第13話 まだ終わっていない――5日目①
(……結局、全然眠れなかった)
うっすらと陽の光が差し込む私室で、
私はベッドに横たわったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
眠ってしまいたかった。
何度も瞼を閉じ、息を整え、何も考えないようにした。
けれど瞼の裏には、昨夜、あの寝室で目にした光景ばかりが鮮明に浮かび上がる。
足元に転がっていた、無数の空壜。
指の隙間から伝い落ちた、赤い血。
肉の落ちた身体に、荒い呼吸。
はだけた衣服から覗いた、蜘蛛の痣。
(全部、私のせいだ……)
どれほど思考を巡らせても、結局はそこに行き着いてしまう。
そのたびに動悸が激しくなり、胃の奥が重たくなった。
身体を起こすと、寝不足のせいで身体がひどく怠い。
頭はぼんやりとしていて、ずきりとした痛みが側頭部を走る。
目の奥も熱く、気持ちは沈み込む。
それでも上着に袖を通し、ベッドを降りた。
身なりを整え、部屋の扉の取っ手に手をかける。
けれど、すぐには踏み出せなかった。
手のひらに、じわりと汗が滲む。
深く呼吸を吸い込み、下ろした片手の指を強く握りしめた。
ようやく決意を固め、音を立てないよう扉を押し開く。
足音を極力忍ばせ、慎重に階段を降りていった。
広間の前に立つと、再び強い緊張が身を打つ。
恐る恐る扉を開き、視線だけで室内を窺ったが、そこにルーカスの気配はなかった。
ほっと安堵して、大きく息を吐き出す。
そんな自分に気づいて、嫌気が差した。
ソファへ近づき、その背もたれに手を置いてなんとか身体を支える。
ふと、丁寧に畳まれた掛布が視界に入った。
昨夜、ルーカスに被せたものだ。
具合が悪そうに横たっていた青白い横顔を思うと、
またきりきりと胸が締め付けられる。
それを引き金に、寝室でルーカスから放たれた言葉が再び耳の奥で蘇った。
『君の価値は、俺が決めた』
私から視線を逸らさず言い切った、あの冷ややかな声と、迷いのない表情。
(……価値)
その時、階段が軋む音が響いてきた。
はっとして顔を上げる。
規則的な靴音はどこまでも一定で、一切の淀みがない。
身体が強張り、緊張のあまり喉が乾いていく。
今すぐここから逃げ出したくなったが、背もたれを強く掴んでどうにか踏みとどまった。
やがて広間の扉が静かに開く。
するりと足を踏み入れてきたルーカスは、昨夜のことが嘘だったかのように表情だけは涼しい。
髪の一筋すら乱れておらず、衣服の襟元は喉元まで閉じられている。
私のよく知る、筆頭魔術師としてのルーカス・キリフォード。
その姿を、どうにか保っているように見えた。
彼の視線が、私を一瞥する。
たまらず、床へ目を伏せた。
どんな顔をすればいいのか、わからない。
ルーカスは口を開くことなく、靴音を重たく響かせながら、ソファへ近づいてくる。
思わず身体を引いた私に気づいていながらも、彼は何も指摘しない。
ただ、悠然といつもの定位置に腰を掛け、テーブルに置かれた書物を開いた。
あまりにも張り詰めた空気のせいで、冷や汗が背中を滑り落ちていく。
ぱらと、頁を捲る乾いた音を合図に、ようやく覚悟が決まった。
「……せん……ルーカスさん」
聞こえているはずなのに、ルーカスは振り返らない。
その様子に、せっかく奮い立たせた気持ちが、すぐに萎んでいく。
私は一体、何を口にしようとしているのだろう。
昨夜のことを問いたい。
どうして呪いを肩代わりしたのか、説明が欲しい。
そして、この七日間を継続させる理由を――。
「食事はどうした」
唐突に、低い声が落ちてきた。
「……え」
「もう五日目だ。それとも、もう諦めたのか?」
そこでルーカスは書物を閉じて、私を振り返る。
「取り引きはまだ終わっていないぞ、ビビくん」
いつもの皮肉を含んだ声音だったが、その双眸にはまったく生気がなかった。
顔色は血の気を失っているというのに、黄金色の瞳だけが、じっと私を見据えている。
けれど、きっちりと整えられた襟元の隙間から、黒い痣が広がっているのが見えた。
衣服ではもう隠しきれなくなっているほど、呪いが着実に彼を蝕んでいる。
それなのに、平然と振る舞おうとするその姿が異様に思えた。
すべてを明かした上で、なぜ、この取り引きを続けようとするのか。
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……はい、作ります」
その視線から逃れるように、厨房へ駆け込んだ。
◆ ◆ ◆
ルーカスは、食事中もほとんど口を開かなかった。
スープの底に沈む焦げた肉を匙でつつきながらも、私の失敗に対して小言すら口にしない。
昨日までなら、焦がしすぎだとか、野菜が哀れだとか、
また煮込み料理かと指摘されているはずだった。
それなのに、今は眉一つ動かさない。
皿を空にすると、ルーカスは一瞬、吐き気を堪えるように口元を深く覆った。
食欲がないにも関わらず、無理をして食べたせいかもしれない。
些細な文句でも構わないから、何か言ってほしい。
そう願いながら見守っていたが、彼は食後の短い挨拶だけを済ませ、すぐに席を立ってしまった。
おそらく、研究室に向かうのだろう。
私はその頼りない背中を、黙って見送ることしかできなかった。
とてもじゃないが、二人きりでいることに耐えられない。
食堂の扉が完全に閉まったところで、私はようやく身体の芯から力を抜き、息を吐いた。
そのまま両手で自分の頭を抱え、呻く。
(どうにかしなきゃ)
あと二日で、ルーカスの命が尽きてしまう。
このまま何もせず過ごすなんて、気がおかしくなりそうだ。
私はもう魔術師ではない。
ルーカスの呪いを解くことは叶わない。
それでも、なんとかして進行を遅らせる手段はないだろうか。
(私のために、先生が死ぬ……)
私は皿の片付けすら後回ししたまま、
そっと食堂を出て廊下を進み、足音を立てないよう書庫へと向かった。
書庫の扉の前に立ち、その取っ手に手をかける。
ここに立ち入る際には声をかけろと、初日にルーカスから忠告されていた。
けれど、正直に目的を話せば、許可が下りないのは目に見えている。
それでも、治療の糸口となる情報を少しでも手に入れたかった。
しかし、ぐっと体重をかけて押し開こうとするも、扉は微塵も動かない。
よく見ると、鍵穴の隙間に淡い魔術の炎が爆ぜていた。
ルーカスの魔力によって、完全に封じられている。
まるで、この件には二度と触れるなと、無言で告げられているようだった。
諦めきれず、力任せに金属の取っ手を回した。
けれど、扉は軋みもしない。
何度押しても、どれほど力を込めても、無駄だった。
抗う術を失い、私は広間に引き返すしかなかった。
せめて手を動かして余計な思考を振り払おうと思い、私は掃除に取り掛かる。
だが、雑巾がけをしようとして、十分に搾っていない布巾で床を酷く濡らした。
食器を片付けようとしても、気づけば出しっぱなしの水道の水を前に放心している。
箒で同じ場所ばかりを執拗に掃いて、集めた塵を自らまた散らしてしまう。
何をしていても、罪悪感に取り憑かれて、まともに思考が働かない。
考えたくなかった。
目撃した痣も、今朝のルーカスの冷淡な態度も、目前に迫った命の期限も。
何も考えたくない。
それでも。
『欲しいなら、それ相応の対価がいる』
『君は俺に、何を差し出せるんだ?』
冷たい床の上、私はなす術もなく立ち尽くす。
(私が返せるものって、なに?)
夕刻、私は意を決して、研究室の扉を叩いた。




