第10話(後編)師の微笑み――4日目①
書庫は、屋敷の北側にあった。
ルーカスが重厚な木製の扉を押し開けると、
高い天井に届くほどの巨大な本棚が、壁一面を隙間なく埋め尽くしている光景が広がる。
棚には革装丁の魔術書がぎっしりと並び、上段の書物を手にするには、備え付けの長い梯子を登らなければ届かない。
細く切り取られた窓からの朝光はどこまでも控えめだったが、
それでも空間が暗く沈むことはなかった。
磨き抜かれた木の床には、金色の光条が細くまっすぐに落ちている。
使い込まれた机の上には、真鍮製の読書灯と、古びた栞、
そして書きかけの目録が置かれていた。
ここも、何一つ変わっていない。
課題に必要な文献を探す名目でここへ籠もり、関係のない古書まで読み耽っていたものだ。
気づけば完全に日が暮れていて、灯りを手に現れたルーカスに呆れられたことも一度や二度ではない。
ルーカスは棚の前に佇むと、静かにこちらを振り返った。
「それで。何が知りたいんだ」
「……ええっと。最近は、地方術式の系統差に興味があって」
「定義が曖昧だ。もっと具体的に」
「すみません。メリオールで見た補助術式なんですが、
詠唱語と方陣の組み方が王都式とかなり違っていたんです。
あれが旧魔術の名残なのか、土地に根づいた独自変化なのか知りたくて」
ルーカスは思考を巡らせるように顎へ手を当てると、慣れた手つきで書籍を一冊一冊引き抜き始めた。
途中でふと指を止め、少し首を傾げては、その隣にある別の本を引き抜いていく。
恐らく、私が理解しやすい専門書を、的確に選んでくれているのだろう。
だが、棚の上段へ手を伸ばした瞬間、わずかに眉間が寄った。
すぐに何事もなかったような顔に戻ったが、腕を下ろす動作はいつもより遅い。
整った横顔。
熱を帯びた真剣な眼差し。
じっと見入ってしまいそうになり、慌てて我に返る。
彼が片手で重そうな数冊の魔術書を抱えているのに気づき、私は急いで近寄った。
「私が持ちます」
「これくらいなんともない」
ルーカスは淡々と拒むと、背を向けて中央の机へと戻っていった。
本を置くと同時に椅子を引き、私を促す。
私もすぐ隣の席に腰を下ろし、手帳とペンを机に置いて、背筋をピンと伸ばした。
「まず、君がメリオールで見たというのは、旧魔術系統の補助術式だろう」
ルーカスはそう呟きながら、重ねられた本の一番上に手を伸ばした。
迷いのない手つきで頁を捲り、図解の載っている箇所を探し当てると、指先でその一部を示す。
「わっ、さすがです」
「メリオール一帯では、古い祈祷文が術式に混じって残っている。
魔術としては洗練されていないが、土地に馴染んでいるぶん、発動は安定する」
ルーカスの声は掠れていたが、その解説は明瞭だった。
ときおり息継ぎが浅くなる。
それでも、説明の筋道だけは少しも乱れなかった。
言葉の選び方も、例えの挟み方も、すべてが私の理解の速度に合わせて整えられている。
頁を捲る指先の音が、静寂に包まれた書庫に小さく響く。
細い窓の隙間から滑り込んできた風が、古紙の匂いを孕んで頬を撫でていった。
読書灯の淡い光と、壁に伸びる本棚の深い影。
その懐かしい空気の中で、ルーカスの声が、昔と変わらない響きで私の耳へ落ちてくる。
ただ、純粋に心地よかった。
疑問点を尋ねれば、すぐに端的な答えが返ってくる。
私が食い下がれば、決して突き放さず、最後まで根気よく付き合ってくれる。
契約のことも、ルーカスの命のことも、いつの間にか脳裏から消え去っていた。
どれほどの時間が流れただろうか。
「ありがとうございます。よく分かりました。
話していただいた内容は、あとで整理して、後日提出を……」
ペンを握ったまま、そこまで口にして、私はようやく現実に引き戻された。
目の前のルーカスは、どこか皮肉げに目を細めている。
「……すみません。つい」
ルーカスはそれには応じず、手元に置かれていた古書の頁を撫でた。
視線は開かれた本に落とされているものの、すでに文字を追っている風ではなかった。
それからようやく、躊躇うように低い声を零した。
「この二年間、どこにいたんだ」
不意に投げかけられた問いに、私はぴたりと硬直する。
「メリオールは、ここから遠い。
ただ立ち寄るには、少し外れた土地だ。……何を探していた」
「……あ」
ルーカスは頁に視線を据えたまま言葉を重ねた。
そこに、私を責めるような刺々しさはなかった。
「なんとか、病気で傷ついた魔力核を治せないかと思って……。
だから、使えそうな手段をずっと探していました。
医師にも、薬師にも、地方の祈祷師にも会いました。
それこそ、土地に残る古い伝承に縋ったこともあります。でも……」
ルーカスはただ、黙って私の告白に耳を傾けている。
「……だめでした」
私は自分の髪を所在なげに梳く。
「仕事は?」
「魔術師としてはやっていけなかったので、
写本屋で帳簿の手伝いをしたり、地方の小さな診療所で薬棚の整理をさせてもらったり……」
どこでも親切にしてもらった。
仕事を与えられ、食事をもらい、眠る場所もあった。
それでも、二十六年間、魔術師として生きてきた私にとって、
どこに行っても、自分の居場所と呼べる場所は見つからなかった。
写本台に向かっていても、薬棚の前に立っていても、ふとした瞬間に、杖を探してしまう。
術式を目にすれば、頭の中で構造が組み上がる。
けれど、それを自分の手で発動することはできない。
どこに身を置いても、私は私ではないようだった。
色のない幕を一枚隔てて、他人の生活を借りているような心地がした。
「苦労したな」
ルーカスの短い呟きに、かっと目元の奥が熱くなった。
私はわずかに滲んだ涙を悟られないよう、指先で拭う。
「でも、楽しいこともありましたよ! ほら、見てください。これ」
感傷を振り払うように、私は手元の手帳の頁を捲った。
「一緒に仕事をしていた方から、教えてもらった術式なんです。
正式な魔術方陣ではないんですけど、とても興味深くて」
私は早口で説明しながら、手帳の余白にペンを走らせていく。
「これ、その一族だけに伝わる術式なんだそうです。
面白いと思いませんか? 陣が欠けているのに、問題なく発動するんですよ」
手帳を覗き込んだルーカスの目元が、ふっと柔らかく緩んだ。
「ほう、興味深いな」
「あとですね――」
私はさらに嬉々として頁を捲っていく。
手帳には、この二年間で書き溜めてきた、泥臭い旅の記録が並んでいた。
土地ごとに異なる詠唱語。
診療所の片隅に貼られていた古い護符。
農具小屋の古びた梁に刻まれた、魔除けに酷似した簡易術式。
私の魔力はもう、思うように動かせない。
それでも、術式を「読む」ことだけはできた。
これは何を起点にして構築されているのか。
どの文字が発動の核を担っているのか。
どこが省略され、どこに土地の癖が残っているのか。
孤独な夜の時間、私はそんなことばかり考えていた。
もう使えないのに。
二度と発動できないのに。
それでも、魔術に触れる瞬間があるだけで、私は辛うじて息ができた。
ルーカスは、私の言葉を遮ることなく、じっと最後まで聴いてくれた。
私が説明に詰まりかけると、ときおり手元の本から引用し、より正確な言葉で思考を言語化してくれる。
わずかに開いた窓の隙間から、穏やかな風が流れ込んできて、ぱらぱらと本の頁が揺れた。
「ビビくん」
「はい、なんでしょう」
顔を上げると、ルーカスは私ではなく、開かれた手帳の文字を追っていた。
余白まで埋まった文字の並びを、彼はしばらく黙って見つめ、やがて、静かに言った。
「君は魔力を失ったかもしれないが、
積み上げてきた知識は、君を裏切ることはない」
胸を突かれ、一瞬、息をすることすら忘れた。
ルーカスは、ふっと微笑む。
「頑張ったな」
その笑みは驚くほど柔らかく、優しげだった。
私は動揺を悟られないよう、手元の本を引き寄せて抱え直した。
自分の頬が、急速に熱を持って火照っていくのが分かる。
心臓が強く脈打っていた。
黄金色の瞳を直視することができない。
私はただ、また大好きな魔術の話ができて嬉しいだけ。
昔みたいに、ルーカスの隣で本を読める時間が楽しいだけだ。
(それだけのはず)
そう、自分に言い聞かせた。




