私たち、友達でしょ」
その言葉を口にした瞬間、遥斗が傷ついた顔をした。
どうして。
傷つきたいのは、私の方なのに。
「……ごめん」
遥斗が、小さく言った。
その言葉が予想外で、私は一瞬黙った。
「今日は帰る」
「送る」
「一人で帰れる」
「澪」
「一人で帰りたい」
私は遥斗を置いて歩き出した。
背中に視線を感じた。
追いかけてくると思った。
だけど、遥斗は来なかった。
駅のホームで電車を待ちながら、私はようやく息を吐いた。
泣きそうだった。
遥斗が悪いのか。
私が悪いのか。
分からない。
分からないけれど、もう限界だった。
*
佐伯さんとの食事は、三日後に決まった。
遥斗からは、その間ほとんど連絡がなかった。
いつもなら、くだらないメッセージが来る。
『今日の弁当、魚だった』
『眠い』
『澪、卵焼き作って』
『今度のドラマ、見ろよ』
そういう、どうでもいい連絡。
でも今は、画面が静かだった。
静かすぎて、何度もスマホを確認してしまう。
やめたい。
遥斗を待つのを、やめたい。
佐伯さんは優しかった。
約束の日、会社近くの落ち着いたイタリアンに連れて行ってくれた。
「こういう店、大丈夫でした?」
「はい。素敵です」
「よかった。相沢さん、静かなところの方が好きかなと思って」
佐伯さんは、ちゃんと私を見てくれる人だった。
話を遮らない。
無理に距離を詰めない。
私が笑うと嬉しそうにする。
こういう人を好きになれたら、きっと穏やかだ。
報われない恋にしがみつかなくて済む。
「相沢さんって、好きな人いるんですか」
デザートが運ばれてきたあと、佐伯さんがそう聞いた。
私はフォークを持つ手を止めた。
「どうしてですか?」
「時々、遠くを見るから」
「……」
「無理に聞きたいわけじゃないです。ただ、誰かを待ってるような顔をするなって」
胸が締めつけられた。
私はそんな顔をしていたのか。
「います」
正直に答えた。
「でも、終わらせたい人です」
佐伯さんは静かに頷いた。
「その人は、相沢さんの気持ちを知ってるんですか」
「知らないと思います」
「言わないんですか」
「言えません」
「どうして?」
「今の関係を壊したくないから」
口にして、自分で苦しくなった。
壊したくない。
そう思って守ってきたものに、私はもう押しつぶされそうになっている。
佐伯さんは責めなかった。
ただ、優しく言った。
「じゃあ、僕は急ぎません」
「え?」
「相沢さんが、その恋を終わらせられるまで待ちます」
「佐伯さん……」
「でも、ひとつだけ言わせてください」
佐伯さんはまっすぐ私を見た。
「相沢さんを泣かせる人より、笑わせる人を選んでほしいです」
その言葉は、優しかった。
優しすぎて、痛かった。
佐伯さんは少しだけ照れたように笑って、それから言った。
「それに、僕なら、親友なんて曖昧な場所に相沢さんを置きません」
胸が、ぎゅっと縮んだ。
「好きなら好きだと言います。付き合いたいなら、ちゃんとそう言います。相沢さんに、察して待ってもらうようなことはしません」
誠実な言葉だった。
それなのに、私は泣きそうになった。
遥斗にも、そう言ってほしかった。
親友じゃなくて。
心配じゃなくて。
好きだと、言ってほしかった。
*
店を出たのは、午後九時過ぎだった。
佐伯さんは駅まで送ってくれた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。また誘ってもいいですか」
「……はい」
私が頷くと、佐伯さんはほっとしたように笑った。
その瞬間だった。
「澪」
背後から声がした。
振り返る。
街灯の下に、遥斗が立っていた。
今日は変装が甘い。キャップはかぶっているけれど、マスクをしていない。
危ない。
人に見られたら、すぐに気づかれる。
「遥斗、なんで」
「近くで撮影だった」
「嘘」
「……嘘」
遥斗は私の横にいる佐伯さんを見た。
その目が、見たことのないくらい冷たい。
「またあなたですか」
「はい」
佐伯さんは落ち着いていた。
「相沢さんとは、食事をしていました」
「知ってます」
「つけてたんですか」
佐伯さんの声が少し硬くなる。
遥斗は一瞬言葉に詰まった。
「……つけてたわけじゃない。連絡しようとして、近くまで来ただけです」
「結果的に同じです」
「佐伯さん」
私が止めると、佐伯さんは口を閉じた。
遥斗は私を見た。
「少しだけ話したい」
「今は無理」
「澪」
「佐伯さんといるから」
遥斗の表情が揺れた。
私は佐伯さんに頭を下げた。
「すみません。今日はありがとうございました」
「大丈夫ですか?」
「はい」
「何かあったら連絡してください」
佐伯さんはそう言って、遥斗を一度見た。
「七瀬さん。相沢さんは、あなたのものじゃありません」
遥斗の目が鋭くなった。
けれど、今度はすぐに言い返さなかった。
「……分かっています」
「なら、彼女が嫌だと言ったら引いてください」
「分かっています」
その声には、悔しさがにじんでいた。
けれど、否定はしなかった。
佐伯さんが去った後、私と遥斗だけが残された。
人通りの中なのに、妙に静かだった。
「なんで来たの」
「嫌だった」
「何が」
「澪があの人といるのが」
胸が大きく跳ねた。
でも、期待してはいけない。
「親友として?」
わざと聞いた。
遥斗は唇を噛んだ。
「……」
「答えられないなら、来ないで」
「澪」
「もうやめてよ」
声が震えた。
「好きじゃないなら、優しくしないで。恋人にする気がないなら、迎えに来ないで。他の人といるのを邪魔しないで」
遥斗は何も言わない。
私は続けた。
「遥斗にとって私は親友かもしれない。でも私は、そんなに器用じゃない」
「澪」
「私、遥斗が好きだった」
言ってしまった。
夜の街の中で。
人が行き交う歩道で。
ずっと隠してきた気持ちが、とうとう零れた。
遥斗の目が見開かれる。
「だった、って何だよ」
「終わらせたいってこと」
「終わらせるな」
瞬間、遥斗が私に手を伸ばしかけた。
けれど、その手は私に触れる直前で止まった。
さっき佐伯さんに言われた言葉を、思い出したのかもしれない。
私が嫌だと言ったら引く。
遥斗は、震える指を握りしめた。
「……ごめん。触らない」
その一言が、逆に胸に痛かった。
「なんで?」
私は遥斗を見上げた。
「どうして終わらせちゃだめなの?」
遥斗は答えなかった。
その沈黙で、私は十分だった。
「ほら。言えないじゃん」
私は一歩下がった。
「もう、親友も疲れた」
その言葉を残して、私は駅へ向かった。
今度も、遥斗は追いかけてこなかった。
お読みいただきありがとうございます。
澪が初めて、遥斗に本音をぶつける第2話でした。
「親友」と言いながら独占しようとする遥斗。
そして、そんな曖昧な優しさに傷ついてきた澪。
次話では、二人の関係が思わぬ形で世間に知られてしまいます。




