第9話 夢の産物――3日目③
ルーカスに連れられて向かったのは、屋敷の奥深くに位置する温室だった。
二年前と変わらず、扉を開けた途端に、
湿った土と瑞々しい葉の匂いが、ふわりと流れ込んでくる。
高い硝子天井から、午後の陽光が降り注ぎ、床には窓枠の影が長く尾を引いている。
壁一面のアーチ窓には蔦が絡まり、その向こうでは外の樹影が淡く揺らめいていた。
壁際に設えられた棚には、大小さまざまな鉢が整然と並んでいる。
格子を這う蔓の先で、薄紫の花が密やかに灯り、
透明な茎を持つ草は、光を透かして硝子細工のような煌めきを放っていた。
広間はあれほど荒れ果てていたというのに、
ここだけは、誰かが絶えず水をやり、枯葉を摘み、土を整え続けてきた形跡が息づいている。
霜葉ミント。
月雫蘭。
硝子蔓。
棚札には、それぞれの名が、独特の癖を持つ筆致で記されていた。
温室というより屋内庭園と呼ぶに相応しいこの空間は、
屋敷全体に漂う死の気配から、完全に切り離されているようだった。
「わあ、変わってない……」
ルーカスの背を追って足を踏み入れた瞬間、感動のまま、声がこぼれた。
二年前まで、私も兄弟子たちに混じって、この植物たちの世話を任されていたのだ。
水をやりすぎて叱られた。
魔石粉の配分を誤り、葉を丸めさせてしまった。
枯れかけた鉢を前に、必死で土を入れ替えたこともある。
そのたびに、ルーカスたちは正しい手順を噛み砕いて教えてくれた。
緑の間を縫うように進んでいくと、見覚えのある植木鉢が棚の上に置いてあった。
「あれ……!」
小粒の白い花をつけたそれは、旋律を奏でる植物。
祝音花――。
葉に触れると、鈴に似た音を響かせる薬草だ。
「枯れてなかったのね……」
丸い葉は瑞々しく、根元の土も綺麗に均されている。
白い花弁が震え、私を歓迎するように、透き通った音を鳴らした。
祝音花は繊細な植物だ。
水の量、日照、土に混ぜる魔石粉の配合――
そのどれか一つでも狂えば、瞬く間に萎れてしまう。
何度も枯らしかけ、そのたびにルーカスに泣きつき、
花が持ち直すまで二人で見守った思い出が蘇る。
屋敷を去る時、この花のことも心残りではあった。
けれど、当時の私は、自分の体調を維持することで精一杯で、
周囲にまで思考を巡らせる余裕などなかったのだ。
「良かった……」
「手間が省けた。引き取ってもらいたいのは、そいつのことだ」
背後からルーカスの声がして振り返る。
彼は窓際に身を預けるように立っていた。
腕を組んだその姿勢には、どこか自らの体を支えるような、不自然な硬さが混じっている。
「ハッピーちゃんだったか?
君におめでたい名をつけられた、哀れな雑草だ」
「ざ、雑草じゃないです!」
抗議の声を上げると、ルーカスは笑みを堪えるように目を細めた。
「他の草は引き取り先が決まったが、
それだけは、どうにも行き先を決め損ねてな」
「それが、やり残したことなんですか?」
「ああ」
私は棚から祝音花の鉢をそっと持ち上げ、胸元へ引き寄せる。
白い花が揺れ、細い音を返した。
その音を聞きながら、私はルーカスへ向き直る。
「なんだ」
「……みんながいなくなったあとも、ルーカスさんが面倒を見てくれたんですか?」
「枯らすわけにもいかないだろう」
ルーカスは短く応じると、居心地悪そうに視線を逸らした。
腕を組んだ指先が、袖口の布を一度だけ握る。
「ただの退屈しのぎだ」
「……そうですか」
ルーカスの横顔は、いつも通り淡々としていた。
けれど、その頬には隠しきれない濃い疲労が影を落としている。
(体も悪いのに……)
「ありがとうございます」
彼は小さく肩をすくめると、腕を解いた。
それから棚に片手を添え、体を支えながら扉の方へ向き直る。
「用はそれだけだ。俺は仕事に戻る」
「あっ、待ってください!」
気づいた時には、口をついていた。
ルーカスが足を止め、不審げな視線をこちらに向ける。
「少し、休んでいきませんか」
「……休む?」
「はい。その……せっかく温室に来たので。
少しだけ、植物の話を聞かせてもらえたらと思って」
口にしてから、自分でも都合のいい言い訳だと思った。
署名をもらうために距離を詰めなければ、という焦りがあった。
ルーカスはその真意を敏く察したらしい。
棚に添えられていた指先が、こつ、と木縁を叩く。
「俺の気を引くために、何を話すつもりだ?」
「うっ。……ええっと……」
言葉に詰まる。
(雰囲気。そう、まずは雰囲気作りが大切なはず)
「薬草の生育条件と、魔力反応について語りませんか!」
「……君は男を栽培理論で落とすつもりか」
「だめですかね……」
ルーカスは呆れたように深い溜息を吐いた。
けれど、背を向けて立ち去ることはしなかった。
「まあ、いい。付き合ってやる」
彼は私の脇を通り過ぎ、花壇の前で膝を折る。
動きは静かだったが、動作の途中で一度だけ鳩尾のあたりを抑え、短く息を吐き出した。
「……この辺りは、君が出て行ったあとに新設した。
王立植物園の連中に頼まれて、扱いの難しい薬草を預かっていてな」
「新設?」
自分の声が弾むのが分かった。
好奇心が刺激され、気持ちがぱっと浮き立つ。
けれど、ルーカスがこちらを見上げた瞬間、すぐに我に返った。
(何を浮かれているの。雰囲気を作るのよ、ビビ)
腕の中の花を庇いながら、そろそろと彼の隣にしゃがみ込む。
近づきすぎないよう、一人分の距離を空ける。
ルーカスの視線に促され、私は緊張を隠しながら花壇へ目を向けた。
「あっ。この蔓は見たことないです。新種ですか?」
「毒喰い蔓だ。名の通り、空気中に漂う毒素を吸う」
「へえっ! 空気を浄化してくれるなんて、いい子ですね。
部屋に置いたら、毎朝爽やかに起きられるんじゃないですか?」
「扱いを誤れば、吸わせた毒をまとめて吐き出す。
温室一つなら半日で駄目になる」
頬が引き攣った。
ルーカスは平然とした様子で根元を指し示した。
そこだけ、土の色が周囲よりも不自然に濁っている。
「だから土の色を観察する。根元が黒ずんできたら替え時だ」
「……勉強になります」
(何かが違う……)
軌道修正を試み、私は別の花を指さした。
「あれ、ちっちゃくて可愛いですね」
「眠り蝶蘭だ。花粉を吸い込むと、半日は痺れて立てない」
「……物騒」
今度こそ、と思いながら「あれは」と隣の草を指さす。
「雨鳴草だ。水をやると、葉が雨音に似た音を立てる」
「わあ、ロマンティック!」
「花粉を飛ばす時期は、朝まで鳴り止まない」
「……情緒が台無しです」
それでも諦めきれない。
「これは」
「銀糸根。根を細く裂いて縫合糸に加工する。素手で触れれば皮膚に食い込むぞ」
「……はい」
そこで会話が途切れた。
硝子越しの午後の光は穏やかなのに、足元に並ぶ植物たちはまるで油断ならない。
(どうしよう……)
ふと、棚の奥まった一角に目が留まった。
ひときわ鮮やかな赤い花が、置かれている。
小ぶりな花だ。
けれど、炎のように裂けた花弁と、中心に湛えられた淡い蜜のせいで、妙に目を引く存在感を放っている。
「わあ。あのお花、とっても綺麗ですね」
「あれは個人的に栽培している」
「なんていう植物なんですか?」
「恋炎花。惚れ薬の材料だ」
「えっ。まさか……」
ルーカスの片眉が跳ね上がった。
「俺が使うように見えるか」
「いえ、まったく。……もしかして、耐性をつけるためですか?」
「舌だけで味を覚えるよりは、よほど建設的だろう」
「……徹底していますね」
私は立ち上がり、慎重にその花を覗き込んだ。
甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
けれど、ただ甘美なだけではない。
「……これ、思ったより強いですね」
果実酒の瓶を開けた瞬間のときのような、ふっと脳を揺らす香気。
吸い込むと、鼻の奥から喉のあたりにかけて、かすかな熱が残った。
「市販品はかなり希釈されているはずですが、
自家栽培なら有効成分の濃度を極限まで引き上げられそうですね。
ただ、それをやると法的な規制に……」
そこまで一気に捲し立てて、私はハッと我に返った。
雰囲気作りのつもりだったのに、完全に違法薬物の濃度調整について意見を交わしている。
恐る恐るルーカスの様子を窺った。
彼は相変わらず感情の読めない顔をしていたが、少なくとも退屈しているようには見えない。
だからこそ、つい口が滑ってしまったのだ。
「……私、落とせてます?」
ルーカスの表情から、ふっと余裕の笑みが消えた。
その反応を見て、私は自分がどれほど間抜けな発言をしたかに気づき、顔から火が出るほどの羞恥に襲われる。
「すみません! 変なこと言いました!」
「自覚していて何よりだ」
ルーカスは額に落ちた黒髪を、手で後ろへかき上げた。
「でっ、でも、惚れ薬で人の気持ちを変えられるなら、
それはそれで恐ろしいですね~」
なんとか話題を変えたくて、わざと明るいトーンを作って言葉を紡ぐ。
けれど、ルーカスの表情が和らぐ気配はなかった。
彼はしばらくの間、じっと恋炎花を見つめていたが、やがて重苦しい動作で腰を上げた。
立ち上がる足取りはひどく緩慢で、一瞬だけ痛みに耐えるように眉間を顰める。
それを覆い隠すように、私の隣へ歩み寄ってきた。
そして恋炎花へ手を伸ばし、赤い花弁をそっと撫でる。
その指先は酷く慎重で、扱い慣れていることが見て取れた。
「……惚れ薬で得た感情に、価値などない」
「……」
「どんなに濃度を上げたところで、効果は一時的だ」
「……あ。それなら、意味がないですね」
ルーカスは恋炎花から視線を外さない。
「……意味はある」
その声は低く、温室の湿った空気に深く沈み込んでいくようだった。
「これは、夢の産物だからな」
「……夢?」
「醒めると分かっている夢でも、欲しがる人間はいる」
言い終えると、ルーカスは唇を歪めた。
「……まともじゃない」
温室の中に、重い沈黙が降りてくる。
私は、言葉を返すことができなかった。
赤い花に注がれていたルーカスの視線が途切れ、彼は疲れたように睫毛を伏せる。
その瞬間、私の胸の奥が妙にざわついた。
横顔は青白く、先ほどよりも明らかに血の気が引いているように見えた。
「先生?」
ルーカスの視線が、静かにこちらへ向く。
「先生ではないと、言ったはずだが」
「あっ、すみません……」
冷ややかな口調に、それ以上の言葉が続かない。
「もういいだろう。そろそろ戻らせてくれ」
「あっ……」
ルーカスはそれ以上何も語らず、私に背を向けた。
ひとつに結わえた黒髪が、歩調に合わせて静かに揺れる。
呼び止めたかった。
けれど、どんな言葉をかければいいのかが分からない。
廊下へ続く扉に手をかけたところで、ルーカスがぽつりと呟いた。
「祝音花、枯らすなよ」
軋んだ音を立てながら、扉が閉まる。
残された静寂の中で、祝音花だけが、澄んだ音を響かせていた。




