第15話(前編)死の準備――6日目①
朝になってしまった。
東から差す白く浅い光が、カーテンの隙間から床に落ちている。
私は私室のベッドに座りこんだまま、ため息をついた。
微睡み、意識を失うように眠っていたかと思うと、
身体がびくりと跳ねて、無理やり意識が引き戻される。
何度もそれを繰り返しているうちに、いつの間にか夜が明けていた。
身を起こし、胸の前で指を折って数える。
今日は、もう六日目だ。
(明日には……)
そこまで考えた途端、焦燥が身体の奥から一気にせり上がった。
身なりもろくに整えず、私は部屋から飛び出した。
廊下に出た瞬間、裸足の足裏に、床板の冷たさが伝わる。
それすら気に留められないまま、ただ廊下を駆けた。
ルーカスの寝室の前までやってくると、
勢いのまま扉を叩こうとして、寸前で手が止まる。
(私……)
何をしようとしているのだろう。
顔を合わせたところで、何を話せば良いのかもわからない。
ゆるゆると、手を下ろす。
項垂れたまま扉の前を離れ、重い足取りで階段へ向かう。
すると、背後で扉が軋み、ゆっくりと開く気配がした。
はっと振り返ると、開いた扉の向こうにルーカスが立っていた。
その姿に、私は息を呑む。
長い黒髪は結われておらず、乱れたまま肩へ垂れている。
シャツの襟元も開いたままで、布の合わせ目から覗く肌には、ほとんど血の気がない。
今までなら、絶対に露わにならない姿だった。
どれほど体調が悪くても、ルーカスは乱れたまま人前に立つことはなかったはずだ。
けれど今は、扉の縁に指をかけ、かろうじて身体を支えているように見える。
白くなった指先にも、落ちた肩にも、いつもの張りがない。
「ルーカスさん……」
「おはよう、ビビくん」
声音だけは、いつもと変わらない。
そう、取り繕っているようだった。
私は両手を胸元に引き寄せた。
「おはようございます……」
「もう今後、俺の食事は作らなくていい」
「……え?」
「何を食べても吐いてしまう。食材と労力の無駄だ」
返す言葉が見つからない。
そこで、ルーカスは乱れた髪を指で払った。
けれど整える気力まではないのか、すぐに息を吐いて弱々しく腰に手を当てる。
「そろそろ荷物をまとめておけ。
明後日には、葬儀を任せた者と、
この屋敷を引き払うための代理人が来る」
葬儀。
屋敷の整理。
代理人。
その生々しい言葉に目眩がして、私の指先が強張る。
それなのに、ルーカスはただ自嘲気味に笑みを浮かべるだけだった。
「俺個人が死ぬだけなら、死体の処分などどうでもいいんだがな。
筆頭のルーカス・キリフォードとして逝く以上、
研究資料と魔道具まで放り出すわけにはいかないだろう」
何も、言えなかった。
あまりにも淡々としていて、口を挟む隙すらない。
「手続きはすべて魔術師団に任せている。
面倒事に巻き込まれたくなければ、明日の朝には出て行け」
「……面倒事なんて、そんな」
だが、ルーカスは私の言葉を遮るように、表情を変えないまま視線を逸らした。
「さすがに身体が保たなくなってきた。
……俺は寝る。君は好きにしていろ」
それだけ言い残すと、ルーカスは静かに扉を閉めた。
私は、呼び止めることもできない。
閉じられた扉の前で、ただ、茫然と立ち尽くした。
指先だけが、ひどく強張っている。
ほどこうとしても、うまく力が抜けなかった。
◆ ◆ ◆
私は自分の部屋に駆け戻り、置いていた鞄をひっつかんだ。
階段の踏み板を蹴り上げるようにして、慌ただしく一階に降りる。
胸が、掻き毟られるような思いがした。
ルーカスの衰弱しきった姿を思い出すたび、胃がひっくり返りそうになる。
自分自身に腹が立って仕方がない。
こんな時になっても、私は何をすべきかの判断ができない。
考えもまとまらないまま、身支度もそこそこに屋敷の扉の取っ手を掴んだ。
(街に行って、先生を診てもらえる人を探そう)
その思いつきにだけ縋って、一気に開け放つ。
冷たい朝の空気が、頬を撫でた。
湿った風が、櫛すら入れていない髪先を揺らす。
屋敷の前には、靄をまとった森が広がっていた。
王都へ続く道は細く、木々の奥へ深く沈んでいる。
さっきまで身体を突き動かしていたものが、急速に萎んでいった。
ここは街から遠く離れた郊外だ。
どんなに急いでも、魔術医を連れて戻るまでに一日はかかる。
一日。
あまりにも、重い。
それに、ルーカスは初日に言っていた。
もう治療する段階ではないのだと。
私は俯いて、扉を閉めた。
鞄を肩から下げたまま、よろよろと広間へ戻る。
魔術医を探す。王都へ行く。助けを呼ぶ。
あまりにも、馬鹿げている。
自分が冷静さを失っていることは明らかだった。
私はソファに崩れるように腰を下ろした。
(明日の朝……ここから出て行く?)
抱えていた鞄から、分厚い契約書を取り出した。
表紙を指でなぞると、さらに気持ちが重く沈んでいく。
(じゃあ、これはどうなる?)
そこで、ぎりっと奥歯を噛んだ。
(こんなときまで、自分の保身か)
あまりにも嫌気が差し、契約書をテーブルの上に投げ出すように置いた。
私はソファに身を伏せ、目を閉じた。
好きにしていろと言われても、何も手につかない。
屋敷は静まり返り、壁時計の音だけが、時間を削るように響いている。
落ち着かなくて、ごろりと寝返りを打つ。
そこでふと、広間の隅に積まれた荷が目に入った。
三日目に、ルーカスが整理したものだ。
王立研究院へ寄贈するものは、もう手配が済んでいるのか、厳重に梱包してある。
木箱の角はきっちり揃えられ、封には管理用の印までつけられていた。
誰が見ても、研究資料として扱われるものだとわかる。
しかし、処分品として分けられているものは違った。
古びた箱に、雑多な品が詰め込まれている。
蓋も閉じきっておらず、古い布や金具の端がはみ出していた。
ルーカスには触るなと言いつけられていたし、気にも留めていなかった。
けれど、あれらも明後日には、すべて運び出されてしまう。
(処分……)
ルーカスが、一体何を捨てるつもりなのかが気になった。
私はソファから身体を起こし、おそるおそる処分品へ近づいていった。




