第2話 孤独な師匠――1日目②
私はルーカスに先導されるまま、応接室を出た。
布で包んだ杖と鞄を抱え直し、彼のあとを追って広間へ向かう。
弟子だった頃も、私はずっとこの屋敷で寝起きしていた。
だから廊下を歩いているだけで、見覚えのあるものばかりが目に入る。
壁に掛けられた古い肖像画。
磨き込まれた燭台。
深い色の絨毯。
ところどころに置かれた鉢植えや、飾り棚の硝子細工。
何もかもが、記憶の中にあるままだった。
それなのに、屋敷はひどく静まり返っている。
私がいた頃は、たくさんの弟子がこの屋敷で暮らしていた。
大きな屋敷ではあったが、どこかしらに人の気配があった。
それなのに今は、互いの靴音だけが廊下に大きく響いている。
「あの……先ほど屋敷には一人と仰っていましたが……
みんなはどこへ?」
先を歩くルーカスの背中に声をかける。
「君が出て行ったあと、使用人には暇を出し、
弟子どもは全員破門にした」
「えっ!?」
驚いて足を止めてしまった。
抱えていた荷物が、腕の中で少しずれる。
私が足を止めたことに気づいたのか、
ルーカスも立ち止まって振り返った。
「病気になってから、他人に魔術を教える気が失せた。
俺一人なら、使用人を置く必要もない」
「そうだったんですか……」
(二年前から、もう……)
私がこの屋敷を出て行ったあと、そんなことが起きていたなんて。
(もっと早く知りたかった)
そう思うと、喉の奥が詰まった。
「あの……どんなご病気なんですか……」
しかし、私の問いに、ルーカスは自嘲気味に笑うだけだった。
答えるつもりはない。
そう拒まれた気がして、私は目を逸らして俯いた。
それ以上、何も聞けないまま、再び彼のあとを歩く。
前を行くルーカスの背中は、以前よりも痩せて見えた。
長い廊下を進む足取りも、ほんのわずかに頼りない。
重い沈黙が落ちたまま廊下を進んでいくと、
やがて広間へ続く扉の前に着いた。
ルーカスが無言で扉を押し開ける。
蝶番がかすかに軋み、その向こうの空気が冷たく流れ込んできた。
「……」
思わず、息を呑んだ。
かつては来客を迎えるために整えられていた広間は、見る影もなく荒れていた。
絨毯はくすみ、床には封を切った手紙が散らばっている。
低い卓の上には、空の薬瓶がいくつも並んでいた。
ソファの上は物置のようになり、脱ぎ捨てられた外套や丸められた手袋が重なっている。
必要な場所だけを最低限使い、それ以外は使われないまま荒れているようだった。
応接間と廊下までは、まだ屋敷の体裁を保っていたというのに。
「広間に降りたのは、久しぶりだからな」
ルーカスは室内を一瞥し、何でもないことのように言った。
(たとえそうだとしても……ここまで放置しているなんて)
茫然と立ち尽くす私に構わず、ルーカスは鍵の束を差し出してきた。
それを持ち上げるだけの動作に、わずかな間があった。
鍵すら重たく感じるほど、体が弱っているのかもしれない。
「基本的なルールは、昔と変わらない。
屋敷の中は、自由に出入りしていい。
ただ、俺の研究室と書庫へ入るときには、必ず声をかけろ」
「はい」
金属の重みを手のひらに受け止めながら、私は頷く。
「弟子たちが残していったものは、勝手に使え」
「はい」
「君の部屋は、二年前と同じく残してある。
前と同じように使えばいい」
「はい……」
ルーカスは、そこでわずかに口を閉ざした。
その沈黙が妙に気になって、私は首を傾げる。
「なんですか?」
「弟子入り志願にやってきたときと、反応が同じだ」
「あのときは……緊張していたんです」
「今もしてるのか」
「……そりゃあ、そうです」
「十年も一緒だったのに」
その声が思いのほか低くて、ぎくりとした。
「それは、そうですけど……」
「……」
広間に落ちた沈黙が、急に重みを増した。
ルーカスの表情は変わらない。
ただ、その指先が、ほんのわずかに動いた。
(やっぱり、勝手に辞めたこと怒ってるのかな……)
何か言わなければと思った。
けれど、私が口を開くより先に、ルーカスが片手を上げる。
「俺は地下の研究室に戻る。君は休んでいろ」
(えっ)
「いえ! 研究なら、私も一緒に」
ルーカスは眉を顰め、私へ視線を向けた。
それだけで、身が竦む。
私は布に包まれた杖を撫でながら、作り笑いを浮かべた。
「だって以前は、ずっと一緒に研究をしていましたし……」
「研究を手伝ったくらいで、俺は落とせないぞ」
息が詰まった。
「そういうつもりじゃ……。
ただ、先生のお手伝いをしたかっただけで」
すると、ルーカスは腕を組み、短く息を吐いた。
(あれ、なんで不機嫌?)
「その先生っていうのは、ナシだ。
君と俺は、もう師弟ではないからな」
「うっ。それじゃあ、なんとお呼びすれば」
「任せる」
ルーカスは軽く言い放つと、私に背を向けて
廊下へ続く扉に手をかけた。
(まずい……! これじゃ、進展がないまま終わる!)
ここで一人にされたら、私はただ広い屋敷に放り込まれただけだ。
七日しかないというのに、初日から何もできずに過ごすことになる。
「じゃあ、せめて掃除しておきます!
私物に触ってしまいますけど、いいですか?」
「……」
ルーカスが、一瞬横目で私を見る。
そのまま、指をパチリと鳴らした。
すると、魔力を帯びた風が広間に巻き上がった。
くすんでいた絨毯が見る間に整い、散らばっていた書類や衣服が舞い上がる。
それらは迷うことなく、然るべき場所へ収まっていった。
曇っていた窓硝子がすっと澄み、
閉ざされていた広間に淡い光が差した。
呆気にとられて、私は目を瞬く。
「筆頭の俺が、この程度も出来ないと思ったか」
「それは……」
「一応言っておくが、掃除も食事も必要ない。
俺はそんな単純なことじゃ、なびかん」
「ぐっ……」
「それに君が勝手に触れば、
また値打ちのあるものまで、壊しそうだ」
「いつまで根に持ってるんですか! そんな昔の話……」
「信用ならん。――それじゃ」
そう言って背を向けたルーカスの指先が、一瞬だけ壁を探すように動く。
けれど私が瞬きをしたときには、もう何事もなかったように広間から出て行った。
扉が閉まる。
一人残された途端、張りつめていたものが切れた。
冷や汗が背中を伝い、私はそのまま膝をつく。
(……どうしよう。全然近づける気がしない)
さすがは、国家魔術師団の筆頭だ。
ほんの一瞬、指を鳴らしただけで、
部屋の様子が丸ごと変わってしまった。
未だに魔力の残滓が足元に漂っていて、靴越しでも足の裏がひりつく。
久しぶりに見た本物の魔術に、胸の奥が熱くなる。
魔術師として扱われなくなってから、
こんな近くで魔術の流れを見ることすら久しぶりだった。
私はルーカスの真似をして、指を鳴らしてみた。
パチリ。
当然だが、何も起こらない。
埃ひとつ動かない。
自分の指先だけが、虚しく空を切った。
まざまざと、自分が魔術師ではなくなってしまったことを
突きつけられた気がして、胸が痛む。
私は光沢を取り戻したソファに腰を掛けて、
室内をゆっくり見回し、ため息をついた。
(なんて静か……)




