第14話 幻滅させるな――5日目②
「ルーカスさん」
扉の前に立ち止まり声を絞り出すが、応答はない。
迷いを振り払うように指をきつく握り込み、今度は強く叩いた。
けれど、おずおずと取っ手に手を掛けた瞬間、
昨夜、あの寝室で目撃した凄惨な光景が脳裏をよぎり、
反射的に手を引っ込めてしまった。
だが、覚悟を決めてここまで足を運んだのだ。
今さら引き返すわけにもいかない。
「入りますね」
敢えて胸を張り、声を一段大きくしてから、私は一気に扉を押し開けた。
研究室は、静寂に満ちていた。
薄暗がりに視線を滑らせると、部屋の奥でルーカスが机に向かい、
没頭するように書き物をしている姿が目に入る。
その背を捉えた途端、再び緊張で身体が強張った。
コポコポと、フラスコの底で薬品の泡が弾ける音だけが、妙に耳につく。
私が一歩踏み出すと、彼はペンを動かす手を止めないまま、言い放った。
「何の用だ」
しかし、その声音は、明らかに気力が欠けていた。
「お話がしたくて」
ルーカスはわずかに息を吸い直し、ようやくペンを握る手を止める。
椅子を小さく軋ませながら、緩やかに私を振り返った。
「俺の機嫌を損ねるなと言わなかったか」
窓の少ない室内で、魔道具が放つ薄く青白い閃光が、
ルーカスのやつれた輪郭を浮き彫りにしていた。
背もたれに深く身体を預けたその姿勢は、
そうして重心を固定しなければ、座っていることさえ難しいように見えた。
「すみません」
「気が散る。出て行ってくれ」
拒絶されても、私の歩みは止まらなかった。
近づいていくと、初めてルーカスは怪訝そうに眉根を寄せた。
朝に見た姿よりも、頬の影が濃くなっている気がした。
ふう、と深く呼吸を整え、私は平静を装って言葉を継いだ。
「ルーカスさん。もう五日目も終わります」
「そうだな」
返事は短い。
だが、たったそれだけ呟いた直後、彼は大きく胸を上下させた。
そして、無意識のように自らの鳩尾あたりへ手を添える。
魔力核が、痛むのかもしれない。
その痛々しい仕草を前にして、喉の奥で詰まった。
けれど、引き下がるわけにはいかない。
「教えてほしいんです」
ルーカスは視線を落とさず、黙って私を見上げている。
「私は、どうしたら償えますか?」
「……なに?」
ルーカスの声が、鋭さを増した。
「私は、決して有能な魔術師ではありませんでした。
弟子としても、迷惑ばかりかけて。
それなのに、私のために呪いを肩代わりしてくれて」
彼の双眸は、微塵も揺らがない。
私は上着の裾を、縋るように握りしめた。
「そこまでしてもらう理由が、やっぱり私には分からないんです」
重苦しい沈黙のなか、ルーカスが口元を厳しく引き結んだ。
「だから、せめて役に立てることを教えてください。
私は何をしたらいいですか?
どんなことをすれば、この御恩に報いることができますか?」
そこで、彼の動きが止まった。
ほんの一瞬だけ、目元が痛烈に歪んだ気がした。
何かを強引に飲み込むように、目を伏せる。
白い喉元が、かすかに上下した。
けれど次の瞬間には、冷徹な表情に戻っていた。
「だったら、徹しろ」
聞き慣れた声のはずなのに、ぞっとするほど冷たかった。
これまで向けられたことのない声音に、息を呑む。
「どういう……意味ですか」
「取り引きに徹しろ。
余計なことを言うな、考えるな。
俺を幻滅させるんじゃない」
言い切ると同時に、ルーカスは一度だけ浅く息を吐いた。
咳を押し殺したのか、口元がかすかに歪む。
それでも、私を射抜く視線だけは逸らそうとしなかった。
――魔力目当てなら、最後まで演じろ。
そう、告げられた気がした。
自分の奥に隠していた醜い本音を、容赦なく突きつけられたようだった。
私は身じろぎ一つすることが出来ない。
でも――。
「私は」
「ビビくん」
唐突にはっきりと名前を呼ばれて、どきりと心臓が跳ねる。
「自分の目的を忘れるな」
その一言だけは、かつての師のものに聞こえた。
(……魔術師に戻りたい)
だからこそ、ルーカスの短い余命を知り、
魔力を相続できる可能性に縋って、この歪な取り引きに応じたのだ。
署名をしてもらいたくて。
気に入ってもらいたくて。
選ばれたくて。
それが、この人の死を望むことになると分かっていて。
私は、きっと取り繕うこともできていないのだろう。
ルーカスはしばらく私を見つめていた。
どこか乾いた、冷めたような眼差しだった。
やがて気だるそうに息を溢すと、背を向け、再び静かにペンを握り直した。
コツコツとペン先が硬い音を立てる。
指先には、不自然なほど力が入っていた。
そのうち空いた手が口元を覆い、指の隙間から、咳の音が漏れ聞こえた。
本来なら、この苦痛は、すべて私が背負うべきものだったはずなのに。
それなのに、この人は私が罪悪感を抱くことすら、許してくれないのだ。
「……失礼いたしました」
私はふらつく足を必死に動かして、逃げるように研究室を後にした。
距離にすればわずか数歩のはずなのに、
扉へ辿り着くまでが、永遠のように長く感じられた。
廊下を抜けて、薄暗い階段を一段ずつ這うように昇った。
私室に戻ってきた途端、膝から完全に力が抜けた。
その場にへたり込み、ようやく水面から顔を出したように、息を大きく吸い込んだ。
すると、扉を閉めた振動で、壁に立てかけていた私の杖が床へと転がった。
顔を上げ、縋るように四つん這いのまま近づいていく。
巻いた布が捲れて、そこから艶のある木肌が覗く。
確かめるように、恐る恐る、手を伸ばした。
直後、指先に鋭い痛みが走った。
悲鳴をあげて、指先を見ると、火傷を負ったかのように真っ赤に腫れ上がっていた。
突きつけられた現実に、叩きのめされそうになった。
無力さに激しい憤りを覚え、拳で床を叩きつけた。
しかし、視線を落とした先で、自分の顔が映り込むほど床が美しく磨き上げられていることに、今さらになって気づく。
視界が滲む。
そのまま室内を見上げると、
テーブルの上には、ルーカスから譲り受けた魔術書が重なっていた。
『自分の目的を忘れるな』
忘れてなんていないのだ。
もう一度、魔術を扱いたいという願いは、今も胸の奥底で燻ぶり続け、決して消えてはくれない。
そんな自分の執着が、ひどく醜いものに思えた。
けれど、ルーカスは私の夢だけは決して否定しない。
『取り引きに徹しろ』
『俺を幻滅させるんじゃない』
苦しい。
私は、一体何を願っている?
魔力が欲しい女としてか。
恩を返したい元弟子としてか。
それとも――あの人を死なせたくない誰かとしてなのか。
どれもが真実で、どれもが偽りのように思えた。
ふと、窓辺に目をやる。
そこには、温室から運んできた祝音花の鉢植えが置かれていた。
可憐な白い花弁が、かすかに揺れて澄んだ音色を響かせる。
あまりにも優しく、無垢なその音を聞きながら、
私は膝を抱えて組んだ両手のなかに頭を埋めた。
ずっと堰き止めていた感情が、溢れ出していく。
頬を伝い、熱い雫が床へと滑り落ちた。
もはや自分が、何を演じ、誰のために泣いているのかさえ、分からなかった。




