第11話 黄金色の熱――4日目②
柱時計が、夕刻を告げる。
書庫に響き渡るその音を合図に、ルーカスは開いていた魔術書を静かに閉じた。
「そろそろ戻ろう」
「はい。……ありがとうございました」
そう答えたものの、どうしてもその場から動き出す気になれない。
この穏やかな時間が終わってしまうのが惜しくて、机の上の手帳とペンを未練がましく指先でなぞってしまう。
そんな私の子供じみた様子を、ルーカスは横目でちらりと一瞥した。
それから、自分が閉じたばかりの重たい本へ視線を落とすと、素っ気なく言葉を添える。
「この本は持ち帰ってもいい」
「えっ」
耳を疑った。
ルーカスは、蔵書に対して人一倍の愛着を持っていたはずだ。
たとえ弟子相手でも、書庫から本を持ち出すことなど絶対に認めなかった。
「いえ、そんな。大事なものじゃないですか」
恐縮して首を振る私に、しかし彼は、どこか自嘲を孕んだ笑みを薄く浮かべてみせた。
「来週には、どうせここは空になる。各地の研究施設や図書館に回す手筈になっているからな」
言葉を失った。
ルーカスが蒐集してきた知識の数々が、
知らない場所へ散り散りになってしまうというのか。
四十年の歴史が詰まっていたはずなのに。
けれど、当の本人は大した感傷も見せずに、わずかに身体を傾けながら椅子から立ち上がった。
その淡々とした後ろ姿に、なんと声をかけたらいいのかすら分からない。
すると、ルーカスはふと動きを止め、こちらを振り返った。
わざと何でもない話をするように、私をからかうような口調で、
「今夜の食事はなんだ?」
その問いが、沈んだ空気を変えるためのものだと分かって、少しだけ救われた気がした。
「豆と野菜を煮たやつです!」
「また煮込み料理か」
◆ ◆ ◆
書庫を出ると、私はそのまま厨房へ向かった。
豆は昨夜のうちから水に浸してあったし、野菜もすでに刻んである。
あとは鍋に入れて、じっくり煮込むだけだった。
それなのに、ほんの少し火加減を誤っただけで、鍋の底から焦げた匂いが漂いはじめた。
慌てて火を弱め、香草を足して匂いを誤魔化す。
どうにか皿に盛りつけ、盆にのせて食堂へ運んだ。
ルーカスはすでに椅子に腰かけていた。
湯気の立つ皿を前に、ただ一度だけ中身へ視線を落とす。
焦げた匂いを誤魔化すために香草を足しすぎたことにも、
豆が煮崩れてしまったことにも、気づいていないはずがない。
ルーカスは一口食べると、案の定、静かに匙を止めた。
「……香草が多い」
「すみません……」
「また焦がしたな」
「……はい」
けれど、責めるような口ぶりではなかった。
そのあとは匙の持ち方だの、盛りつけの雑さだの、いつものような小言を少し並べるだけで、最後には皿を空にした。
食堂をあとにした彼の足取りを見送り、私は胸を撫で下ろす。
(食欲が戻って良かった)
それから厨房に戻り、焦がしてしまった鍋底と格闘しているうちに、
思っていた以上に時間が過ぎてしまった。
ようやくすべての皿洗いを済ませ、私はエプロンを丁寧に畳む。
ひんやりとした廊下を抜け、広間へと繋がる扉をそっと開けた。
広間には、まだ灯りが残っている。
低いテーブルの上には、読みかけの本が伏せられたままになっていた。
その傍らで、ソファの肘掛けから掛布が半分ほどずり落ちている。
嫌な予感がして、視線をそちらへ向けた。
すると、ソファの上に横たわっているルーカスが、目に飛び込んでくる。
長い脚を投げ出し、肘掛けに首を深く預けた姿勢のまま、完全に力を失っていた。
「ルーカスさん?」
ドクッと心臓が跳ね、私は慌てて駆け寄った。
膝をつき、恐る恐るその顔を覗き込む。
いつもならこちらを冷たく見下ろす黄金色の瞳は閉じられ、薄い唇も力なく結ばれたままだ。
額にかかる黒髪の隙間から覗く肌は、驚くほど血の気が引いていた。
それでも、深く眠り込んでいるだけのようだ。
(なんだ……良かった)
安堵が広がる一方で、まったく警戒のないその姿に心が痛んだ。
いつも隙のないルーカスが、こんな風に無防備に眠り込んでいるところを見るのは初めてのことだ。
(やっぱり、無理してるんだな……)
夜の広間は肌寒い。
寝冷えをさせては大変だと、肩を揺り起こそうと手を伸ばす。
けれど、触れる直前で思いとどまった。
そのまま近くにあった厚手の掛布を取り、音を立てないように広げて、そっと上から被せる。
けれど、私はその場から離れる気になれなかった。
ソファのすぐ近くの床に腰を下ろし、落ち着かないまま、テーブルの上に重ねていた魔術書に手を伸ばす。
譲り受けた書物の一冊を膝にのせ、静かに頁を開いた。
ひっそりとした夜だ。
背後からは、穏やかな寝息だけが聞こえてくる。
視線は紙面を追っているものの、内容はほとんど頭に入ってこない。
同じ行ばかりを繰り返し読んでいることに気づき、自分に呆れて苦笑する。
傍らに置いた手帳とそれを入れ替え、ぱらりと頁を捲る。
余白に、ルーカスの自筆が残っていた。
何気ない注釈のひとつひとつを、指先でそっとなぞる。
昼間、書庫で見せた柔らかな笑みが脳裏をよぎり、自然と口元が緩む。
規則的な寝息は、途切れることなく背後にあった。
たったそれだけのことに、身体から少しずつ力が抜けていく。
熱心に机へ向かっている体を装いながら、
その実、私は神経のすべてをルーカスに集中させていた。
けれど。
(……もう四日目が終わる)
頁を捲る指が止まった。
(本当に、死んでしまうの?)
あと数日で、この人がいなくなる。
そう自覚した瞬間、胸の奥が痛烈に締め付けられた。
耐えきれなくなり、私は上体をひねって振り返る。
ソファの上で眠るルーカスの顔を、今度は吸い込まれるように、じっと至近距離で覗き込んだ。
温度を失くしたような、青白い頬。
長い睫毛に縁取られた、微動だにしない瞼。
額にうっすらと流れる、乱れた黒髪。
こんなに近くで、ルーカスの顔を見たことがあっただろうか。
厳しい声も、皮肉を含んだ眼差しも、今はどこにもない。
ただ眠っているだけのその顔は、ひどく静かで、驚くほど綺麗だった。
その横顔を見つめていると、妙に鼓動が早くなる。
ほんの一瞬、見惚れてしまった。
けれど、頬に残る血の気の薄さに気づいた途端、その浮ついた感覚はまた不安に塗り替えられた。
分かっている。
ただ眠っているだけだ。
ちゃんと息をしている。
それなのに、その存在を確かめずにはいられなかった。
目元にかかる髪をそっと払ってあげようと、指先を伸ばす――。
その時、ルーカスが小さく、呻き声を漏らした。
ぎくりとして、指を引っ込めると同時に息を止める。
伏せられていた長い睫毛が震え、重たげに瞼が持ち上がった。
ひらいたばかりの焦点の定まらない黄金色の瞳が、虚空を彷徨う。
しかし、自分がいつの間にか広間で深く寝入ってしまっていた事実に気がついた瞬間、その瞳に鋭い光が戻った。
真横にいた私と視線がぶつかる。
彼はぎょっとしたように目を見開くと、弾かれたように身を起こした。
そして、すぐにその手が自身の襟元へと伸びる。
(こんなときでも、身なりに気を使うなんて)
「いつからいた」
低く掠れた声で問い詰められ、私は壁に掛かった時計へ目を向けた。
「三十分ほど前です」
「……」
ルーカスは、私の顔をまじまじと見つめてくる。
こちらの反応を探るように、張り詰めた沈黙が落ちた。
けれど、私がいつもと変わらない様子だと分かると、ルーカスは張り詰めていた身体を弛め、深く溜息を吐き出した。
襟元を正しながら、乱れた黒髪を手櫛で手早く梳き整えていく。
「君はここで何をしていた」
「ルーカスさんがソファから落ちないか見張ってたんです」
精一杯の冗談を口にすると、ルーカスは手元にある掛布を引き寄せ、きつく握りしめた。
「眠るのでしたら、寝室に行かれたほうが良いかと」
「……ああ」
広間の明かりの下、再び静けさが満ちていく。
「無様な姿を晒した」
「そんなことは」
こちらの言葉には応じず、ルーカスは立ち上がろうとした。
しかし、その足元はひどくおぼつかない。
思い通りに動かない身体を忌々しく思ったのか、彼は自身の足の付け根を拳で軽く叩いた。
「誰だって、うたた寝くらいあります。体調が悪いのでしたら、余計です」
「気が緩んでいる証拠だ」
消え入りそうな声で呟くルーカスが、たまらなく痛々しい。
どれほど弱っていても、最後まで筆頭であり続けようとするその姿勢に胸が詰まる。
けれど、一歩を踏み出そうとしたルーカスが、
不意に目眩に襲われたように、ぐらりと大きくよろめいた。
「ルーカスさん」
反射的に立ち上がると、私は咄嗟にその背中を支えていた。
シャツ越しに、驚くほど痩せ細ってしまった身体と、確かな体温が手のひらへ直に伝わってくる。
触れたルーカスの身体が、硬く強張った。
息を呑み、躊躇うようこちらを振り返る。
あまりにも、息が触れ合うほどに、近い距離だった。
室内の灯りが、その黄金色の瞳を淡く照らしている。
ルーカスは、息を詰めたまま私を見つめていた。
いつも彼を包んでいる冷ややかな余裕が、そこにはなかった。
ただ、何かを堪えるような熱が、その奥でかすかに揺れている。
彼の喉が小さく上下した。
私も、呼吸の仕方を忘れたように動けなくなる。
何かを訴えかけるようでいて、声にはならない。
その沈黙が長引くほど、支えているはずの手のひらへ、彼の体温がじりじりと焼きついていくようだった。
やがて、耐えかねたようにルーカスがふいと顔を背ける。
「休む」
それだけを低く残し、そのまま広間から出て行ってしまった。
扉が静かに閉まったあとも、私はしばらく呼吸を整えられなかった。
あの熱を帯びた眼差しに捉えられた感覚が、いつまでも肌に残って消えなかった。




