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第6話 私のしたことは――2日目③

(侵食……)


 胸の奥に、冷たいものが落ちた。


 病に関係する記述なのだろうか。

 そう思った途端、見てはいけないものに触れてしまったような気がして、指先まで強張る。


 ルーカスがこちらを向いた。

 私がその単語を読んだことを悟ったのだろう。


 彼はわずかに目を細めると、無言で指先を動かした。


 開かれていた本が、静かに閉じる。


(……隠された)


 再び私に背を向け、作業に向かう姿からは、

 どんな事情も、感情も、読み取れなかった。


 私は近くの椅子を引き寄せ、腰を掛ける。


(……教えてくれるつもりはないんだな)


 侵食。

 その文字だけが、重たく脳裏に絡みつく。


 膝の上に手を置いたまま、じっと作業を見守った。


 術式陣の線が細く震え、薬瓶の中で濁った液体がゆっくりと揺れている。

 ルーカスはその変化を逃さないように、微動だにせず見据えていた。


 肩はわずかに上下して、呼吸も浅い。


 けれど、体の弱りとは切り離されたように、

 魔力の流れは、恐ろしいほど正確だった。


 さっきの頁にあった文字と、この薬は関係しているのだろうか。

 そう考えた途端、胸の奥がじくじくと疼いた。

 それでも、ルーカスの手元から目を離せない。

 荒い呼吸とは裏腹に、術式の線は一度も乱れなかった。


(すごいなあ)


 その背中を見ているだけで、筆頭魔術師という肩書きの重さが分かった。


 衰えているのに、

 死にかけているのに。

 それでも、魔術だけは圧倒的。


 生まれ持った才に溺れることなく、常に勉強に励んで、身を削っていた。

 誰よりも早く研究室に入り、誰よりも遅くまで机に向かう。

 研究も、実務も、弟子の指導も、国から求められる判断も、すべて当然のように背負ってきた。


 国家魔術師団の筆頭魔術師。


 その肩書きは、強い魔力を持っているだけで許されるものではない。

 まして、何もせず守り続けられるものでもなかった。


(だけど、この人が死んだら……)


 ――この魔力が、私のものになる。


 自分の考えに、ぞっとした。

 恩師が目の前で衰えているのに、私はその魔力の行き先を考えている。

 苦しそうに息をしている人を見ながら、死後に残るものを計算している。


 なんて浅ましいのだろう。


 痩せた背中を見つめていることすら苦しくなって、私は堪えきれずに目を伏せた。


(……いや、何を今さら)


 自分の考えを振り払うように、ふるふると頭を横に振る。

 ここまで来て、聖人ぶったところで意味はない。


 私は顔を上げ、椅子を押しのけるように立ち上がった。


 そのまま、靴音も隠さずルーカスの隣へ向かった。

 ルーカスは薬瓶から視線を外し、何をする気だと言わんばかりに私を見る。


「ルーカスさん、黒香茶がお好きでしたよね。淹れてきましょうか」

「要らん」


 即答だった。


「足りない素材とかありませんか? 買ってきますよ」

「事足りている」


「整理するものはありませんか? 倉庫に運んでおきます」

「必要ない」


「……ええっと、あとは……」

「気が散る」


 撃沈。


 まったく相手にされてない。


「暇なら本でも読んでいろ」

「……はい」


 まるで子ども扱いだ。


 ルーカスが押しつけるように渡してきた数冊の本を抱え、私はすごすごと椅子へ戻った。

 膝の上に本を重ね、どれを読もうかと表紙を眺める。


 その中の一冊に、異国の文字で題名が記された古い文献があった。


 手に取って、ぱらぱらと頁をめくる。

 硬い紙には、細かな文字がびっしりと刻まれていた。


 記号のようにも見える特殊な文字。

 弟子になったばかりの頃は、まったく読めなかったものだ。


 けれど、魔術を学ぶには、古い文献を避けては通れない。


 術式の原典、薬品の配合記録、異国の魔術師が残した論文。

 魔術は国や時代をまたいで積み重ねられる。

 扱える言葉が多いほど、触れられる知識も増えていく。


 私はルーカスや兄弟子たちに教わりながら、少しずつ読める言葉を増やしていった。

 隣国で使われる言葉、東方の文献語、古い王国文字、薬品名にだけ残った地方語の癖。

 発音は拙くても、書物を読むだけなら、いくつもの言葉を追えるようになっていた。


 本の余白の隅には、私や兄弟子の筆跡が残っている。


 単語の意味。

 訳し間違えた箇所。

 あとから書き足した注意書き。


 ところどころに、ルーカスの文字も混じっていた。

 短く、無駄のない補足。

 間違った解釈を容赦なく正す線。


(先生もよく付き合ってくれたなあ……)


 指先で、書き込まれた文字をそっと撫でた。


 そのとき、研究室の明かりが揺らいだ。

 はっとして見ると、術式陣の中心で、ぱちん、と乾いた音がした。


 淡く整いかけていた光が、すぐに濁ってほどけていく。

 机の上に広がっていた術式の線が、途中で力を失ったように細く消えた。


「……またか」


 ルーカスの低い声が落ちた。


「分量……順序……何が違う」


 珍しく、考え込むように呟いている。

 どうやら、調合に苦戦しているようだ。


 声をかけようか迷っていると、ルーカスが不意に私を振り返る。

 一瞬、言葉を選ぶような間があった。


「ちょっと来てみろ」


 軽く手招きされて、私は瞬きをした。

 おずおずと椅子から立ち上がり、机のそばへ近寄った。


 ルーカスは琥珀色の薬瓶を取り上げ、ラベルを向けてきた。


「読めるか」


 そこに書かれていたのは、異国の文字だった。


 見慣れない人間には、ただの飾り模様にしか見えないかもしれない。

 けれど、私はすぐに目で文字列を追った。


(二つ目の文字が反転している。

 語尾の欠け方は、南方訛りじゃない)


 これは、古アルディカ語の薬品表記だ。


 文字の並びを、頭の中で文法ごと組み替える。


「……月の液に分類される薬品ですね」

「そうだ。ただ、魔力を循環させようとすると、術式が弾ける」


 私はラベルの端に刻まれた小さな符号を指で示した。


「それが、望液ではないからです」


 ルーカスは眉根を寄せた。


「ここです。普通なら、この丸い印は濃度記号として扱います。

 だから望液として読むのが一般的です」


「俺もそう読んだ」


「ですが、最新の古アルディカ薬学注釈では、

 この位置にある印は濃度ではなく、採取月相を示すものとされています」


 私はラベルの端を指したまま、続けた。


「つまり、これは望液ではなく朔液です」


 ルーカスは顎に手をあてる。


「そんなものまで読んでいるのか」

「……趣味で」


 落ち着かなくて、私は両手の指を絡める。


「望液は魔力循環を強める素材です。

 でも朔液は、一度流れを鎮めて、暴走を抑えるために使います。

 ですから、循環を補助するはずの処方に朔液を入れれば、

 流れが立ち上がる前に術式が弾けます」


「……なるほど」


 その一言で、部屋の空気が昔の研究室の空気に戻ったようだった。

 ルーカスは薬瓶を手に取り、ラベルの文字を確かめるように見つめた。


「失敗の原因が分かった」


 ルーカスが詠唱すると、薬品棚からふわりと別の瓶が宙に浮いた。

 淡く黄色く発光する望液の瓶が、机上の朔液と入れ替わるように、ルーカスの手元へ滑ってくる。


 再び、短い詠唱が落ちた。


 望液の瓶の蓋が開き、術式陣の中心へ細く注がれていく。


 その瞬間、淡い光が走った。

 不安定だった波形が一気に整い、術式陣の中央に浮かんでいた薬瓶の中身が、澄んだ青へと変わっていった。


「綺麗……」


 広がった輝きが、少しずつ空気に溶けていく。

 さっきまで肌を撫でていた魔力の波が、潮が引くように静まっていく。


 ルーカスは薬瓶を持ち上げ、光に透かす。

 澄んだ青い液体が、硝子の内側でとろりと揺れる。


 その横顔は、ほんの少しだけ満足そうだった。


「礼を言う」


 素っ気ない口調だった。

 けれど、その一言に、私は思わず胸に手を当てた。


(役に立てた)


 ルーカスからそんなふうに言われるのは、何年ぶりだっただろう。


「へへ……」


 自分でも締まりのない声が出た。

 よほど気の抜けた顔をしていたのか、ルーカスは私を一瞥する。


 ほんの一瞬、口元が動いたように見えたが、すぐに薬瓶へ視線を戻した。


 そして一拍置き、彼はそれを一気に飲み干した。


「えっ……」


 止める間もなかった。


 空になった瓶が、机の上に置かれる。

 その音は硬く、大きく響いた。


 ルーカスの顔が苦痛に歪む。

 片手が机の縁を掴み、喉の奥から押し殺したような息が漏れた。


「あ、あの……それ、本当に薬なんですか」


 ルーカスはしばらく答えなかった。

 呼吸を整えるように、浅く息を吐く。


「……ああ。補助薬だ」

「……補助?」

「魔力循環の乱れを強制的に整える」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。


 それは、治療ではない。

 痛みを消す薬ではなく、痛みを無視して魔術を使い続けるための薬だ。


 体が限界を訴えていても、無理矢理動けるように。

 その悲鳴だけを、薬で押し殺す。


 そんなものを飲んで、無事で済むはずがない。


「か、体に負担があるように見えますが……」

「ないわけがない。だが、今さらだ」

「……でも」


「足掻いたところで、どうせあと六日だからな」


 柔らかくなったと思った声が、また冷えた。


 ルーカスは椅子を引き、重たい息を吐きながら座り直す。


「これで仕事もしやすくなる」


 何でもないことのように言われて、体の熱が一気に引いていった。


(……私がしたことって……)


 荒い呼吸を繰り返すルーカスを見下ろしながら、私は唇を噛みしめた。

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