第10話(前編)不穏な朝――4日目①
まだ明け方の寒さを色濃く残す屋敷。
私は上着のボタンを留めながら、一階へと続く階段を降りていった。
(今日で四日目……)
手元でそっと指を折る。
(全然、うまくいっている気がしない)
ただ、冷静に考えれば当然のことかもしれない。
ルーカスに好意を抱く女性は数多く見てきたが、
これまで彼の浮いた話など一度も耳にしたことがない。
(もしかして、からかわれてる?)
理由も告げずに、勝手に出て行った私への当てつけなのか。
そこまで考えて、すぐに頭を振った。
少なくとも、私の知るルーカスは、そんな陰険な真似をする人ではない。
(本当に、ただの退屈しのぎなんだろうな)
広間の扉に手をかけようとした瞬間、二階から微かな足音が響いてきた。
振り仰ぐと、ちょうど階段を降りて来るルーカスの姿が目に入る。
彼は額に手を当てて顔を顰めていたが、私と目が合った途端、滑るようにその手を下ろした。
昨夜は研究室から引きこもったきりで、夕食の席も別々だった。
目の下に刻まれた隈は一段と色濃くなっているように見える。
「ルーカスさん、おはようございます。ご体調は……」
「……良くはない」
短い返答を残し、私の前を通り過ぎていく。
そのまま彼は先に扉を開けて広間に入ると、
ソファに深く腰をかけ、ぐったりと背もたれに身を預けた。
しかし、再び手が額へと伸びる。
今度は私から隠そうともせず、痛みに耐えるように固く目を閉じていた。
激しい頭痛に襲われているのかもしれない。
声をかけることすら躊躇われる沈黙。
よく観察すれば、髪留めも昨日と同じものだった。
毎日、衣服に合わせて種類を変えていたはずだ。
ふと視線を落とすと、ルーカスの黒いシャツの袖口から、
ほつれた糸が一本、力なく垂れ下がっていた。
本人は気づいているはずなのに、魔術で直そうとする気配はない。
かつての彼なら、指先一つで片付けていたというのに。
その気力さえ、もう残されていないのかもしれない。
それなのに、服の襟元だけは、自身の衰えを隠すようにきっちりと閉じられている。
「あの……手縫いで良ければ、私が袖を直しておきますよ」
「必要ない。もう着ることはないからな」
気だるげに前髪をかき上げながら呟かれたその言葉に、私は息を呑んだ。
ルーカスは胸ポケットから、頼りなげな手つきで小さな硝子瓶を取り出す。
それは、研究室で調合されていた、あの青い補助薬だった。
(あ……)
ルーカスは蓋を開けると、そのまま一気に煽った。
喉を鳴らして中身を飲み干し、空になった小瓶をテーブルに置く。
その手つきにも、隠しきれない重苦しさが滲んでいた。
「……朝食は要らない。無理に口にすれば、戻してしまいそうだ」
「わかりました」
本当は、何か少しでも栄養になるものを食べてほしかった。
けれど、それを強いるのは、ただ苦痛を長引かせるだけだと分かってしまう。
ルーカスは再びゆっくりと腰を上げ、広間から出て行こうとする。
「どちらへ?」
「……寝ていても、死ぬのを待つだけだ」
(まさか仕事へ?)
私は咄嗟に駆け寄り、ルーカスの行く手を遮るようにして立ちはだかった。
「なんだ」
「やめてください、そんな体で根を詰めたら、本当に持ちません」
「俺がその気になる前に死なれると困るか」
「そういう意味じゃありません!」
自分でも、驚くほど大きな声が出た。
ルーカスの身体が一瞬だけ、気圧されたように揺らぐ。
「どいてもらおう」
「いやです」
「……」
不機嫌そうに腰に手を当てるルーカスを前に、ぎくりとする。
けれど、退くつもりはない。
「休むのも仕事のうちです!」
「……あのな」
「どうしてもお仕事をなさるのでしたら、私に魔術学を教えてください」
「なに?」
「人に教えることで知識はより深まるんですよね?
研究室で無理に身体を酷使するより、そのほうがずっと建設的です」
「……」
「全部、ルーカスさんが言っていたことですよ!」
自分でも、支離滅裂な屁理屈を並べている自覚はある。
けれど、この場に引き止める手段が、これしか思い浮かばなかった。
ルーカスは口を閉ざしていたが、やがて諦めたように、
「……書庫へ行くぞ」
その呟きに、私はほっとして体の力が抜けた。
ルーカスは扉を開けると、研究室の前を素通りし、奥へと続く長い廊下を歩き出していた。
「あっ。ありがとうございます!
あの、部屋から手帳とペンを持ってきます!」
「……手早くな」
「はいっ!」
足を止めるルーカスに返事をしながら、私は階段を駆け上がっていった。




