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第5話 触れない手――2日目②

「あ、おはようございます……

 それとも、こんにちは、ですかね?」


 ルーカスは黙ったまま、返事をしない。


(昨日よりも体調が悪そう……)


 扉を開けて立っているだけなのに、肩がわずかに上下している。

 顔色も青ざめていて、唇にも血の気がない。


 ルーカスはふいと顔を背けると、

 私の脇を通り過ぎ、ゆっくりと階段へ向かった。

 一つにまとめた黒髪が、背中の動きに合わせて揺れる。


 私は慌てて、その後ろについた。

 いつでも支えられる距離を保ちながら、階段を下りていく。


 緊張しながら見守っていると、ルーカスが一段、踏み外しかけた。

 とっさに腕を伸ばした。


「結構」


 触れる寸前で、低い声に遮られる。

 ルーカスは私の手を避けるように体勢を立て直し、

 何事もなかったように姿勢を戻す。


「少しくらい、頼ってくれてもいいんですよ」


「気持ちの悪いことを言うな。

 十四も下の小娘に支えられる筆頭がどこにいる。

 部下に知られたら、死ぬに死にきれん」


「……もう」


 口調だけはいつもの調子だった。

 けれど、一段ずつ階段を下りる背中は、ひどく危なっかしい。


 一階まで下りると、ルーカスは手すりに指をかけたまま、ふう、と短く息を吐いた。

 平静を装ってはいるが、その横顔はまだ青白い。


 それでも足を止めることなく、彼は食堂へ続く廊下を進んでいく。

 私はその半歩後ろを、足取りに気を配りながらついていった。


 食堂に入ると、テーブルには温め直したスープとパンが並んでいた。

 焦げた野菜の匂いが、湯気にほんの少し混じっている。


 ルーカスは椅子を引いて席に着いた。

 私は皿の向きを直し、匙を置き直してから、スープを彼の前へ押し出す。


 その間も、ルーカスは腕を組んだまま、難しい顔をしていた。

 まるで試験の日みたいだ。


「……どうぞ」


 私が声をかけると、ルーカスは小さく食前の言葉を呟いた。

 それから匙を取り、スープを口へ運ぶ。

 匙が皿の縁に触れる音がした。


 私も向かいの席へ腰を下ろしたが、とても自分の食事どころではなかった。


 しばらく、無言のままだった。


 ルーカスの眉間に皺が寄って、どきりとする。


 料理が口に合わなかったのだろうか。

 それとも、やはり食欲がないのだろうか。


 気になって、つい様子をうかがってしまう。

 皿の中身よりも、ルーカスの口元や指先ばかり見ていた。


 首を伸ばして表情を確かめようとしたところで、


「……気が散る。何度もこっちを見るな」

「すみません」


 ルーカスはそこで手を止め、

 提出した課題を評価するような目でスープを見下ろした。


「昨夜のシチューは野菜が焦げすぎていた。

 ……これもだ。炭かと思えば人参じゃないか。

 君は火加減を知らないのか?」


「うっ。ごめんなさい。ちゃんと火を通したほうがいいかなって」


 呆れたような視線に、いたたまれなくなる。


「まずいですよね?」


「……」


「無理しないでください。残りは私が責任を持って食べるので」


「……食べられなくはない」


 ルーカスはわずかに眉を寄せながらも、匙を置こうとはしなかった。

 口に運ぶ速度は遅かったが、手は止まらない。


 気づけば、皿の中のスープは綺麗になくなっていた。


 ルーカスは食後の挨拶を呟くと、皿を重ねる。

 呼吸を整えるように一度だけ浅く息を吐き、それから椅子の背に手をかけた。


「どちらへ」

「研究室だ」


 胸が跳ねた。

 待っていた言葉だ。


 けれど、目の前のルーカスは明らかに顔色が悪い。

 そのまま送り出していいのか、引き止めるべきなのか、一瞬迷った。


「せめて、もう少し休んでいかれたら……」

「叩き起こしてきたのは君だろう」

「それは、そうですけど……」


 今朝、寝かせてくれと言った人とは思えないほど、口調だけは平然としている。

 けれど、椅子の背に置いた手には力がこもっていた。


 私がなおも口を開きかけると、


「俺を病人扱いするな」


 ぎくりとする。

 そこまで言ったつもりはなかった。


「病に負けて落ちぶれたなどと、誰にも言わせん。

 その程度の男だったと語られるために、筆頭の名を背負ってきたわけじゃない」


 その言葉に、一瞬、息が止まった。


(落ちぶれ、か……)


 杖に触れることすらできなかった指先が、じくりと疼いた。

 思わず、自分の手を握り込む。


 ルーカスの視線が、ふと私の手元へ落ちる。

 ほんの一瞬だけ、眉間に浅い皺が寄った。


「……君のことではない」

「え……」


 ルーカスはそっけなく顔を背け、席を立った。

 それ以上この話を続ける気はないのだと分かる。


「君は自由にしていろ。朝から動き回って、少しは疲れただろう」


 まただ。

 さりげなく距離を取られてしまう。


(だめだ、それは)


「ルーカスさん。私も研究室に入れてください」


 考えるより先に、口から言葉が出ていた。

 ルーカスは扉へ向かいかけた足を止め、こちらを振り返る。


「機嫌取りのつもりか?」

「はい、そうです」


 ルーカスは意外そうに瞬きをした。


 私は椅子から立ち上がり、テーブルに手をつく。


「だって、一緒にいなきゃ、ただ無意味に時間が過ぎていくだけですから」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。

 ルーカスも、わずかに眉をひそめる。


 でも、引くわけにはいかなかった。


 あと六日しかないのだから。


 指先にじわりと力が入る。


 ルーカスは私を見ないまま、しばらく黙っていた。

 やがて、面倒そうに目を伏せる。


「勝手にしろ」

「……あっ。ありがとうございます!」


 ◆ ◆ ◆


 研究室の扉をくぐった途端、懐かしい匂いがした。


 古い書物と、乾いたインク。

 棚に並んだ薬品瓶からは、少し鼻に刺さる苦みが漂っている。

 床に刻まれた術式円は、二年前と変わらず、淡い金色の線を浮かべている。


 壁際の本棚には、背表紙の擦り切れた術式書が隙間なく並んでいた。

 奥の黒板には、複雑な文字と図形が書き込まれていた。

 ところどころに残る癖のある筆致は、見間違えようもなくルーカスのものだった。


 長机の上には書きかけの論文、開いたままの本、

 使いかけの魔道具が整然と置かれていて、

 誰かが今しがた席を立ったばかりのようだった。


 目に入るもののひとつひとつが、昔の記憶に繋がっていく。


 薬瓶を割って、大怪我をしたこと。

 読めない術式を前に、何時間も唸っていたこと。

 ルーカスの短い叱責が、背後から飛んできたこと。


 十年の月日が、部屋の隅々から一斉に戻ってくるようだった。


「わあぁ……」


 思わず、声が漏れた。


 当時は他の弟子たちも一緒で賑やかだった。

 誰かが頁をめくる音、薬瓶を倒して叱られている声、黒板の前で淡々と続くルーカスの講義。


 けれど今は、コポコポとフラスコの底で

 薬液が泡を立てる音だけが、室内に残っている。


 無意識に薬瓶へ手を伸ばすと、


「むやみに触るな」


 背後から、ルーカスの鋭い声が飛んできた。


 その声に肩が跳ねるより先に、ルーカスの手が伸びてくる。

 手首を掴まれるのだと思ったが、その指先は私に触れなかった。


 伸ばされた手は、ほんのわずかに宙で迷う。

 数拍遅れて、ルーカスは何事もなかったように引っ込めた。


「魔力のない君が手を出したら、何が起こるか分からん」


「あっ。……そうですよね。ごめんなさい」


 あやうく、大事な研究用品を壊すところだった。


 ルーカスは無言で私の前を横切ると、自分の机へ向かった。

 椅子に腰を下ろすまでの動きは、どこか重い。


 けれど、席についた瞬間、空気が変わった。


 開かれた術式書の頁が、風もないのにめくれる。

 棚に並んだ薬瓶が、ひとつ、またひとつと宙へ浮かび上がった。


(薬品の調合だ……)


 紫苑、瑠璃、琥珀色。


 瓶の口が開き、色の異なる液体が細く引き出される。

 それは絹糸のような線となって空中を渡り、

 展開された術式陣の中央へ、寸分の狂いもなく注がれていった。


 量は、一滴単位で調整されている。

 揺れる薬液を見据えるルーカスの視線は、少しもぶれない。


 手元には書籍が引き寄せられ、開いた頁から発光する文字だけが浮かび上がった。

 積まれた紙束の中から、必要な資料だけが抜き出される。


 さらにルーカスが指を鳴らすと、

 私の背後にあった棚の戸がひとりでに開き、

 月桂樹の葉と青晶石の粉が彼の手元へ滑るように集まった。


 薬品、術式、資料、素材。


 すべてがルーカスの指先を中心に、ひとつの流れとして組み上がっていく。

 無駄な動きはひとつもない。


 椅子に腰を下ろすだけで苦しそうだった人と、同じ人物とは思えなかった。


 息を呑む。


 体調は明らかに悪い。

 顔色は悪いし、動作もどこか鈍い。

 指先の力も、昔よりずっと頼りない。


 それなのに、魔術だけは淀みなく扱っている。


 胸の奥が、熱を帯びたように高鳴った。

 悔しいほど、綺麗だ。


 食い入るように見つめていると、

 ふと開かれた本の頁の見出しに気づいた。


『侵食下における魔力循環補助薬』


(侵食……?)

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