番外編(前編)筆頭として――3年前(ルーカスside)
「筆頭」
その声に、足を止めて振り返った。
魔術師団の部下が、国の高官から直々に下された書状を携えて立っていた。
「ご苦労」
短く応じて受け取ると、部下は恐縮した様子で一礼し、足早に去っていった。
俺はその背を見送った後、書状を鞄の奥へと滑り込ませ、魔術師団本部の厳かな廊下を再び歩み進める。
国家魔術師団、筆頭。
最年少でこの地位に就いて、十七年になる。
生まれ持った才に恵まれていた自覚はある。
だが、才に胡座をかいて居座れるほど、甘くない。
筆頭の名には、常に結果と責任が伴う。
たった一度の失策が、積み上げてきた地位を容易く揺るがす世界だ。
その日の執務を終えて屋敷に戻ると、出迎えに控えていた使用人たちが深く頭を下げた。
広間に足を踏み入れれば、そこに控える弟子たちの張り詰めた緊張感が伝わってくる。
「先生」
「師匠」
「キリフォード様」
呼び名は様々でも、向けられるものに大差はない。
救いを求める目。指導を待つ声。こちらに縋る沈黙。
いつだって、俺はそれらを受け止める側だった。
導く者として立ち、判断を誤ることは許されない。
執務室に戻り、先ほど部下から受け取った書状を開封する。
どうせ取るに足らない用件だろうと思っていたが、
そこに記されていたのは、名家令嬢との縁談だった。
鼻で笑い、丁寧に封筒へと戻す。
引き出しへ放り込もうとしたが、同じような書状が詰まっていて、うまく開かない。
舌打ちをし、強引に手を差し入れてすべて引き抜いた。
すると、引き出しの底に押し込まれていた一冊のノートが目に入った。
それは、かつて自分が綴っていた日記帳だった。
表紙に記された日付は、九年前。
昔はずいぶん暇があったものだと苦笑し、ぱらぱらと頁を捲る。
癖のある自分の筆跡は、今見るといささか読みづらかったが、
そこには当時の弟子たちの評価や、魔術研究の覚え書きが細かく記録されていた。
不意に、ある頁で指が止まる。
ビビ・メラフィが、ここを訪れた日の記録だった。
「……」
ノートを開いたまま、革椅子に深く腰掛ける。
ビビは、戦火によって家族を失い、
身を立てるための術として魔術を学ぶためにやってきた少女だった。
すぐに追い返すつもりだったことが、当時の記録からも窺える。
俺の弟子は、過酷な修練に耐えうる若い男ばかりだった。
そのような環境下で、魔術も未熟な十四歳の小娘に何ができるというのか。
門前払いをしようとしたその時、ビビは必死に俺の足元にしがみついてきた。
「お願いです。小間使いとしてでも構いません。どうか、ここに置いてください」
それでも突き放すと、彼女はその場で糸が切れたようにへたり込み、意識を失った。
さすがに、予想外だった。
その場に居合わせた弟子や使用人たちも、どよめいていた。
憐れみを誘うための演技かと疑って、身体を揺すってみたが、彼女は目を覚まさない。
改めて観察すると、身にまとう衣服はボロ布で、靴底は無残にすり減っている。
持参していたトランクも酷く汚れて傷ついていたが、
胸元には、使い込まれた一本の杖を驚くほどの力で抱きしめていた。
その横顔は痩せ細り、食事すら満足にできていないことは明白だった。
周囲の弟子たちの視線が突き刺さる。
ここで放り出せと命じれば、無用な反発が芽生えかねない。
しかも彼女はここへ来る道中で転倒し、片足の骨を折っていた。
そのため、怪我が治るまでのあいだに限り、衣食住を保証してやると告げた。
……それだけのはずだった。
「先生」
はっとして、現実へ意識が引き戻された。
扉を控えめに叩く音とともに聞こえたのは、ビビの声だった。
どうやら、ずいぶん読み耽っていたらしい。
「どうした」
「課題の成果確認をして頂きたくて」
「入れ」
返事をすると扉が開き、ビビが愛用の杖を固く握りしめて入ってきた。
俺は日記を素早く閉じ、引き出しの奥へとしまい込む。
「今日は立体術式の展開だったな」
「は、はい」
ビビは携えた鞄から三つの魔鉱石を取り出すと、こちらに差し出してきた。
それを受け取り、執務机の脇に置かれた術式台へ三点を取るように並べる。
指先でそれぞれの距離を測って整え、術式台から一歩退いた。
「見せてみろ」
ビビは即座に杖を構えたが、その両肩には余計な力が入っていた。
硬さの抜けない詠唱が、何度か小さくつっかえながら紡がれていく。
すると術式台に並んだ魔鉱石が、赤い燐光を帯びて一つずつ浮き上がった。
鉱石同士を結ぶように細い光線が走り、空中に立体術式の輪郭が形成される。
その中心で、光が小さく弾けた。
赤い燐光が薄い羽の形を取り、やがて一羽の蝶となって術式の内側から舞い上がる。
羽ばたくたびに淡い光の粒がこぼれ、執務室の空気に散った。
術式の構成そのものに破綻はない。
しかし、制御が荒い。
蝶の軌道は時々乱れ、身体の輪郭も時折ほどけかける。
ビビは唇を噛み、杖を握る指に力を込めた。
散りかけた光の粒が、弱々しく再び羽を形作る。
蝶は一度だけ大きく軌道を揺らし、それでも静かに俺の肩へ止まった。
それを横目に見やり、息を吐いた。
「……まあ、いいだろう。合格だ」
「あ、ありがとうございます!」
ビビが声をあげたのと同時に、蝶の姿が溶けるように消えた。
その瞬間、一気に緊張が抜けたのか、彼女は崩れ落ちるようにへたり込んだ。
その手に目をやると、 杖を握り続けたせいで、手のひらには痛々しい血豆ができていた。
俺は思わず深い溜息を漏らす。
「もっと余裕を持って臨め」
「はい、すみません……」
ビビは慌てて立ち上がり、また杖を握り直した。
痛みも忘れて、はにかみ笑いを浮かべている。
だが、すぐに思い出したように、鞄から分厚い書類を取り出した。
「あっ。あと、こちらは先日まとめた論文です」
「……ずいぶん早いな」
「頑張りましたから!」
へへ、と頬を緩ませるビビを見て、目を細めた。
ビビの手にある杖へ視線を落とす。
出会った頃から変わらず使い込まれたその杖は、彼女の背丈が伸びたせいで、今ではどこか頼りなく見えた。
一ヶ月で放り出すつもりだったはず。
それが一年になり、三年が経ち、気づけば――九年という歳月が流れていた。
魔術師としての資質が見込めなければ、即座に破門にするつもりでいた。
現に、かつて屋敷にいた弟子の多くは、一年と持たずに自ら去っていったというのに。
彼女はいつしか二十三歳になり、最古参の弟子となっていた。
そこでふと、ビビの手首に違和感を覚えた。
袖口から覗く金色の鎖に、薄紅色の小石がいくつか揺れている。
流行の装飾品にしては、纏う魔力の気配が濁り、歪んでいた。
「それは何だ」
「あっ、これですか? いつも屋敷に荷物を届けてくださる方から頂いたんです。
王都で流行っているブレスレットだから、お土産にって……」
「今すぐ外せ」
「えっ?」
「恋愛感情に干渉する呪具の一種だ」
ビビの顔から、一瞬にして血の気が引いていく。
俺は指を鳴らし、彼女の手首に絡みついていたブレスレットの呪力を内側から破壊した。
パキンと音を立てて鎖がちぎれ、細かな金の部品と小石が床へ散る。
「す、すみません……まったく気づかなくて」
「君は呪力の気配に鈍感すぎる。体質の問題もあるかもしれんが……」
「……うう」
「それに、こういったことは三度目だろう。
少しは自分がどう見られているか自覚しろ」
「……自覚、ですか?」
本質を理解していない様子のビビに対し、俺は堪らず額を押さえた。
彼女は確かに真面目で勤勉だ。
魔術に向き合う姿勢は疑いようもない。
それに、年を追うごとに、嫌でも人目を引くようになってきている。
だが、自分に向けられる好意や下心には、致命的なまでに疎い。
その無防備さにつけ込むように、善意の顔をして近づいてくる男が後を絶たない。
「今後はもっと気を引き締めろ」
「……はい」
ビビは力なく返答したものの、床に散乱した破片から視線を離せずにいた。
その表情は、強張っている。
「どうした」
「いえ……ちょっと、怖いなあって」
ビビは救いを求めるように、自分の杖を強く握りしめた。
「……いつかはここを出て、一人で生きていかなくちゃいけないのに。
こんなに鈍感なままで……また巻き込まれたらどうしたらいいのか……」
「君は警戒心が薄いからな」
ビビは力なく笑う。
「私に家族がいないから……付け込まれるんでしょうかね」
「……」
「……頼れる人がいたらいいのに」
ぽつり、と零れ落ちた呟きには、普段の明るい彼女からかけ離れた響きがあった。
「お忙しいところ、お騒がせして申し訳ございませんでした。
あの、このブレスレットは……」
「俺が処分しておく。君は一切触れるな」
「はい」
ビビは頷き、部屋を退出しようと背を向けた。
どこか小さく見える背中が、十四歳の彼女の姿に重なった。
「ビビくん」
呼びかけると、彼女は恐る恐る振り返った。
「何かあれば言え。必要なら対処してやる」
「はい。ありがとうございます」
ビビはようやく、ほっとしたように微笑んだ。
扉が閉まり、執務室はまた俺一人だけになった。
椅子に深く腰を預け、腕を組んだまま床の呪具を見つめる。
(もし、俺の目が届かない所で進行していたら、厄介なことになっていた)
あの呪具は、術者自身の寿命を削って発動する極めて悪質な類のものだ。
正気の沙汰じゃない。
感情に振り回されすぎだ。
舌打ちを呑み込み、先ほどビビが提出した資料を引き寄せ、頁を捲る。
そこに書かれていたのは、属性の異なる魔鉱石の性質を利用し、
反発し合う術式を、一つの方陣内で共存させるための理論だった。
指先が、頁の端で止まった。
実技ではあれほど制御に苦しんでいたくせに、紙面上の術式は恐ろしく精密に組み上がっている。
(……いつの間に、これほどの領域にまで)
当時の俺であっても、これほど精密な構成に辿り着けていたか疑わしい。
「……」
ビビは、いずれ優秀な魔術師になるだろう。
だが最近の彼女は、この屋敷を出た後のことを、必要以上に気にしている。
資料を机に戻し、肘掛けに両腕を置いて息を吐く。
九年という歳月は、長い。
しかし、師弟というだけでは、彼女の将来を保証できない。
二十代前半の女が、自身の立場に不安を覚えるのは当然だった。
(無能な魔術師どもに、ビビを引き抜かれるのは惜しい)
今はまだ俺という存在に遠慮して、彼女へ接触を図る者はいない。
だが、いずれ俺の目を盗み、囲い込もうとする研究機関が現れないとも限らない。
ならば、彼女の生活と研究環境をこの屋敷で長期的に整えてやれば、ビビがここを去る理由は失われる。
頬杖をついて、思案を巡らせる。
コツコツと、もう片方の指先が、無意識の癖で椅子の肘掛けを規則正しく叩いた。
(……住まいと研究の場を与え、必要な時に関与できるもの)
身元保証人。
後援者。
専属補佐官。
(どれも弱いな)
本人の意思一つで、いつでも解消できてしまう。
より魅力的な条件を提示する組織が現れれば、ビビがこの屋敷を離れる可能性は残る。
もっと、強い形式が要る。
彼女の将来に、継続して関われる形が。
『家族』
その単語が脳裏を過った瞬間、ビビの声が蘇った。
『私に家族がいないから……付け込まれるんでしょうかね』
ふと、机の引き出しが視界に映る。
詰め込まれた書状。
縁談。
――配偶者。
(体裁を整えるだけだ。それ以上の意味はない)
そこまで思考が到達した直後、肘掛けを叩いていた指先が止まった。
(……俺は何を考えている)
◆ ◆ ◆
ビビの身体に異変が現れたのは、それから三ヶ月後のことだった。




