第4話 君もしつこいね――2日目①
朝の日差しが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
細く伸びた光が瞼の上に落ち、眩しさに痛みを感じて、
私はゆっくりと目を開ける。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない天井。
頬に触れる、柔らかなシーツの感触。
それから、鼻先をかすめる乾いた布と古い木の匂い。
ぼんやりとした頭のまま身を起こす。
肩から掛布が滑り落ち、そこでようやく気づいた。
私はベッドで眠っていたのだ。
ここは、二年前まで私室として使っていた部屋だった。
昨夜、食堂から戻ってきたときは、部屋の中が薄暗くてよく見えなかった。
けれど、明るくなった室内をあらためて見回すと、
懐かしさが込み上げてくる。
壁際の本棚。
机の上に置かれた魔道具。
窓辺に置いた、王都で買った小さな置物。
机の引き出しも、椅子の位置も、壁に飾った絵画も、
記憶の中にある配置と少しも変わっていない。
棚には、読みかけの本や、使い切れなかったインク瓶が並んでいた。
私が慌てて書き留めた魔術式の紙片まで、端を揃えて置かれている。
紙の端は少し日に焼けていたけれど、乱れた様子はなかった。
ずっと空き部屋だったはずなのに、
昨日まで私がここで暮らしていたようだった。
『君の部屋は、二年前と同じく残してある』
(……本当だったんだ)
ベッドに腰かけたまま、窓枠へそっと指を滑らせる。
けれど、指先には埃ひとつつかなかった。
(掃除してくれていたのかな?)
そこまで考えて、私はすぐに首を振る。
ルーカスの魔術にかかれば、部屋を整えることなど一瞬で済むのだろう。
都合よく受け取るべきではない。
私は小さく息を吐いて、ベッドから降りた。
そこでふと、机の上に置かれた写真立てに目が止まる。
杖を握って、無邪気に笑っている自分の写真。
魔術師であることを疑いもせず、
明日も明後日も、当たり前のように杖を握れると思っていた頃のものだ。
胸の奥がぎゅっと苦しくなって、私は無理やり目を逸らした。
その先には、昨夜、自分で立てかけた杖があった。
布を巻いたそれは、ベッドの傍らで静かに壁へもたれている。
無意識に手を伸ばしかけて、すぐに引っ込める。
指先が布に触れる前に、体が覚えている痛みの方が先に蘇った。
「……」
(いやいや。朝から弱気になってどうするの!)
私は大きく息を吸い、気持ちを切り替える。
このまま客人のように屋敷に置かれているだけでは、七日なんてすぐに過ぎてしまう。
ルーカスと顔を合わせるだけでは足りない。
そばにいて、話をして、少しでも一緒にいる時間を増やさなければならない。
彼が一番長くいる場所は、きっと今も研究室だ。
(なんとか機嫌を取って、入れてもらわなきゃ……)
そのためにも、まずは朝食だ。
会話をしなければ、何も始まらない。
身支度を整え、私は部屋を出た。
廊下を抜け、階段を下りる。
一階の空気はひやりとしていた。
人の声も、足音もない。
二年前とは違う静けさに背筋を伸ばし、私は厨房へ向かった。
◆ ◆ ◆
(うーん……)
私は厨房で、味見用のスプーンを片手に首を傾げた。
煮込みすぎた野菜スープは歯ごたえがなく、鍋の底も少し焦げている。
お世辞にも美味しいとは言えない。
(昨日よりはマシだけど……)
不安を抱えたまま、スープを丁寧に皿へよそう。
湯気の立つ皿を盆に載せ、パンと卵焼き、それから薄く焼いたハムを添えた。
ちらりと時計を見る。
時刻は、六時を少し過ぎたところだった。
ルーカスは弟子の誰よりも早く起きて、研究室の机に向かう人だった。
昔なら、この時間にはもう姿を見せていたはずだ。
けれど、待っていてもルーカスは降りてこない。
食堂に移動し、テーブルの上に二人分の皿と匙を並べていく。
白い湯気が、ゆっくりと立ちのぼっていた。
(……まだ起きてないのかな)
嫌な予感を覚え、私は廊下へ出た。
そのまま二階へ続く階段の前までやって来ると、上階を見上げる。
(起こしに行こうかな)
迷いながら、一段一段、階段を昇っていく。
ルーカスの寝室の前に着くと、自然と足が止まった。
扉の脇には、昨夜の皿と水差しを載せた盆が置かれていた。
シチューは、綺麗になくなっていた。
(食べてくれたんだ)
思わず緩みそうになる頬を引き締め、私は控えめに扉を叩いた。
「せん……ルーカスさん、おはようございます」
返事はない。
「体調はいかがですか?」
そこで、ようやく扉の向こう側で物音がした。
布が擦れる気配。
それから、どこかに手をついたようなかすかな響き。
低く咳を噛み殺すような音に、掠れた呻きが混じった。
倒れているのではないかと心配していたので、ほんの少しだけ胸をなで下ろす。
けれど、扉の向こうで動く気配は、ひどく頼りなかった。
「あの……」
声をかけながらドアノブに手をかける。
「開けるな」
制するような声が聞こえて、私は慌てて手を引っ込めた。
「まだ眠っていたいんだ」
けれど、続く声には力がない。
「やはり体調が優れないんですか?」
「……ああ」
「私に出来ることなら、言ってください。必要なものや、してほしいことがあれば……」
「寝かせてくれ」
ぴしゃりと言われ、私は口をつぐんだ。
食い下がれば、機嫌を損ねかねない。
ただでさえ、昨日私は無理なお願いをしたばかりだ。
これ以上踏み込んで、追い返されでもしたら元も子もない。
「……わかりました。
ご飯、食べてくれてありがとうございます」
しかし、それ以上の返事はなかった。
私は盆を抱え、階段を降りる。
途中で一度、ルーカスの部屋を振り返った。
扉は閉じたまま。
ざわざわと、胸の奥に不安が立ち上っていく。
(大丈夫かな……)
それから、時間だけが過ぎていった。
食堂に並べた料理は、少しずつ冷めていく。
湯気は細くなり、やがて見えなくなった。
耳を澄ませても、二階からは何も聞こえてこなかった。
私は何度か廊下へ出て、階段の方まで行った。
そのたびに上階を見上げる。
けれど、「開けるな」という声が甦ってきて、そこから先へ進めない。
厨房へ戻っては、冷めかけたスープを温め直した。
水差しを用意し、パンを薄く切り、食器の位置を整える。
布巾でテーブルを拭き、床も時間をかけて雑巾がけした。
手を動かしていなければ、じっと階段を見つめてしまいそうだった。
(落ち着かない……)
そうしているうちに、正午を告げる鐘の音が聞こえた。
それを合図に、私はもう一度、ルーカスの寝室へ行くことにした。
二階へ昇り、朝と同じように扉を叩く。
「ルーカスさん。もう、お昼ですよ」
「起きている」
朝よりも明瞭な声が返ってきた。
「それなら、どうして降りて来ないんです?」
「面倒だからだ」
「せめて何か食べましょう。体に悪いです」
「もう体は手遅れだと言っただろう」
「でも! スープ作っちゃいました」
扉の向こうで、気怠げなため息が聞こえた。
それから、しばらく扉は開かなかった。
衣擦れの音に混じって、低く咳を押し殺す気配がする。
続いて、何かを整えるような小さな物音がした。
私は声をかけるべきか迷いながら、その場に立ち尽くしていた。
やがて、ようやく靴音が近づいてきた。
扉が開き、ルーカスが顔を覗かせた。
一つに束ねた黒髪は艶やかで、黒いシャツのボタンも首元まできっちり留められていた。
けれど、顎髭は少し乱れ、整えたはずの襟元もわずかにずれている。
ドアノブから手を離す指先も、かすかに震えていた。
私の視線に気づくと、ルーカスはそれを隠すように、すぐ手を背中へ回した。
師弟だった頃から変わらない。
誰にも弱みを見せたがらないのは、今日に始まったことではなかった。
ルーカスはいつものように感情を隠し、黄金色の瞳で私を見下ろした。
「君もなかなかしつこいね」




