第8話 ビビの隠し事――3日目②
「……」
食堂には、居心地の悪い空気が沈んでいた。
白い皿の上では、ルーカスのフォークが止まっている。
先端には、皮一枚で繋がったままのソーセージが、頼りなく垂れていた。
灰汁の浮いた、濁ったスープ。
皮を削ぎそこねて斑になったじゃがいも。
黒く焦げた玉ねぎ。
添えたパンも、水分を失って石鹸のように硬く、指で押しただけではびくともしない。
向かいの席から、感情の読めない黄金色の眼差しで見据えられ、私はたまらず俯いた。
「すみません……」
「……本当に実技が苦手だな」
「ううっ……」
ルーカスは呆れたように深い息を吐き出したが、それ以上は追及してこなかった。
ソーセージを皿の縁でそっと落とし、今度は匙を取る。
スープを掬い、一口。
ゆっくりと喉を鳴らして飲み下したあと、その動きが止まった。
整った顎に手を添え、
まるで舌に残る味を確かめるように、口元を覆う。
(ひぃ……)
反射的に背筋を伸ばし、私は自分のスープを掬ってみる。
「……そ、そんなに美味しくありませんでしたか?」
「いや」
ルーカスは手を戻し、器の中を軽く混ぜながら、ぽつりと呟いた。
「君は真面目だな。
魔力目当てなら、そろそろ惚れ薬でも盛られる頃かと思っていた」
予想もしない単語に、私は思わず瞬きをした。
湯気の向こうで、ルーカスは何でもないことのように食事を続けている。
冗談めかした口調の裏に、薄い皮肉が混じっていた。
「……それで誤魔化せる相手なら、苦労しません」
ルーカスは面白そうに目を細めた。
「よく分かっているな」
「……そりゃ、まあ。……ずいぶん迷惑していましたよね」
ルーカスの持つ力を求め、近寄ってくる女性は後を絶たなかった。
研究室に届けられる、出どころの不確かな差し入れ。
式典のあとに体裁よく渡される菓子。
香りの強すぎる茶葉や、妙に甘ったるい酒。
弟子だった私ですら、その手の不自然な贈り物を目にしたことは一度や二度ではない。
けれど、そういった類のものを盛られても、彼は表情ひとつ動かさなかった。
口にする前に見抜くこともあれば、口に含んだあとで、
何事もなかったように処分を命じることもあった。
「おかげで、すっかり味を覚えた。媚薬も、毒も」
「……毒!?」
声が裏返った。
初耳だった。
「そんなものまで盛られたんですか?」
「俺が持つものには、それだけの価値がある」
ルーカスは澄ました顔で続けた。
もう、スープの味など分からなくなってきた。
「どれほど清廉潔白なことを口にしても、人間の本質は行動に表れる。
盗めるなら盗む。騙せるなら騙す。
薬を盛るだけでは飽き足らず、身を削って呪いにまで手を出す連中もいる」
言葉の最後で、器の底が乾いた金属音を立てた。
「……呪い、ですか」
「魔力絡みの呪いなんて、特に厄介だ」
皿に添えていた自分の手に、無意識に力がこもる。
衣服の裏側に、嫌な汗が滲んだ。
けれど、ルーカスは気づいた様子もない。
「厄介というと……例えば?」
喉の渇きを覚えて水差しに目が向いたが、
ここで手を伸ばせば、動揺が伝わってしまう。
私は身じろぎもできなかった。
「魔力核を侵す類いの呪いだ。
進行すれば魔力の生成を妨げ、やがて肉体にも影響が出る」
魔力核。
ごくりと、喉の奥で重い音が鳴った。
魔術師にとって、魔力核は魔力を生み出す根幹だ。
そこを損なえば、杖は応えない。
術式を知っていても、何ひとつ動かせなくなる。
三年前、私を蝕んだ呪いも、核にまつわるものだった。
「ちなみに……魔力核を侵す呪いで、痣が出る場合は……?」
匙を持つルーカスの手が、器の上で静止する。
「痣が出る型は、成功率こそ低いが、定着すれば進行が速い。
……悪趣味な術式でな」
嫌なものでも思い浮かべたように、苦々しそうに表情を歪めた。
「目に見える頃には、すでにかなり深く蝕まれていることが多い。
魔力を使えば進みは早まるが、使わずにいても止まりはしない。
いずれは……体の方が耐えられなくなる」
相槌を打とうとしたが、喉が強張って声が出ない。
……やっぱり、そういうものだったのだ。
薄くなったはずの痣の跡が、服の下で疼いたような気がした。
かつての熱が燻っているような、不快な錯覚がする。
黙り込んだ私を見て、ルーカスが不審そうに眉根を寄せた。
「何か心当たりでもあるのか?」
「い、いえ! 魔力がうまく巡らなくなるなんて、私の病気と少し似ているなと思って」
ルーカスは、すぐには頷かなかった。
「そうだな」
短い返事だった。
それ以上問われなかったことに安堵するより先に、背筋に冷たい汗が伝った。
(言えない)
病気などではない。
私から魔力を奪ったのは、ルーカスが口にした呪いそのものだった。
仕掛けたのは、私を妬んでいた人間だった。
筆頭魔術師であるルーカスのもとで修行をする私が、目障りだったらしい。
(でも、そんなことを話したら先生は気に病むはず)
隠れて治療を受けていたが、回復の見込みはなく、徐々に体は衰えていった。
屋敷に残れば、いつか露見してしまう。
同情されたくなかった。
迷惑をかけたくなかった。
何より、隙を突かれた無能な魔術師だと思われたくなかった。
だから、私は何も言わず、この屋敷を出たのだ。
その後、理由も分からないまま、命を削るとまで宣告された呪いの進行は治まった。
けれど、それで元通りになったわけではない。
長く冒されていたせいで、体内の魔力核は修復不可能なほどに摩耗していた。
魔術医には、命が助かっただけよかったのだと慰められた。
それでも、私はもう二度と、自力で魔力を生み出せない。
だから私は、過去の呪いには一切触れず、ただ魔力を貸してほしいとルーカスに頼んだのだ。
魔力を貸与してもらえれば、この空っぽの体でも、少しは術を扱えるようになるからだ。
でも。
『赤の他人となった元弟子に、そこまでしてやる義理はない』
屋敷を出た時点で、魔術師としての私も、弟子としての立場も、終わっていた。
(……十年、一緒にいたというのに)
器の中のスープが、私の微かな震えを拾って小さく波打つ。
反射した自分の顔が、無様に歪んで見えた。
(相続目的の女だと、思われたままなのか)
実際にやっていることは、その通りだ。
それでも、何も知らされていなかったことまで平気なわけではなかった。
余命七日になるほど悪くなっていたのなら――。
「……知らせてくれても良かったのに」
口に出してしまってから、しまったと思った。
恐る恐る、ルーカスの顔を窺う。
黄金色の瞳は、静かにこちらを見ていた。
責めるでもなく、笑うでもなく、ただ私の放った言葉を受け止めている。
それが余計に、苦しかった。
けれど、衝動は止まらなかった。
「私……ルーカスさんがご病気だと知っていれば、お見舞いくらいには来ましたよ。
そんなに薄情な人間じゃありません。
できたら、もっと早く知りたかったです」
ルーカスの喉が、わずかに動いた。
何か重いものを飲み込んだように見えた。
けれど、返事はない。
指先にまとわりついた湯気が、すぐにほどけて消えていく。
「……この言葉も、ご機嫌取りだと思われましたか」
ルーカスの指に、わずかな力がこもる。
「いや」
短く答えたあと、彼はわずかに口元を歪め、私から目を逸らす。
そのまま匙を置き、フォークに持ち替えると、切れ損ねたチーズを刺した。
フォークの先で押されたチーズは、皿の上を少し滑った。
ルーカスは平然と持ち直したが、その動きは鈍い。
(こんなに手間取るなんて)
日に日に、弱っている。
それなのに、本人だけがそれを認めようとしないようだった。
十年の月日の中で、いつも隙なく、堂々としていた男の姿と重なって、ひどく痛ましかった。
「……本当に、ご病気は治らないんですか?」
「ああ」
「それなら……何か、やり残したことはないんですか」
ルーカスが黙る。
今度の間は、先ほどまでのものとは違った。
気まずさから、口に出すことを躊躇っているように見えた。
「あるんですね? 何ですか、それは!?」
「……」
「いいじゃないですか、教えてください」
私は身を乗り出す。
ルーカスはしばらく思案していたが、
やがてフォークを置き、指先で皿の縁を軽くなぞる。
そして、とうとう観念したように、ふっと息を吐き出した。
「雑草を引き取ってくれ」
「……ざっ……え?」
間の抜けた声を上げた私に、ルーカスはようやく肩の力を抜いた。
それから自嘲を混ぜて、苦笑するのだった。




