第1話 人気俳優の彼は、私を“親友”と呼ぶ
幼なじみで、親友で、初恋の人。
誰より近いはずなのに、恋人ではない。
そんな曖昧な距離にいる二人の物語です。
まずは第1話、澪の切ない片想いから始まります。
「澪、今日そっち行っていい?」
電話越しの声は、少し疲れていた。
午後十一時三十八分。
明日も仕事なのに、私はその声を聞いた瞬間、ソファから立ち上がってしまった。
「……また急だね」
『だめ?』
「だめって言ったら来ないの?」
『行かない』
「嘘」
『うん、嘘』
私は小さく笑った。
こういうところが、ずるい。
昔からずっとそうだ。
私が断れないと分かっていて、遥斗はいつも、甘えるような声で頼んでくる。
七瀬遥斗。
今やテレビで見ない日はない若手人気俳優。
ドラマに映画にCMに雑誌。街を歩けば、駅の広告にも、コンビニの棚にも、彼の顔がある。
だけど私にとっては、幼稚園の頃から隣にいた男の子だ。
泣き虫で、負けず嫌いで、給食のグリンピースを私の皿にこっそり移してきた、あの遥斗。
私、相沢澪にとって、遥斗は特別だった。
たぶん、初恋だった。
そして、二十六歳になった今でも、まだ終わっていない。
「鍵、いつものところ」
『ありがと。澪、好き』
「はいはい。そういうの、ファンに言いなさい」
『澪はファンじゃないだろ』
「そうだね」
『俺の親友だもんな』
胸の奥に、細い針が刺さった。
もう何度も聞いた言葉なのに、慣れない。
親友。
遥斗はいつも、私をそう呼ぶ。
大切にしてくれる。
弱音を吐いてくれる。
忙しい中でも会いに来てくれる。
だけど、恋人にはしない。
私は、遥斗にとって一番近い女で。
一番、恋人から遠い女だった。
*
遥斗が私の部屋に来たのは、日付が変わる少し前だった。
黒いキャップにマスク。大きめのパーカー。
変装していても、玄関に立つ姿だけで絵になる。
「おつかれ」
そう言うと、遥斗は返事もせずに私の肩へ額を落とした。
「……重い」
「今日、朝五時から撮影だった」
「知ってる。朝の情報番組で番宣してたでしょ」
「見た?」
「少しだけ」
「全部見ろよ」
「仕事中だったの」
「澪、冷たい」
遥斗は私の肩に額を乗せたまま、子どもみたいに拗ねた声を出した。
世間が見ている七瀬遥斗は、涼しげで、余裕があって、どこか手の届かない人だ。
けれど私の前では、靴下を片方だけ脱ぎ忘れたままソファに沈むし、お茶碗を持ったまま寝落ちするし、疲れるとすぐに甘える。
この姿を知っているのは、たぶん私だけ。
それが嬉しかった。
嬉しくて、苦しかった。
「ご飯、食べる?」
「食べる。澪の味噌汁がいい」
「味噌汁だけ?」
「あと卵焼き」
「深夜に?」
「澪の卵焼き、世界一だから」
「そういうこと言えば何でも出てくると思ってるでしょ」
「出てくるじゃん」
私はため息をつきながら、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けると、卵と豆腐とねぎがある。
遥斗が来るかもしれないと思って、買っておいたものだ。
本当に、ばかみたい。
来るかどうかも分からない人のために、私はいつも、冷蔵庫の中に彼の好きなものを入れている。
「澪」
「なに?」
「今日、現場で差し入れに高級弁当出た」
「じゃあ、それ食べればよかったじゃん」
「食べた。でも、違うんだよな」
「何が?」
「澪のご飯は、帰ってきた感じがする」
卵を割る手が止まった。
ずるい。
そういう言葉を、何の気なしに言う。
私がどれだけ胸を揺らすかなんて、知らない顔で。
「……家政婦じゃないんだけど」
「知ってる」
「じゃあ何?」
「親友」
また、その言葉。
私は笑ったふりをした。
「便利な親友だね」
「便利じゃない。大事」
「……そういう言い方もずるい」
「何が?」
「なんでもない」
遥斗はソファに寝転がりながら、スマホを見ていた。
その横顔が、テレビで見るよりずっと幼い。
私だけが知っている顔。
私だけが知っている声。
私だけが知っている距離。
なのに、私だけが欲しい名前は、いつまで経ってももらえない。
*
卵焼きと味噌汁を出すと、遥斗は本当に幸せそうに食べた。
「うま」
「大げさ」
「店出せる」
「出さない」
「俺、常連になる」
「芸能人が毎日来たら迷惑」
「個室作って」
「何様?」
「人気俳優様」
「自分で言う?」
笑い合う時間は、いつも自然だった。
だから余計に、諦められない。
遥斗が食べ終わる頃には、眠気が限界に近づいていたらしく、箸を持ったままうとうとしていた。
「寝るなら帰りなよ」
「無理。眠い」
「だから帰って寝なって」
「ここがいい」
「遥斗」
「少しだけ」
少しだけ。
そう言って、遥斗はいつも私の部屋で寝る。
もちろん、何もない。
私はベッド。遥斗はソファ。
付き合っていない男女としては、近すぎる。
でも、幼なじみという言葉を使えば、何もかも許されてしまう。
遥斗はソファに横になり、私が出したブランケットを首元まで引き上げた。
「澪」
「なに?」
「明日、朝起こして」
「何時?」
「六時」
「無理。自分で起きて」
「親友だろ」
「親友を目覚まし代わりにしないで」
「お願い」
甘えた声。
私は負けた。
「……一回だけね」
「ありがと」
「おやすみ」
「澪」
「まだ何?」
遥斗は眠そうな目で、私を見上げた。
「お前がいてくれてよかった」
息が止まりそうになった。
そんな言葉をくれるなら。
どうして、好きだと言ってくれないの。
私は返事ができなかった。
遥斗はすぐに眠ってしまった。
寝息が聞こえる。
私の部屋。
私のソファ。
私のブランケット。
そこに、私の好きな人が眠っている。
会いたいときに会える。
手を伸ばせば触れられる距離にいる。
なのに、私は遥斗の恋人じゃない。
その事実だけが、夜の静けさの中で、胸に重く沈んでいった。
*
翌朝、六時。
私は遥斗を起こした。
「遥斗、朝」
「……ん」
「起きて。撮影でしょ」
「あと五分」
「子どもか」
「澪、冷たい」
「昨日も聞いた」
「じゃあ優しくして」
遥斗は寝ぼけたまま、私の手首を掴んだ。
心臓が跳ねる。
大きな手。
温かい指。
少し力を入れられただけで、逃げられなくなる。
「遥斗」
「……」
「起きて」
「澪」
「うん?」
「今日、夜空いてる?」
「今日は会社の飲み会」
遥斗の目が、わずかに開いた。
「飲み会?」
「うん。部署の」
「誰が来るの?」
「普通に部署の人たち」
「男も?」
「そりゃいるよ」
遥斗は、なぜか不機嫌そうに眉を寄せた。
「行かなきゃだめ?」
「会社の付き合いだから」
「ふうん」
「何?」
「別に」
「顔が別にじゃない」
「澪、酒弱いから心配」
「そんなに飲まないよ」
「帰り、迎えに行こうか」
「いい。大丈夫」
「でも」
「遥斗、撮影でしょ」
私が言うと、遥斗は黙った。
その沈黙に、少しだけ期待してしまう自分が嫌だった。
心配してくれるのは、親友だから。
迎えに来ようとするのも、親友だから。
そう自分に言い聞かせないと、勘違いしてしまう。
「じゃあ、気をつけて」
「うん」
遥斗は身支度を整え、玄関で靴を履いた。
出ていく直前、振り返る。
「澪」
「なに?」
「変な男に引っかかるなよ」
胸が、少し痛んだ。
「……親みたい」
「親友だから」
「はいはい」
私は笑って、玄関のドアを閉めた。
ドアの向こうで足音が遠ざかる。
その瞬間、部屋の中が急に広くなった気がした。
私はテーブルの上に残ったマグカップを片づけながら、小さく息を吐いた。
「いつまで、こんなこと続けるんだろう」
答えは出ていた。
続けていたら、私はいつか壊れる。
*
その日の夜。
会社の飲み会は、思ったより楽しかった。
私が勤めている広告制作会社は忙しいけれど、部署の人たちは悪くない。
特に最近、同じチームになった佐伯さんは、穏やかで話しやすかった。
飲み会の席で、私が何度か愛想笑いをしていると、佐伯さんが小さな声で言った。
「相沢さん、無理して笑う癖ありますよね」
「え?」
「すみません。変な意味じゃなくて。今、少し疲れてるのに、周りに気を遣って笑ってる気がしたので」
私は驚いた。
そんなふうに見られていたとは思わなかった。
「……よく分かりましたね」
「相沢さんは、ちゃんとしてる人だから。ちゃんとしすぎて、無理してる時があります」
佐伯さんはそう言って、グラスの水を私の方へ少し押した。
「お酒、無理に飲まなくていいと思います」
「ありがとうございます」
その気遣いは、静かだった。
遥斗のように強引に踏み込んでくる優しさではない。
こちらが息をしやすい場所を、そっと作ってくれるような優しさだった。
飲み会の帰り、駅までの道で佐伯さんが隣を歩いてくれた。
「相沢さんって、聞き上手ですよね」
「そうですか?」
「うん。こっちが話しすぎちゃう」
「それ、私が黙ってるだけかも」
「そういうところもいいと思います」
真正面からそんなことを言われて、私は少し戸惑った。
遥斗以外の男性に褒められることに、慣れていない。
駅に近づいたところで、佐伯さんが少しだけ足を止めた。
「相沢さん」
「はい」
「今度、二人で食事に行きませんか」
足が止まりそうになった。
「え?」
「急にすみません。でも、前からもう少し話してみたいと思ってて」
佐伯さんは真面目な顔をしていた。
軽い誘いではないのが分かった。
私は反射的に、遥斗の顔を思い浮かべてしまった。
だけど、遥斗は私の恋人じゃない。
私を親友と呼ぶ人だ。
私はいつまでも、遥斗だけを見ていていいのだろうか。
「……はい。ぜひ」
そう答えた瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
佐伯さんは嬉しそうに笑った。
「よかった。連絡します」
「はい」
そのとき、スマホが震えた。
画面には、遥斗の名前。
私は一瞬、出るか迷った。
でも、佐伯さんの前で無視するのも不自然で、電話に出た。
「もしもし」
『今どこ?』
声が低かった。
「駅の近く」
『飲み会、終わった?』
「うん」
『一人?』
私は横にいる佐伯さんを見た。
「……会社の人と一緒」
電話の向こうが、少し静かになった。
『男?』
「遥斗には関係ないでしょ」
自分でも驚くくらい、冷たい声が出た。
佐伯さんが気まずそうに目を逸らす。
遥斗はしばらく黙ってから、言った。
『迎えに行く』
「来なくていい」
『澪』
「大丈夫だから。じゃあね」
私は電話を切った。
指が震えていた。
佐伯さんが心配そうに見る。
「大丈夫ですか?」
「すみません。幼なじみです」
「仲いいんですね」
「……そうですね」
仲はいい。
誰よりも。
でも、それだけ。
私はスマホをバッグにしまった。
今日は、遥斗を待たない。
そう決めた。
だけど改札に近づいたところで、私は立ち止まった。
駅前の柱にもたれて、黒いキャップをかぶった男がこちらを見ていた。
マスクで顔は隠れている。
それでも、私にはすぐに分かった。
遥斗だった。
遥斗は私の隣にいる佐伯さんを見て、それから私だけを見た。
「その男、誰」
黒いキャップの下で、遥斗の目だけが笑っていなかった。
私を“親友”と呼ぶ人が、初めて、恋人みたいな顔をしていた。
お読みいただきありがとうございます。
「親友」と呼ばれ続ける澪の苦しさと、
遥斗の無自覚な独占欲が少しずつ見え始める第1話でした。
次話では、澪が前を向こうとした瞬間、
遥斗の感情が大きく揺れ始めます。




