第7話 誰も俺に興味はない――3日目①
私室のベッドで微睡んでいると、
階下から大きな物音がして、私ははっと身を起こした。
窓の向こうには、夜の名残を残した薄い光が差し込んでいる。
東の端だけが、かすかに白みはじめていた。
(えっ、まさか、もう起きてる!?)
慌ててベッドから降りると、足元が少しふらついた。
昨夜、研究室を後にしたあと、倒れ込むように眠っていたからだ。
けれど、そんなことを気にしている暇はない。
身支度もそこそこに、上着に袖を通しながら廊下へ飛び出す。
階下からは、また何かが倒れたような音が響いてきた。
胸騒ぎを覚えながら、一気に階段を駆け下りる。
「ルーカスさん!」
広間につながる扉を開いた瞬間、ぶわっと魔術の波が体を打った。
「!?」
反射的に足を止める。
肌の表面を、痺れるような感覚が撫でていった。
髪がふわりと浮き、上着の裾が後ろへ押し流される。
「おはよう、ビビくん」
ルーカスの声だけが、場違いなほど落ち着いていた。
「な、何事ですかこれは……」
広間には異様な光景が広がっていた。
あらゆるものが、宙に浮いている。
絵画、写真、シャンデリア、植木鉢、ストゥール、石像――。
天井近くまで持ち上げられた調度品が、ゆっくりと回転している。
古びた額縁が光を弾き、銀の燭台が宙で傾き、
植木鉢からこぼれた土だけが、雨粒のように空中で止まっていた。
その中心で、ルーカスはソファに腰を下ろしていた。
夜遅くまで仕事に没頭していたというのに、身なりは整っている。
束ねた黒髪に乱れはなく、襟元もきちんと閉じられていた。
けれど、整えられた身なりに反して、肌の色には血の気が薄かった。
目元には浅い陰が落ち、瞬きをするたびに疲労が滲む。
それでも彼は、冷めた表情のまま片手を宙にかざしていた。
指先をわずかに動かすたび、浮かんでいた調度品が静かに向きを変える。
広間全体を満たす魔力のうねりに反して、ルーカス本人だけが、ひどく静かだった。
彼が短く詠唱すると、宙に浮いていた品々が一斉に圧縮された。
絵画も、燭台も、古びた椅子も、形を保てないまま光の粒へと砕ける。
それは雨のように床へ降り注いだが、音はなかった。
床に触れるより先に、細かな光は空気に溶けるように消えていく。
その直後、ルーカスの喉が小さく上下した。
咳を飲み込んだようにも見えたが、彼は何事もなかったように次の品へ手をかざす。
そこでようやく、私は息をした。
「……何をされているんです」
「生きているうちに、屋敷を片しておくんだ。
筆頭魔術師の俺が死ねば、研究資料も魔道具も、相続目当ての連中に荒らされる。
無法者たちに、好き勝手される前に整理しなければ」
淡々と呟きながら、ルーカスは部屋の隅を示した。
そこには、高価そうな美術品や書物が紐で束ねられ、積まれていた。
残すものだけを分けているらしい。
「君はまだ寝ているといい。
昨夜は俺に付き合って遅かっただろう」
「うっ」
付き合ったとは言うものの、結局、役に立てたのは望液と朔液が取り違えられていると気づいたときだけだ。
あれからは互いに無言で、大した貢献は出来なかった。
机の上に積まれた資料を眺めて、ルーカスの邪魔にならないように息を潜めていた時間のほうが長い。
(でも、今日はもう三日目……!)
唇を引き結ぶ。
(今日こそ、もう少し踏み込まなきゃ)
焦りを押し込めて、私は息を吸った。
「いえ、大丈夫です。私もお手伝いします」
ルーカスはちらりとこちらを横目で見た。
黄金色の瞳が、ほんの一瞬だけ私を測るように細められる。
けれどすぐに、彼は扉の脇に積まれていた荷物へ目を向けた。
「なら……王立研究院に寄贈出来そうなものだけ、それぞれ選り分けてくれ。
不用品は魔術で消し去れるが、選別までは面倒でな」
「わかりました!」
ようやく役目を与えられて、ほっと安堵する。
私はいそいそと積まれた箱の前へ向かい、膝をついた。
一つ目の蓋を開けると、古い紙と革の匂いがふわりと立ちのぼる。
中に入っていたのは、魔術の資料、歴史書、日誌など、多岐にわたる貴重な品だった。
金具で留められた革表紙の本。
銀糸の紐で綴じられた研究記録。
保存魔術のかかった古い羊皮紙。
魔草の標本が挟まれた図鑑。
封蝋の残る術式写本。
どれも簡単に捨てていいものには見えなかった。
(わあ……)
思わず興味を引かれて、表紙をめくる。
「ビビくん。読み始めたら終わらないぞ」
「は、はあい……」
慌てて本を閉じる。
だが、どれも魅力的すぎて、気持ちが浮き立った。
魔術、秘薬、術式陣、結界、魔道具――。
背表紙に刻まれた文字を見るだけで、つい手が伸びそうになる。
中身を読みたい。
開きたい。
書き込みを見たい。
どこに線が引かれていて、どこにルーカスの注釈が残っているのか知りたい。
興奮を抑えながらも、私は一つ一つ丁寧に選り分けていった。
けれど、手を動かすほどに迷いが増えていく。
どれもルーカスが大切にしていた品だと知っている。
彼が夜遅くまで読み込んでいた本。
研究室の机に置かれていた資料。
私が質問して、面倒くさそうに説明してくれた論文。
不要なものなど、何一つないように思えた。
それでも、指示に徹して、公的に価値のありそうなものを慎重に分けていく。
ようやく箱の底が見えてきたところで、写真アルバムのようなものが出てきた。
白い革張りの表紙は、少し角が擦れている。
けれど、乱暴に扱われた形跡はなかった。
むしろ長いあいだ棚の奥にしまわれていたような、静かな重みがあった。
(写真も選り分ける必要あるかな……)
そう思い、表紙をめくる。
すると、古い集合写真が目に入った。
「わっ、これルーカスさんですか?」
思わず声が弾んだ。
王立魔術学院の卒業式だろうか。
写真の中央には、若き日のルーカスが写っている。
今よりも少し頬が細く、髪も短い。
けれど、どこか人を食ったような表情は、今とほとんど変わらなかった。
私の声を聞いて、ルーカスが腰を上げ、こちらへ近寄ってくる。
「……だから、君は」
「ルーカスさんにも、ちゃんと若いときがあったんですね!」
そこには、資料でしか名前を見たことのない高名な魔術師たちが並んでいた。
若い頃の彼らは、教本に載っている肖像画よりもずっと人間らしく、微笑んでいたり、目を逸らしていたり、肩を組んでいたりする。
しかし、返事がない。
はたと気づいて見上げると、ルーカスが黙ったまま私を見下ろしていた。
「あっ、ごめんなさい。
プライベートなものを無遠慮に……。これはしまっておきます」
私が表紙を閉じようとすると、ルーカスは呆れたようにため息をついた。
けれど、叱られはしなかった。
意外にも、ルーカスは私の隣へ腰を下ろした。
動作には気だるさが滲んでいたが、指先だけはいつものように迷いなく伸びて、アルバムの二枚目をそっとめくった。
そこには、あどけない容姿のルーカスが写っていた。
まだ少年と呼べる年頃だ。
けれど表情だけは、妙に大人びている。
「とても賢そうな顔をしている」
「……自分で言いますか」
「神童だと騒がれていた。
当時は鬱陶しく思ったが、評価した奴らの目は節穴じゃなかったらしい」
その横顔があまりにも平然としていて、私は少しだけ肩の力が抜けた。
さらにルーカスが頁をめくると、弟子たちと撮った写真が数枚挟まれていた。
屋敷の前で撮られたものだろう。
見覚えのある門と、石畳と、白い外壁が写っている。
そこに――ひときわ背が低く、若い少女が紛れていた。
「私ですね、これ」
「この世のすべてがゴミだと言わんばかりの顔で写っているな」
「……悪かったですね」
写真の中の私は、確かにひどい顔をしていた。
痩せた頬に、今より長い髪がかかっている。
誰も信用していないような目で、じっと前を睨んでいた
隣にいる年上の弟子たちに馴染めていないことが、一目で分かる。
あの頃の私は、戦火で居場所を失い、
魔術を学びたいという気持ちだけを抱えて、この屋敷の門を叩いた。
門前払いされても仕方がないと思っていた。
それでも、他に行く場所なんてなかった。
「ルーカスさんに弟子にしてもらえて良かったです。
十年も面倒を見ていただきましたし……」
「俺は情けで弟子は取らない。
君が成果を出し続けたからだ」
一拍遅れて、その言葉が胸に落ちた。
私は顔を上げる。
けれど、ルーカスは視線を合わせない。
なんと返したらいいのか分からず、膝の上で指先を握り込んだ。
ごまかすように頁をめくろうとしたところで、ルーカスの手が伸びてきた。
まるで阻むように、アルバムがパタンと閉じられる。
「こういうものは処分で良い」
「えっ!?」
ルーカスは、ゆっくりと膝に手を当てながら立ち上がった。
「そんな。残しておきましょうよ、こんな貴重なもの」
「残しておいてどうするつもりだ。
肖像画や受賞式典の写真なら、公の場で腐るほど撮られている」
「でも、これは……そういうものとは違うじゃないですか」
ルーカスは、薄く笑った。
「誰も、俺自身に興味はない」
まるで、他人事のような声だった。
思わず腰を浮かすと、ルーカスは制するように手をかざす。
「……君もな」
ぎくり、と胸を突かれたように思えた。
「私は……」
言い返そうとして、言葉が喉に引っかかった。
ルーカスは、言い訳を許すでも責めるでもなく、黙って私の言葉を待っていた。
嫌な汗が、じわりと手のひらに浮かんだ。
「あの、私は……」
「さすがに腹が空いたな。食事にしよう」
遮られた。
それ以上踏み込むなと線を引かれた気がして、体が強張る。
言いかけた言葉だけが、喉の奥に残った。
「じゃあ私、作ります」
アルバムを抱えたまま、私はぎこちなく立ち上がる。
ルーカスは肩をすくめ、話を切り上げるようにソファへ戻っていった。
「焦がしすぎるなよ」
「任せてください。とびきりのポトフを作ります」
「……君は煮込み料理しか知らんのか」
呆れたように呟きながら、彼はソファへ座り直した。
背もたれに体を預け、深く息を吐く。
その仕草は何気ないものに見えた。
けれど、体を休めるためというより、ほんの少し力を抜かなければ座っていられないようにも見えた。
「今度こそ、ちゃんと美味しいものを作りますから」
「なら、少しは期待しておこう」
「ルーカスさんは、そこで休んでいてくださいね」
ルーカスは返事の代わりのように、かすかに笑った。
私はアルバムをそっと脇へ置き、腕まくりをして厨房に向かう。
明るく振る舞えた、と思った。
少なくとも、今はそうするしかなかった。
けれど、廊下に出た途端、足が止まる。
『……君もな』
胸が、疼くように痛んだ。




