番外編(後編)愛する者として――2年前(ルーカスside)
本人が口を閉ざし続けるなら、こちらが調べるまでだ。
それからは、なりふり構わず情報をかき集め続けた。
屋敷の隅々はしんと冷え込み、日を追うごとに底冷えが厳しくなっていく。
(十年近く、この屋敷で面倒を見てきた)
衣食住を整え、魔術の基礎を教えた。
魔術師社会で軽んじられないための作法も、契約と規則の扱いも、ひと通り叩き込んだ。
魔術師として生きていけるよう、導いた。
その相手に情が芽生えたとしても、何ら不思議ではない。
(優秀な弟子を亡くすのが、惜しいだけだ)
自分の立場を使って、高名な魔術医や、呪詛の専門家たちに広く意見を求めた。
送った書状の数は日ごとに増え、机の上には返書の束が積み上がっていった。
しかし、そのどれもが、俺の望む答えには届かなかった。
既存の治療術では危険が大きい。
浄化術では侵食を抑えきれない。
魔力核に及ぶ呪詛である以上、下手に干渉すれば、かえって命を縮めるおそれがある。
エルネストから書状が届いたのは、その焦燥が極まりつつあった頃だった。
《ルーカス。
現時点で、安全に施せる治療法は確認できない。
ここから先は、友人として言う。
これ以上、君が背負うな。》
お前ですら、治療の手立てを見いだせないというのか。
湧き上がる怒りにまかせて、手紙を手の中で握りつぶした。
(治療が困難なら、呪解術を編み出すまで)
蔵書を漁り、術式を調べ続けた。
既存の術で足りないのなら、新たに組めばいい。
古い呪詛記録を洗い直し、禁書に近い文献まで引きずり出す。
寝食すら忘れ、仮説と術式を何度も組み替えた。
読書灯の光が、夜と朝の境目を曖昧にしていった。
それからも、成果のない日々だけが過ぎていった。
だが、終わりは唐突に訪れた。
薄暗い本部の蔵書室で、ペンの動きを止める。
(……なるほど)
何度も破綻していた術式が、ようやく一つの形を成していた。
紙面に連なった術式を見下ろしながら、深く息を吐き出した。
(組み上がった)
安全に施せる治療法は確認できないと、エルネストは告げていた。
それでも、魔力核のみを強制的に破壊する手法に、ようやく行き着いた。
並の魔術師であれば、術式の構築すら不可能な領域だ。
極めて緻密で、一瞬の狂いも許されない最高難度の魔術。
だが、俺の技量ならば不可能ではない。
しかし、代償は明白だ。
魔力核を完全に破壊すれば、魔術師としての道は永久に失われる。
(それを、俺がビビに対して行うのか)
思考がその結論に至った時点で、一体何を躊躇しているのだと自嘲する。
(死ぬより合理的だ)
けれど、杖を握るビビの姿が脳裏をかすめ、ペンを握る指先から力が抜けた。
視線を落とすと、机の傍らに置いていた医療書が目に入る。
様々な治療術に触れるうちに、『呪詛代替』という禁忌の術の存在を知った。
過去の術理と事例を紐解くほど、正気の沙汰とは思えない。
到底、治療などとは呼べない自殺行為だ。
ぞっとするような嫌悪感を覚え、医療書を手で追いやる。
だが、昏い思考を振り払うことができず、思い直して引き寄せて頁を捲る。
その術式を、ノートの余白に書き留めた。
(……念のためだ)
◆ ◆ ◆
執務室の窓から見える庭では、凍てついた土の下にも、植物がかすかな芽を出し始めていた。
俺は、いまだビビへの介入を果たせずにいた。
ビビ自身も俺から言及されるのを避けているのか、屋敷を留守にすることが増えた。
公務で俺が不在にしている隙を狙うように帰宅し、
いざ声をかけようとしても、のらりくらりと躱されるばかりだった。
その態度が、いっそう癇に障った。
魔力核の侵食は、いまだ続いているはずだ。
食欲が落ちてやせ細ってもなお、ビビは庭の片隅で訓練を続けていた。
杖を取り落とす彼女の姿に、重い息を吐く。
もう、猶予は残されていないような気がした。
(……いつ切り出す)
自分の髪を、無造作に掻き上げる。
(もし魔力を生成できなくなったとしても、俺が魔力を貸与すればいいのか)
そこまで考えて即座に首を振る。
年齢が十四も離れている。
それに万が一、俺の身に何かあれば、その時点で魔力の供給は断たれる。
ならば死後相続か。
(俺が死ぬまで魔力の貸与を続け、死後は相続させる……)
……馬鹿げている。
弱みにつけこんで、ビビの生涯を縛りつけるようなものだ。
無意味な思考を巡らせ、何度、彼女を呼び出そうとしたかは数え切れない。
だが、どうしても残酷な現実を突きつける決心がつかなかった。
◆ ◆ ◆
その数日後のことだった。
ビビは初めて課題の締め切りを破った。
執務室の机に置かれた資料は、いつものように丁寧にまとめられていた。
「期限は半日前だったはずだが」
「……申し訳ございません」
項垂れるビビの声はか細い。
頁を捲ると、文字は乱れていたが、構成は整っている。
何度も書き直したのか、ところどころ筆圧が不自然に濃くなっていた。
――その身体で、よくここまで。
それを飲み込み、ただ黙って受け取った。
ビビは一瞬、叱責を待つように身を固くした。
けれど、俺が何も言わずにいると、ビビは沈黙の意味を悟ったように目を伏せた。
(……もう限界か)
腕を組み、深い溜め息を漏らす。
ビビの肩が跳ねた。
彼女は唇を引き締め、何かを決心したように顔を上げる。
「先生。お話があります」
「……」
その言葉を聞いた途端、張り詰めていたものがほどけ、胸の奥に深い安堵が広がった。
(……やっとか)
ようやく、俺に打ち明ける気になったか。
「何だ」
表情を変えないよう、短く応える。
するとビビは、真面目な表情のまま告げた。
「辞めさせていただきたいです」
息をするのを、一拍、忘れた。
「なに?」
「前々から考えていました。急なことで申し訳ございません」
「理由は」
ビビは首を横に振る。
「言えません」
自分の指先が、震えていることに気づいた。
身体の奥底から込み上げるものが、激しい怒りなのか、深い失望なのか。
それとも――別の何かなのか。
「十年も面倒を見てやったのに、えらく勝手だな」
俺の放った言葉に、ビビは一瞬だけ息を詰めた。
「申し訳ございません」
それでも、ビビを射抜くように睨みつけた。
だが、彼女は恐縮して身を縮こませるばかりで、口を開かない。
しばらくそのまま向き合っていたが、やがて、熱が引くように思考が冷えていった。
これ以上問い詰めたところで、無駄だと理解した。
「もういい。今すぐ出て行けと言いたいところだが、二週間の猶予をやる。しっかり引き継いでいけ」
「ありがとうございます」
ビビは丁寧に一礼すると、静かに扉を閉めて去っていった。
姿が消えた直後、衝動のままに、机の上にあったペンを床に向かって激しく叩きつけた。
荒く乱れた俺の呼吸だけが、執務室に虚しく消えていった。
◆ ◆ ◆
それからビビは、目に見えて衰弱していった。
屋敷の階段を降りるだけの動作すら、今の彼女にはひどく辛そうだった。
手すりを握りしめる指先には力がなく、踏み出す足は一段ごとに重くなる。
時折、込み上げる吐き気を堪えるように口元を強く押さえていた。
周囲の弟子たちも異変に気づき、手を貸そうと近寄るが、ビビはその助けに縋ろうとはしない。
荒い息を必死に整え、次の瞬間には、何事もなかったかのような平然とした顔を取り繕う。
誰にも、弱音を吐かなかった。
俺はその様子を遠巻きに見つめ、ふいと顔を逸らした。
(知らん)
ビビは明日、この屋敷を出て行く。
俺の元から、自らの意思で勝手に去っていくのだ。
俺は言った。
必要なら対処してやると。
危険も見抜いた。
今後の生活も将来も、保証してやるつもりだった。
それなのに、ビビは俺に何一つ打ち明けなかった。
最後の最後で、俺を頼ってこなかった。
俺を必要としなかった。
研究室へ戻る途中、私室に向かうビビと一瞬、目が合った。
もう、かける言葉などない。
視線を外し、そのまま研究室の扉を強く閉めた。
――その夜。
夜更けの屋敷の廊下を、壁灯の淡い明かりだけを頼りに進む。
弟子も使用人も、すでに寝静まっていることだろう。
二階に続く階段を昇るたび、足音が床板を軋ませた。
(明日から公務だ。気を引き締めねば)
頭の中で、朝からの道程を組み直す。
帰還は三日後。
高官との会談。
王都北門の結界点検。
考えるべきことはいくらでもある。
(ビビの私室も、使用人に片付けさせておかなくては)
《これ以上、君が背負うな》
エルネストの言葉がふつと湧き、思考が途切れた。
「……」
あの衰弱ぶりを見る限り、いずれ彼女はどこかで死ぬだろう。
――死ぬ。
不意に、足が止まった。
階段の途中で、身体がその場に縫い止められる。
わずかに開いた窓から風が吹き抜け、俺の後ろ髪を煽った。
死ぬ。
廊下の灯りが、かすかに揺れる。
気づけば、足はビビの私室へ向かっていた。
(最後に顔を見るだけだ)
言い聞かせるほどに、足取りは速くなっていった。
「ビビくん」
扉の前で、声をかける。
俺が弟子の私室を直接訪れるなど、初めてのことだ。
もう一度、強く扉を叩く。
しかし、室内からの応答はない。
不吉な胸騒ぎが、這い上がってきた。
「入るぞ」
施錠はされていなかった。
呆気ないほど簡単に、扉が内側へ開く。
薄暗い部屋には、月明かりだけが差し込んでいた。
その奥、ベッドの上で力なく横たわるビビの姿が見えた。
青白い頬には、涙の跡が乾かずに残っている。
泣き疲れ、そのまま意識を失うように眠ったのだろう。
その横顔が、かつて屋敷の前で俺に縋って泣き、気を失った姿と重なった。
けれど、あの時よりも明らかに生気は失われている。
眠っているだけだと分かっているはずなのに、身体が強張った。
まるで、死に顔じゃないか。
「……」
ビビの細い腕を、かすかな躊躇いを覚えながらもそっと掴み上げる。
長袖がするすると下がり、白い腕を露わにした。
黒い痣が、腕全体に広がっていた。
襟元を覗き込むと、腕から続く黒い線が、心臓へ向かって一直線に刻み込まれている。
愕然とした。
(ここまでか)
まさか、これほど侵食速度が早いとは思っていなかった。
ふと、室内を見回す。
荷物は極端に少なくまとめられていた。
私物はほとんど置いていくつもりのようだ。
明日から新たな地で生きるための支度というには、あまりにも心もとない。
そこで、壁に立てかけるように、彼女の杖がぽつんと残されていることに気づく。
(あれを置いていくのか)
――たった一人で、死ぬ気か。
息が、浅く止まった。
(……俺が強引に踏み込めばよかったのか?
そうすれば、ここまでにならなかったのか?)
無意識に、指先に力が入ってしまった。
彼女が一瞬、苦しげに小さく呻き声を漏らす。
しかし、その重たい瞼が持ち上がる気配はない。
細い腕をそっと離し、元の位置へ戻してやる。
(代わってやるしかないのか)
不意に浮かんだ考えに、血の気が引いた。
まるで自分のものではない声を聞いたようで、思わず一歩後ずさる。
足元がよろめいて、片手で顔を覆った。
(俺は何をしようとしている)
これほどまでに呼吸が乱れ、取り乱したことはない。
胸が上下し、うまく息ができない。
指の隙間から見える床が揺れたように思えた。
(愚かなことを)
なぜ俺が、弟子一人のために魔術師としての生命を投げ出さなければならない。
仮に禁忌を実行したとしても、すでに深く傷ついた彼女の魔力核が、完全に元の状態に戻る保証はどこにもない。
そうなれば、結局ビビは魔術師には戻れず、俺はすべてを失うだけだ。
(馬鹿げている)
大体、こんな救済など、ビビは望まない。
知れば、必ず自分を責める。
それでも、やるのか。
本当に?
俺は国家魔術師団の筆頭だ。
一体何のために、十八年という歳月を費やして、この地位を守り抜いてきたというのだ。
人生を不意にするのか。
ビビは最期まで俺を必要としなかったのだ。
このまま見捨ててしまえばいい。
自分の価値を思い出せ。
ビビのことは、忘れろ。
奥歯を噛み締める。
(……無理だ)
顔を覆っていた自分の手を、ゆるゆると離す。
額には冷や汗が浮かび、前髪が肌に張り付いていた。
両手を目の前に広げると、指先が小刻みに震えていた。
ぐっと拳を握り込み、一歩踏み出して再び彼女の腕を取った。
目を閉じ、あの禁忌の術の一文を静かに口にする。
ビビの苦しげな寝息に、俺の詠唱が穏やかに重なっていく。
決して誤るわけにはいかない。
一音でも乱れれば、彼女の身体に何が起こるか分からない。
頼むから目を覚ますなと、半ば祈るような心地で、確実に詠唱を続ける。
やがて、彼女の腕からあの禍々しい痣が、俺の指へと伝ってきた。
皮膚の下へ食い込むような、冷たい感覚が走る。
直後、鳩尾を直接貫くような凄まじい激痛に襲われた。
漏れかけた呻きを、歯を食いしばって押し殺す。
内側から、臓腑を容赦なく掴み潰されるような苦悶。
視界が一瞬、真っ白に火花を散らして弾けた。
息が完全に詰まり、痛みの中心である鳩尾を強く押さえつける。
崩れそうになる身体を支えるように、壁に片手をついた。
それでも、俺の味わっている苦痛と引き換えにするように、ビビの乱れていた呼吸は次第に穏やかさを取り戻していく。
青白く強張っていた寝顔から、少しずつ苦しげな色が引いていった。
それを見届けると、狂おしいほどの安堵が広がる。
そんな自分が、あまりにも滑稽だった。
――正気の沙汰ではない。
ビビの腕には、まだ痣の名残があったが、数日も経てば、それも薄れていくだろう。
代わりに、俺の腕へ移った痣が、皮膚の下を這うように首筋へ伸びていく。
灼けるような激痛の渦中で、いつかビビの手首に巻き付いていたあのブレスレットが脳裏をよぎった。
ふっと、自嘲気味な苦笑が口元に浮かぶ。
(俺も大概だ)
朦朧とする意識を引きずりながら、背を向けた。
扉を閉める直前、もう一度、ベッドで眠るビビを振り返る。
穏やかに眠るその横顔を見て、ようやく自分の感情の正体を突き止めたように思えた。
闇夜に沈む夜の廊下に、俺の靴音だけが重く響いていった。




