第12話 君の価値は、俺が決めた。――4日目③
私室に戻ってきたものの、妙に目が冴え、一向に眠気が訪れる気配はなかった。
瞼を閉じるたび、ルーカスの姿が浮かび上がる。
ソファで横たわる、青白い横顔。
均衡を失いかけた、頼りない足取り。
それでも何事もないかのように、普段通りを装った声音。
思い返す度に、胸がきゅっと苦しくなった。
私は床へひたりと素足を下ろし、部屋の隅に置いたままだった鞄を引き寄せる。
中から分厚い婚姻契約書を取り出し、影の濃い室内で、ぱらぱらと頁を捲った。
『《魔力承継条項》
ルーカス・キリフォードの死亡時、
その身に属する残存魔力はすべて、
正当なる配偶者ビビ・メラフィへ承継されるものとする。』
その下にも細かな注記が羅列されていた。
署名前の訂正や抹消に関する厳格な事項まで、整った文字で書き込まれている。
けれど、今の私には、それを読み返す気力などなかった。
――死亡時。
嫌なものを、読んでしまった。
私は顔を背け、乱暴に契約書を閉じた。
強引に鞄の奥へ押し戻し、再びベッドへ潜り込む。
枕に顔を埋め、身体を丸めながら、朝になるのをひたすら待った。
けれど、時計の進みは鈍い。
ため息を吐きながら、ごろりと寝返りを打つ。
その拍子に、壁際へ立てかけていた私の杖が視界の隅に映った。
(……大丈夫かな、先生)
はっきりとした胸騒ぎが、よぎった。
もう一度、身を起こす。
上着を肩に掛け、物音を立てないよう足音を忍ばせ、そっと部屋を出た。
静寂に包まれた廊下は、どっぷりと闇に沈んでいる。
窓から差し込む心細い月明かりだけを頼りに、
壁を伝ってすり足で進み、ルーカスの寝室へと向かった。
しかし、いざ扉の前まで辿り着くと、急に足が動かなくなった。
こんな真夜中に訪ねて、私は一体何をするつもりなのだろう。
ルーカスは、すでに眠りについているはずだ。
ただでさえ体調を崩しているのだから、貴重な睡眠を妨げてはいけない。
そう思うのに、広間を去っていった後ろ姿がどうしても脳裏から離れなかった。
あの時、私は本当に見送るだけで良かったのだろうか。
私は扉に手のひらを押し当て、息を殺して耳を澄ませた。
何の物音も聞こえない。
――寝息すら。
(言い訳は、あとで考えよう)
「ルーカスさん」
決心して、控えめに扉を叩く。
「体調は大丈夫ですか」
返ってくる言葉はない。
今度はもう少し力を込めて叩こうと、指を握り直した、その時だった。
扉の向こう側から、押し殺した咳のあと、何かが喉を逆流するような不穏な音がした。
それを聞いた瞬間、躊躇いや迷いも、すべて吹き飛んだ。
「どうしました!?」
私は勢いよく扉を押し開けた。
室内へ踏み入れかけたところで、私はその場で凍りついた。
寝室は、ひどく荒れていた。
暗く重たいカーテンが月明かりさえ拒むように閉ざされ、椅子は無残に横倒しになっている。
テーブルは斜めに押しやられていた。
絨毯の上には、あの青い補助薬の空き瓶が大量に転がっている。
その数に、背筋が冷えた。
部屋の奥では、ベッドの上でルーカスが身を折り曲げ、苦しげに咳を繰り返していた。
どんな時であれ、身なりを崩さなかった彼の黒髪が、
今はほどけ、白い肩に乱れてかかっていた。
髪先は汗に濡れて肌に張り付き、衣服は胸元まで大きくはだけている。
普段の彼であれば、決して他者に見せることのない、剥き出しの姿だった。
見てはいけないものを覗いてしまった気がした。
それどころではないと頭では分かっているのに、
ほんの一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまうほど、動揺した。
しかし、口元を押さえた指の間から、何かが伝い落ちる。
灯りの乏しい部屋の中で、それだけが赤く浮いて見えた。
血だ、と気づいた瞬間、頭の芯が痺れた。
ルーカスは自分の口元から手を離す。
赤く汚れた自らの手のひらを、茫然とした様子で見つめた。
そこでようやく、現実に引き戻された。
「大変……!」
ほとんど無意識に、彼の枕元へ駆け寄った。
その足音でようやく私の侵入に気づいたのか、ルーカスの目が、はっきりと見開かれた。
額に垂れ下がった髪の隙間から、鋭い視線がこちらを射抜く。
「寝室には入るなと、忠告したはずだ」
その声音は、ひどく掠れていた。
「そんなこと言ってる場合ですか! とりあえず着替えましょう!」
服もシーツも、血でべったりと汚れている。
私は半ばパニックになりながら、彼の衣服に手を掛けた。
「触るな!」
凄まじい剣幕で拒まれた。
その声に、私は反射的に手を引っ込めた。
私が動けずにいる間にも、ルーカスは喉を裂くように咳き込んだ。
溢れ出た血が、青白い唇の端を濡らしていく。
「な……何でですか……。それくらい、させてくださいよ」
私の声は、情けないほど震えていた。
しかし、彼は手の甲で乱暴に口元を拭うと、冷えた声で言い切る。
「必要ない」
ぎゅっと、行き場を失った指先を握りしめた。
必要ないはずがない。
こんなに苦しんでいるのに。
息をするのも辛そうなのに。
私は、そんなにも拒絶される存在なのか。
「俺の機嫌を取りたいなら、言うことを聞け」
「……そんな」
反論の言葉が、喉の奥でつかえる。
だが――。
そこで、私は見てしまった。
「あ……」
咳き込みによって乱れ、垂れ下がった黒髪の隙間。
汗ばんだ首筋の皮膚を侵す、黒く歪んだ痣。
視界がぐらりと歪む。
忘れられるはずがなかった。
かつて私の身体を蝕んだものと同じ――蜘蛛の痣だ。
気づけば、一歩、退いていた。
私の動揺に気づいたルーカスが、横目でこちらを捉えた。
心臓が、強く跳ねる。
「それ、私と同じ呪いですよね……」
ルーカスは私から視線を逸らさないまま、自らの首元を覆い隠すように長い指を当てた。
その手に、ぎり、と力が込められる。
隠そうとするその仕草が、かえって私の視線を釘付けにした。
指の隙間から覗いた、黒く歪んだ輪郭。
蜘蛛の足のように、皮膚の下へ潜るように、細く枝分かれしていく黒線。
見間違えるはずがなかった。
何度、鏡の中でこの痣を見つめ、絶望したことか。
それが、どうして――ルーカスの首筋に根を張っているのか。
「……いつから、ですか」
問いかけた自分の声には、力がなかった。
ルーカスは沈黙を貫いたまま答えない。
ただ、その黄金色の瞳だけが、薄闇の中でこちらを見据えている。
病だと言っていた。
余命はあと七日だと、まるで他人事のように告げていた。
――『理由も分からないまま、命を削るとまで宣告された呪いの進行は治まった。』
ただの奇跡ではなかったのか。
「まさか……」
唇が、勝手に動いた。
いや、違う。
そんなこと、あるはずがない。
だって私は、頼んでいない。
一度も願ったことなどない。
身代わりになってほしいだなんて。
「……まさか私の呪いを、肩代わりしたんですか」
ルーカスは否定しない。
ただ、黄金色の瞳をすっと細めた。
その沈黙だけで、すべて察した。
声にならない悲鳴が、喉の奥で膨れ上がっていく。
「君が知る必要はなかった」
ひどく淡々とした声音で、何の感情も読み取れない。
何か、何か言葉を返さなければ。
そう思うのに、舌の根が縫い付けられたように動かない。
嫌な汗が頭皮から滲み、こめかみを伝って頬へ滑り落ちる。
気を抜けば、その場に膝をついてしまいそうだった。
(なら、先生が死ぬのは……私のせい?)
罪悪感などという言葉では、到底足りない。
身体ごと圧し潰されそうだ。
それなのに、彼はベッドに腰を下ろしたまま、身じろぎひとつしない。
落ちた灯りの下で、じっと私を見つめていた。
咎める様子も、感情を乱すこともない。
ただ、私の反応を冷静に見つめ、黙り込んでいる。
それが、あまりにも恐ろしかった。
「わっ……私は、そこまでしてもらう価値なんてないです!」
悲鳴のように言い切った瞬間、その眼差しが、わずかに伏せられた。
彼は短く、冷ややかに息を吐く。
血に濡れた指先が、乱れた前髪をゆっくりとかき上げる。
その動作だけで、首筋が再び露わになった。
黒い蜘蛛の痣が、薄闇の中で歪に浮かび上がる。
もう、隠そうともしない。
ルーカスの呼吸はいまだ荒かったが、
ベッドの上で片膝を立て、そこに片腕を預ける。
けれど、こちらに向けられる視線だけは、微塵も揺らがなかった。
「君の価値は、俺が決めた」
ひゅっと、私の喉から情けない声が漏れた。
「そんな……」
「それで? どうするつもりだ」
「え……」
苦痛を堪えているのは明らかなのに、表情には出さない。
ただ淡々と、逃げ道を塞ぐように言葉を重ねていく。
「出ていくか? それとも、まだ残って続けるか?」
「続ける……って」
彼はそこで一度、苦しげに息を吸い込んだ。
喉の奥で血の絡むような音がして、眉根を寄せる。
「出ていくのは勝手だ。
だが、その時点でこの取り引きは終わりだぞ」
ルーカスは片膝を立てたまま背筋だけを正すと、
まっすぐ私から視線を外さず、言い切る。
「このまま終えるというのなら、俺は婚姻契約書に署名しない。
君は、俺の魔力を相続できない」
相続できない――。
私は二度と、魔術師には戻れない。
この人は、それを理解している。
それを踏まえた上で、私に選択を迫っているのだ。
この歪な七日間を、まだ続けようとしている――。
その事実があまりにも重くて、全身が震え上がった。
「先生……」
ルーカスの眉根が、深く寄せられた。
「三度目」
あまりに冷たい声に、肩が強張る。
「もう師ではないと、言ったはずだ」
私は、強く唇を噛んだ。
この人の真意は分からない。
けれど、ここで帰れるわけがない。
私のせいで死にゆくルーカスを置いて、終わりにできるわけがない。
「……。……続けます」
宣言した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
ルーカスは、私の答えを聞いても表情を変えない。
当然のものとして受け取ったように、低く告げる。
「結構」




