第18話 あなたがいないと――7日目
目が覚めた瞬間、七日目を迎えてしまったのだと悟った。
窓の外は、いまだ昏い。
朝と呼ぶには早すぎる時間だったが、屋敷には重々しい静寂が満ちていた。
起き上がろうとシーツに手をついた直後、手のひらに鋭い痛みが走る。
昨夜、杖を無理やり握りしめたせいで、皮膚は赤く腫れ上がっていた。
応急処置の包帯を巻いてはみたものの、ほとんど役には立っていない。
しばらく傷ついた手を見つめていたが、すぐに現実へ引き戻される。
(今日――先生は……)
怖い。
これから一体何が起こるのか。
想像するだけで苦しくなって、最悪な結末を必死に頭から振り払う。
それでも、夜が明ければここを出て行けと命じられていた。
頑ななルーカスのことだ。
自らの最期を、私に決して看取らせようとはしないだろう。
そう思うと、もうじっとしていられなかった。
ベッドを抜け出し、部屋の扉をそっと開ける。
ルーカスはまだ眠っているのだろうか。
一目だけでも顔が見たくて堪らなかったが、寝室の扉を叩く勇気は、どうしても湧かなかった。
気取られないよう、壁際を伝って、階段を一段ずつ降りていく。
息を潜めて廊下を抜け、厨房の扉を押し開けた。
(……朝食を作ろう)
いつもより一回り大きな鍋を、棚の奥から引きずり出す。
昨日、無心で皮を剥いた野菜を、次々と鍋へ入れて炒めた。
火が通ったところで、たっぷりと水を張った。
ぐつぐつと煮立つ鍋から、湯気が立ち上った。
しかし木べらで鍋の底をさらうと、黒く変色した野菜がいくつか浮き上がってくる。
(また焦がしちゃった……)
ルーカスに食べてもらえるのは、今日が最後かもしれないのに。
そう自覚した瞬間、すうっと身体の力が抜けていく。
――最後。
私は、息をつく。
鍋の火を止めた。
その直後のことだった。
静まり返った屋敷の奥から、階段が軋む音が響いてきた。
身体が強張る。
動きを止め、じっと耳を澄ます。
淀みがなく、規則正しい靴音。
はっきりとした意思を持って、こちらへ近づいてくる。
音は次第に大きくなり、やがて厨房の前でぴたりと止まった。
ほんの数秒、中に入るのを躊躇うような、妙な間があった。
だが、迷いを振り切るように扉が開き、ルーカスが顔を覗かせた。
黒髪は丁寧に整えられ、衣服の襟元もいつも通り几帳面に合わせている。
袖口のボタンまできちんと留め、革靴にも汚れひとつない。
その姿は、私のよく知るルーカス・キリフォードそのものだった。
けれど、乱れのない装いが、かえって限界を際立たせている。
落ち窪んだ目元には、もう隠しきれない衰弱が滲んでいた。
「おはようございます、ルーカスさん」
震えそうになる声を必死に抑え込み、努めて平静を装って挨拶を口にした。
しかしルーカスは答えず、私の手に巻かれた包帯で一度視線を止め、
背後で湯気を立てる鍋へ目を向けた。
その眉間に、浅い皺が寄る。
「……食事は要らないと言ったはずだ」
ルーカスの視線が、すぐに私へと戻る。
「話がある。ついてこい」
有無を言わせぬその響きに、心臓が引き絞られるように激しく脈打った。
◆ ◆ ◆
朝の眩い日差しが、引き開けられたカーテンの隙間から差し込む。
広間は晴れやかだというのに、息もできないほど張り詰めた空気が満ちている。
私とルーカスは、低いテーブルを挟んで、向かい合ってソファに座っていた。
ルーカスはソファに深く座り、背もたれに身を預けている。
片手は力なく肘掛けに置かれ、指先でコツコツと不規則に叩いていた。
その癖は相変わらずだったが、その音すら弱々しい。
膝に置かれていた手が、時折、痛みを堪えるように鳩尾のあたりへ動く。
一階へ降りてきただけで、激しく消耗しているのだろう。
それでも、決して私には悟らせまいとするように、表情は崩さなかった。
重い沈黙が続いたあと、ルーカスは絞り出すように深く息を吐き出した。
そして、テーブルに残されたままの契約書を一瞥する。
彼は億劫そうに身を起こすと、その横に転がっていた万年筆を握り締めた。
しかし、その指が契約書の端に触れるより早く、私は手を伸ばして自分の元へ引き寄せた。
ルーカスはペンを握ったまま動きを止め、苛立ちを隠そうともせず目を細める。
「何をする」
「……いやです」
「……」
「署名してほしくありません」
自分の声は、今にも消え入りそうだった。
そんな私を、ルーカスは険しい目で見据えてくる。
「……まだそんなことを。貸せ」
彼は私へ片手を伸ばした。
それを無視して、私は契約書を自分の膝の上へと強く押し付ける。
差し出されたルーカスの手が、行き場を失って止まった。
その目元から、余裕が消えていく。
「俺が署名しなければ、君は二度と魔術師に戻れないんだぞ。
杖すら握れないまま、どうやって生きていくつもりだ」
「わかりません。……でも、知識まで失ったわけじゃありません」
ルーカスは伸ばしていた手をきつく握りしめ、拳を作った。
痛々しいほど強く、薄い唇が引き結ばれる。
「そんなに嫌なのか」
絞り出された低い声に、身体が竦んだ。
黄金色の瞳の奥に、ひどく追い詰められたような翳りが沈んでいる。
「そこまで、俺が嫌いか。
嫌いな男の魔力なんか受け取りたくないか」
「違います!」
私は叫んでいた。
だが、ルーカスの表情は揺らがない。
「ルーカスさんが死んで残す魔力なんて、どうしても受け取りたくないだけなんです」
「俺が死ななければ、君を救えないだろうが!」
激昂が広間に響き渡り、私は息を呑んで硬直した。
しかし、同時にその言葉に強烈な違和感を覚える。
声を張った反動なのか、ルーカスはぐったりと背もたれに身体を預けた。
押し殺した呼吸に、肩が不自然に上下していた。
けれど、私を責める怒りよりも、底まで削られた疲労の方が強く見えた。
「俺から価値を奪うな」
吐き捨てるような呟きだった。
「……え?」
「何もなくなった俺を見られるくらいなら、死んだ方がましだ」
その声音は、ひどく頼りなかった。
「……何もなくなったって、どういうことですか?」
ルーカスは、眉根を強く寄せて瞼を閉じた。
話は終わりだと言わんばかりに、顔を背ける。
「ルーカスさん!」
声を張り上げても、彼は頑なに私と目を合わせようとしない。
けれど、ここで引き下がれば、二度と本心に触れることはできない。
私は契約書の端に手を当て、じっと彼の横顔を見つめた。
「また隠すんですか?」
ルーカスの表情が強張る。
「お願いです。ちゃんと聞きたいんです」
そこで耐えかねたのか、彼はようやく苦々しげな息を漏らし、自身の鳩尾を指さした。
「……単純な話だ。魔力核が呪われているのだから、核そのものを破壊すれば、侵食は止まる」
言葉の意味を理解するまでに、一拍遅れた。
「……む、無理です、そんなこと」
私はかぶりを振る。
「私だって、一度は考えました。
でも、あまりにも危険で、失敗すれば取り返しがつかなくて……。
そんなことができる人なんて……」
そこまで言って、自分の言葉の矛盾に気づき、口をつぐんだ。
ルーカスは私を横目で見やると、どこか突き放すように、力なく笑う。
「俺を誰だと思ってる」
できるのだ、この人は。
処分品の底に沈んでいた、医療書の山。
あの本から導き出されていたのは、代替の術だけではなかったのだ。
国家魔術師団の筆頭。
規格外の魔術師である彼は、自らを救う方法にも辿り着いていた。
(それでも……やらなかった)
呆然とする私に、彼は淡々と続けた。
「魔力核を失えば、俺も君のように二度と魔力を生成できなくなる。
筆頭としての地位も、積み上げてきた名声も、すべて失う。
君を救うどころか、相続させる魔力すら残らない」
ルーカスが、こつ、と肘掛けを叩く。
乾いた唇を歪め、笑おうとしていた。
けれど、目元には何の生気もない。
「俺は、ただのルーカス・キリフォードに成り下がる」
まるで自分自身を踏みにじるようだった。
ひくり、と喉が締め付けられる。
「筆頭じゃなくなっても……私は」
言ってしまってから、言葉だけでは何の意味もないことに気づく。
ルーカスは、鼻を鳴らした。
どうせ、ご機嫌取りだとしか思われていない。
私は唇を引き結び、膝の上に置いていた契約書をもう一度テーブルの上へと戻した。
「ペンを下さい」
ルーカスの片眉が跳ねる。
その瞳に、警戒と、戸惑いが浮かんだ。
けれど次の瞬間には、すべてを諦めたような顔をして、万年筆をこちらへ差し出した。
私はそれを受け取り、痛む指で強く握りしめた。
頁を捲って、目を落とす。
『《魔力承継条項》』
その下には、まだ誰の名も記されていない署名欄が二つ並んでいた。
私はしばらくその空白を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「楽しかったですね」
「……ん?」
ルーカスが、わずかに視線を上げる。
「久しぶりに研究で役に立てて……私、とても嬉しかったです。
書庫で話を聞いてくれたときなんて、昔に戻ったみたいで」
ルーカスは口を閉ざしたままだった。
けれど、遮ることもしない。
私は契約書の文字から目を逸らさず、そのまま続けた。
「でも、スープの野菜は、また焦がしてしまいました。
祝音花だって、すぐに枯らしてしまいそうで。
……地方の方陣についても、まだまだ分からないことばかりです」
彼の浅く、かすかな呼吸の音だけが聞こえる。
「明日も明後日も……私はきっとたくさん失敗します。
どんなに魔術を使えても、そのたびにきっと、寂しくなる」
ペン先を、滑らかな紙の上へと下ろす。
「あなたがいないと」
黒いインクの太い線が、紙面をまっすぐ横切った。
『魔力承継条項』の項目そのものに、二重線を引いたのだ。
その瞬間、条項の一段落が淡く揺らぎ、紙の上からほどけるように消えていく。
ルーカスが、初めて驚愕に目を見開いた。
「おい、ビビ……」
その声は、途中で掠れて途絶えた。
私を叱るための言葉も、静止する声も、形になって出てこなかったようだ。
ルーカスの動揺を受け止めながら、続けて自分の署名欄にペン先を強く押し当てる。
もう、迷いはなかった。
――ビビ・メラフィ
最後まで一思いに名を書ききった瞬間、ようやく深く息を吐き出した。
私はそのまま、まだインクの乾かない契約書をルーカスの手元へ滑らせる。
そして、万年筆を彼の胸元へまっすぐ突きつけた。
「私は、これからもルーカスさんと暮らしたいんです。生きてくれますね?」
ルーカスは私を凝視したまま、身を硬直させていた。
広間に、短い沈黙が落ちる。
彼は前髪を後ろへ大きく掻き上げ、そのまま片手で顔を覆った。
そして、私から視線を外すように俯き、弱々しく、それでも、どこかおかしそうに笑った。
「……まいったな。死ぬ気が失せた」
そう言って私の手からゆっくりとペンを受け取ると、
しばらく、二重線の跡と私の署名が並ぶ紙面を見下ろしていた。
やがて――
ルーカスは見慣れた癖のある筆跡で、自分の名を書き入れた。




