第3話 男心を掴むには――1日目③
二年前まで、この屋敷はいつも人の気配で満ちていた。
休憩中の弟子たちが、パンを齧りながら課題に向かっていた。
階段を駆け下りる足音が響き、
庭からは魔術の練習で水が跳ねる音や、術式が弾ける破裂音が聞こえてくる。
その合間に、誰かの笑い声が混じることも珍しくなかった。
食堂では、使用人たちが食事の支度をしていた。
鍋をかき混ぜる音、食器の触れ合う音。
煮込み料理の匂いや、焼き立てのパンの香りが、廊下の奥まで流れてくることもあった。
ルーカスに助力を求める者も、毎日のように屋敷を訪れた。
暴走した結界の相談。
解読不能の呪詛。
王都の魔術師団から届く緊急の書簡。
私はそれを取り次ぎ、ときには追い返した。
相手が貴族や王族であることもあって、そのたびにひやひやしたものだ。
この屋敷には、いつも誰かの声があった。
研究室には弟子たちが集まり、
玄関先では、困り果てた依頼人がルーカス・キリフォードの名を口にする。
それが、日常だった。
それなのに。
今も筆頭魔術師である人の屋敷が、
こんなにも静かだなんて。
(……今さらだけど、とんでもないことになっちゃったな)
私は小さく息を吐く。
足元に置いた鞄から、分厚い契約書を取り出した。
膝の上に乗せると、表紙の硬さが指先に伝わる。
ページを捲ってみると、
婚姻の成立に必要な項目が、整然と並んでいた。
氏名、身分、契約期間、双方の権利と義務。
その先には、配偶者として魔力を相続するための条項まで記されている。
読み進めるうちに、自然と背筋が伸びた。
ルーカスがあの場で書き込んだ内容には、一字一句の乱れもない。
魔術で綴られた文字は、ひやりとするほど整っていた。
指先で文字を追いながら、ふと、目が止まる。
『《魔力承継条項》
ルーカス・キリフォードの死亡時、
その身に属する残存魔力はすべて、
正当なる配偶者ビビ・メラフィへ承継されるものとする。』
紙に触れていた指先に、力が入った。
この一文だけで、私はルーカスが四十年かけて高めてきた魔力を受け取ることになる。
(……重い)
生まれ持った才能だけではない。
持ち得る魔力を足場にして、制御し、鍛え、研究を重ね、
筆頭魔術師と呼ばれるほどまで高めてきた力だ。
そのすべてが、私に……。
胸の奥が苦しくなって、私はそっと契約書の端を押さえた。
(うまくいく可能性は低いけど)
七日以内に、ルーカスが私を妻に選ぶ理由を作る。
言葉にすれば簡単だけれど、現実には途方もない。
そもそも魔力を貸してほしいと縋って、断られて、杖すら握れないところを見られた。
そのうえ、契約書に飛びついた浅ましい姿まで知られてしまった。
(……こんなはずじゃなかったのに)
ルーカスからの手紙が届いたとき、本当は嬉しかったのだ。
あんな辞め方をしてしまったけれど、私は忘れられていなかったのだと。
事情を説明すれば、助けてくれるのではないかと期待した。
唇を引き結んで、私は小さく首を振る。
(いや、落ち込んでる場合じゃない)
ルーカスの退屈しのぎでも構わない。
妻として選んでもらえれば、まだ希望はあるのだ。
私は契約書をそっと閉じ、両手で表紙を押さえた。
それから、ゆっくり顔を上げる。
(見直してもらわなくちゃ)
そのまま視線を、厨房に続く扉に向けた。
(男心を掴むには、やっぱり料理よね)
契約書を鞄に戻す。
それから自分の頬を両手でパチンと叩いた。
(頑張るわよ、ビビ!)
◆ ◆ ◆
「ビビくん」
低い声が落ちてきて、はっと目を開けた。
ぼやけた視界の先に、ルーカスが立っている。
「はっ、寝てた!?」
慌てて体を起こす。
頬に、固い卓の感触が残っていた。
まだぼんやりする頭で周囲を見回すと、食堂の卓と椅子が目に入った。
ここは食堂だ。
どうやら、私は眠り込んでしまったらしい。
肩にかかっていた髪は乱れ、頬には跡がついている気がする。
急いで手の甲で頬を擦った。
窓の外は、すっかり暗い。
壁に掛かった時計を見ると、もう日が変わろうとしていた。
「ああっ!」
寝落ちしたのだと気づいた瞬間、血の気が引く。
しかも、声をかけてもらうまで気づかないなんて。
「これは食事か?」
ルーカスの手には、私がどうにか作ったシチューの皿がある。
「あっ」
あれから厨房に行って、慣れないながらも夕食を作ったのだ。
使っていい食材を探し、火加減に苦戦し、何度も味見をして、
どうにか皿に盛るところまではできた。
けれど、皿を運び終えたところで気が抜けた。
長い旅路の疲れもあって、少しだけ休むつもりで卓に突っ伏し、
そのまま眠り込んでしまったらしい。
シチューはすっかり冷めている。
湯気はとうに消え、表面には薄い膜が張っていた。
「……はい。何か食べて欲しくて。
食材は勝手に使いました。ごめんなさい」
ルーカスは皿へ視線を落とし、匙にも触れずに眉根を寄せる。
「休んでいろと言ったはずだが」
「そうですけど……」
「それに、食事くらい魔術でどうにでもなる」
「……手作りもいいと思いません?」
「昔から座学はできても、実技になると途端に雑になった君の手料理が?」
「……うっ!」
(たしかに野菜は不揃いだし、なんだかベチャベチャしているけど……!)
「実技で何度ボヤ騒ぎになったと思ってる」
「それは過去の話じゃないですか」
「この皿を見る限り、改善はしていなさそうだが」
「ちゃんと味見はしました!
……食べられます、多分」
ルーカスは、ゆっくりと私へ視線を戻した。
何か言いたげな目で見下ろされて、ますます居たたまれなくなる。
「男は手料理に弱いから落ちるだろう、などと安直に思っていないだろうね」
「えっ、弱くないんですか?」
「……聞いた俺が間抜けだった」
ルーカスはため息を吐く。
(まずい、呆れられてる)
「部屋に戻る」
ルーカスは短く言うと、手にしていた皿を盆へ置いた。
てっきり、そのまま残していくのだと思った。
けれど彼は、水差しと匙も並べる。
そして何事もなかったように、盆ごと持ち上げた。
「えっ、もしかして食べてくれるんです?」
「食材を無駄にするわけにはいかない」
「それなら、ここで一緒に……」
「具合が悪いから、横になりたいんだ。
……それとも、食べさせてくれるのか?」
「へ」
椅子に腰かけたルーカスへ、
私が匙を差し出す光景まで浮かんでしまい、頬が一気に熱くなる。
反射的に首を横に振りかけた。
けれど、私は唇を引き結び、喉元まで出かかった言葉をなんとか押し留める。
(ここで引いたら、初日から何の進展もない)
「それがお望みなら……」
すると、ルーカスは呆れたように肩をすくめた。
「結構だよ」
「あう」
「俺はこのまま寝る」
「はい……おやすみなさい、先生」
「呼び方」
「あっ。えっと、ルーカス……さん」
「よく休め」
ルーカスは私を見もせず、盆を手にしたまま食堂を出て行こうとする。
背筋はいつも通り伸びている。
けれど、扉へ向かう足取りには、隠しきれない重さがあった。
本当に、具合が悪いらしい。
けれど声をかける間もなく、
食堂の扉は静かに閉まった。
「……」
一日目が、呆気なく終わってしまった。
私は思わずテーブルに突っ伏す。
(まずい……全然、選んでくれそうにない)
むしろ、からかわれて、あしらわれて、間抜けな寝顔まで晒した。
初日の成果としては、かなり……だいぶ酷い。
自分の腕に顎を乗せ、ため息をつく。
(でも、私の作ったものは食べてくれそう……)
体が弱っているせいかもしれない。
あるいは、ただの気まぐれかもしれない。
それでも、食べるつもりがなければ、あの皿を持っていったりはしないはずだ。
私は顔を上げ、自分の胸の前で指を折る。
(あと六日……。……頑張らなきゃ)




