番外編(中編)師として――2年半前(ルーカスside)
最初の異変は、些細な予兆に過ぎなかった。
魔術を詠唱する瞬間、ビビはわずかに顔をしかめる。
ほんの一瞬、息を整えるまでに、不自然な間が生じる。
杖を握る指先にも、以前にはなかった強張りが見えた。
それでも、その時はまだ、ただの疲労だと思っていた。
連日の魔術研究に加え、課題提出も重なっている。
彼女が無理をすることは、珍しくなかった。
だから、大して気に留めていなかった。
だが、日を追うごとに、ビビの不調は顕著になっていく。
少し歩いただけでも息があがり、声には張りがなくなった。
研究室で机へ手をつく姿が目立つようになった。
資料を運ぶ途中で足を止め、何でもないふりをして棚の前に立ち尽くしていることもある。
呼びかけると、少し遅れて顔を上げる。
返事はするが、その声はどこか弱々しい。
他の弟子たちが中庭で魔術の反復に精を出しているそばで、ビビは屋敷の窓辺から遠目に見守るだけの日が増えていった。
以前なら真っ先に杖を取っていたというのに。
けれど今は、ただじっと見つめているだけだ。
窓枠に添えた手は、そっと握り込まれ、やがて拳を握る。
背筋を伸ばしているが、視線は中庭から離れない。
その横顔には、薄い影が落ちている。
そういう姿を何度も目にするうち、さすがに違和感を覚えていった。
ある日、魔術の課題をこなしていたビビが、詠唱を誤った。
術式が乱れ、術式台の上に小さな風が巻き起こる。
その拍子に、長袖の袖口が捲れ上がった。
白い腕に、黒い痣のようなものが浮かんでいるのが見えた。
ビビは咄嗟に杖を投げ出すと、服の袖を引っ張って慌てて隠す。
居合わせた弟子たちは、彼女の失敗に呆れて笑っているだけだった。
だが、その一瞬の反応に嫌な予感が胸をよぎった。
(……なんだ、今のは)
ビビは俺をちらりと振り返る。
気づかれていないと思ったのだろう。
ほっとしたように息をつき、取り繕ったような笑みを浮かべると、何事もなかったかのように課題へ戻っていった。
その後ろ姿を見ながら、顎に手を当てる。
(あまり見かけたことがない痣だ)
最近の彼女の不調は、今の痣のせいだろうか。
だが、単純な皮膚病や魔力疲労ではなさそうだ。
それから、ビビの行動をより注視するようになった。
あの異常な痣には、ビビ自身も気づいているはずだ。
その証拠に、時折、服の上から痣を撫でては、痛みを堪えるように表情を歪めている。
けれど周囲の目に気づくと、すぐに笑って誤魔化す。
その笑みは、日を重ねるごとに、引き攣っていった。
◆ ◆ ◆
それから、ビビは屋敷を空けることが多くなった。
結果を出せているのなら、弟子がどう過ごそうと口を出すつもりはない。
だが、ビビに限っては珍しいこともあるものだと、引っかかってはいた。
彼女は元来、必要もないのに屋敷を離れる人間ではない。
課題があれば研究室に籠もり、空き時間ができれば書庫へ向かい、訓練の時間になれば誰より先に訓練場へ向かう。
(明らかに、様子がおかしい)
弟子や使用人たちの噂話を拾い集めていくうちに、どうやら王都の病院に通っているらしいことが分かった。
あの痣が、また脳裏をよぎる。
執務室の椅子に腰を下ろし、腕を組んで息を吐いた。
そのとき、扉が叩かれ、思考が遮られた。
「先生。課題の提出に伺いました。入っても宜しいでしょうか」
「ああ」
返事をすると、静かに扉が開く。
ビビが紙束を抱えて、控えめに室内へ踏み入ってきた。
久しぶりに正面から対峙した彼女は、やはり顔色が悪かった。
瞳の生気は薄く、唇の色も冴えない。
それでもいつものように背筋を伸ばし、弟子としての礼を崩さずに立っている。
ビビは、分厚い資料をこちらへ手渡してきた。
受け取ったそれをぱらぱらと捲り、簡単に目を通す。
文字に乱れはない。構成にも破綻はない。
だが、筆跡のわずかな揺らぎに、取り繕えないぎこちなさが滲んでいた。
「締め切り当日なんて、君にしては珍しいな」
「……すみません。いつもより難しくて」
声には、力がない。
「夜に確認しておく」
「ありがとうございます」
俺は資料を脇に置き、両手の指を組んだ。
「最近、留守が多いようだな」
ビビがはっとした顔で俺を見返した。
一瞬だけ、その表情に明らかな動揺が走る。
問いの意味を察したのだろう。
「えっと……旅行へ行っていました」
(なぜ嘘をつく)
苛立ちが、ふつりと湧いた。
顔に出ていたのかもしれない。
ビビはそっと目を伏せた。
問い詰めようにも、身を硬くしたまま沈黙するビビを見ていると、感情が逆撫でされる。
俺の目の届かないところで病院に通い、見たこともない痣を隠し、それでも何でもない顔をして立っている。
その事実が、ひどく気に障った。
課題の出来に問題はない。
締め切りにも間に合っている。
本来なら、責める理由などない。
それでも、棘のある言葉が口をついて出た。
「課題が難しいのなら、さっさと聞きに来い。
悩んでいる間に、置いていかれるぞ」
「……はい」
ビビは短く答え、さらにうなだれる。
けれど、王都へ通っていた本当の理由については、決して言葉にしない。
叱責を受け止める弟子の顔をして、こちらが踏み込む余地を消している。
だが、その萎縮しきった姿を見ていると、不憫にも思えた。
組んでいた指をほどき、肘掛けを叩く。
(俺も、大人げない)
深くため息を漏らし、苛立ちを押し殺す。
このまま問い詰めても、ビビはますます口を閉ざすだけだろう。
「少し前の話になるが」
「はい」
「君は、屋敷から出て行ったあとのことを心配していたな」
なぜか、自分の体が硬く強張っていく。
ただ、今後の身の振り方を確認するだけだというのに。
それなのに、言葉を選ぶ舌が重たい。
「その件で、話がある」
すると、ビビがはっとしたように顔を上げた。
その瞳が、大きく揺れる。
一瞬、泣き出すのかと思ったほど、眉尻が下がった。
だが、すぐに表情を作り直し、何でもないことのように笑った。
「そんなこと言いましたっけ?」
「……なに?」
ビビはへらっと、茶化すように口元を緩める。
「出て行くなんて、考えたことないですよ。
先生に見限られないよう、一生懸命頑張りたいと思っているところです。
弟子として、もっと勉強させてください」
「……」
沈黙が、落ちた。
(今さら、それを言うか)
肘掛けを握る手に、力がこもる。
「なら、娯楽に現を抜かすな」
俺の声は怒りを孕んで、荒々しくなっていたことだろう。
ビビは言葉を失ったように、息を呑んだ。
そして寂しそうに、ひどく掠れた声で答える。
「はい」
それだけしか、言わなかった。
◆ ◆ ◆
酷暑の季節を迎えても、ビビは肌を覆うように長袖を身にまとい続ける。
黒い痣を徹底的に隠しているため、
いまどれほど彼女を侵食しているのかは分からない。
けれど、袖から伸びる手首は痩せているように見えた。
無意識に袖口を押さえ、人目を避けるようにして自分の腕を庇う仕草も増えていく。
だが、それほど切迫していながら、彼女は頑なに相談に来ない。
理由は分からない。
けれど、誰にもこの事態を打ち明けないと心に決めているようだった。
少なくとも、俺にだけは絶対に知られないように徹している。
だから、始まりは単なる好奇心のつもりだった。
呪詛の領域に詳しい知人へ向け、ビビの症状を克明に記した書状を送ってみた。
しかし、返書の紙面を埋めていたのは、予想を遥かに上回る、絶望的な予後を告げる現実だった。
まさかと思い、魔術師団の蔵書室で、医療書や学術書を片っ端から調べ上げた。
頁を捲る手が、次第に速くなる。
否定したかった可能性が、少しずつ現実味を帯びていく。
魔術師の根幹たる魔力核を、内側から容赦なく侵食していく呪い。
(呪われた者は、確実に死ぬ)
手の中にあったペンを、強く握り込む。
本人は、この事実をどこまで把握しているのか。
なぜ、平然としているように振る舞えるのか。
額に手を当て、一人、低く呻いた。
胸の内に疑念と焦燥を抱えたまま、日々は過ぎていった。
だが、屋敷の時間は表面上、穏やかに流れていく。
木々の葉が黄色く色づき始めた頃になっても、やはりビビは誰にもこの事実を打ち明けることはなかった。
研究室での確認を終えて執務室へ戻る途中、廊下の先でビビを見かけた。
足を止めずにそのまま追い越そうとしたが、彼女は不意によろめき、壁に手をついた。
見ていられなかった。
俺は意を決して、後ろから声をかけた。
「ビビくん」
ビビは肩を震わせ、さっと振り返る。
「な、なんでしょう」
「ずいぶん顔色が悪いようだな」
(言え)
ほんの少しの、弱音で良い。
苦しい。
痛い。
辛い。
どうすればいいのか分からない。
そのどれか一言でもビビの口から零れれば、手を差し伸べるつもりだった。
叱る気も、咎める気も、責める気もない。
だが、ビビは自分の頬にそっと手を添えると、歪な作り笑いを張りつけた。
「いえそんな! 元気ですよ!」
「……」
「先生のほうが、ひどい顔をしてます。いっぱいご飯食べてくださいね!」
一方的に言葉を紡ぐと、ビビは追及を逃れるように足早に立ち去っていく。
俺はその細い背中が遠ざかるのを見送りながら、拳を握りしめた。
(……なぜだ)
なぜ、俺に何も言わない。




