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第17話 魔術師になりたくて――6日目③

 一人残された私は、テーブルの上に置かれたままの契約書を手に取った。


 広間は先ほどまでの激しさが嘘のように、しんと静まり返っている。

 指先に触れた契約書の質感は、ひどく無機質で冷たく感じられた。


 署名欄は、空白のまま。


 ぱらぱらと頁を捲ると、魔術によって刻まれた美しく整った文字が目に入る。


 少しでも文字を汚してしまえば、無効になってしまいそうで、私はそっと元の位置へ戻した。


 ――『受け取りたくありません』


 今さらになって、自分が口にした言葉の重さに驚く。

 あんなに切望していたルーカスからの署名を、拒んでしまうなんて。


 決して、彼の魔力が欲しくないわけではない。

 二日後に魔術師に戻れると言われて、心が揺らがなかったわけでもなかった。


(だけど……先生は死んでしまう)


 残された時間は、短い。

 それなのに、私は今、何がすべきかさえ分からない。


 ただ、このまま立ち尽くしていても意味はない。


 私は逃げ出すように、ふらふらとした足取りで厨房へ向かった。

 足元は頼りなく、何度も廊下の壁に手をついて身体を支える。


 どうにか厨房までたどり着き、静かに扉を開けた。


 壁には、この六日間で自分が書き溜めたレシピのメモが貼り付けてあった。


 煮込み時間の横に添えた注意書き。

 焦がしすぎた日の反省。

 味付けを濃くしすぎないこと、と歪な丸で囲んだ箇所。


 呑気な過去の自分に、どうしようもない苛立ちが込み上げる。


 私はメモを乱暴に剥がし、ゴミ箱に放り捨てようとした。

 けれど、その直前で指が止まる。

 手に力がこもり、薄い紙がくしゃりと潰れた。


 捨てられない。


 思い直して、皺の寄った紙を平らに伸ばして元の場所へ戻す。

 それから、エプロンの紐を結んだ。


 明日の朝食の下ごしらえをしておこう。


 できれば、たくさんがいい。

 明日も明後日も、来週まで食べられるほどの量を作ろう。


 そう思った瞬間、包丁の柄を握ろうとした右手が強張った。


(来週……)


 ふるっと頭を振る。


(……考えるな)


 思考を振り払い、無心で野菜の皮を剥き始めた。

 まな板の上に、具材の山が少しずつ積み上がっていく。

 鈍く光る包丁の刃と手元に、すべての意識を注ぎ込んだ。


 だが、野菜箱が空になってしまうと、私はまた目的を見失って立ち尽くしてしまった。


 エプロンの紐を解いて畳み、すごすごと広間へと引き返す。


 陽は落ちきっていて、窓の向こうはすっかり夜になっていた。


 そういえば、荷物をまとめておけと言われていた。


(……気が進まない)


 けれど、ここで言いつけを破れば、ルーカスが手配した代理人に余計な手間をかけさせてしまう。

 これ以上、彼に迷惑をかけるような真似だけはしたくなかった。


 足音を忍ばせるようにして、ゆっくりと階段を昇っていく。

 一段を踏みしめるごとに、静けさが身体に重く伸しかかるようだった。


 ルーカスの寝室の扉が、視界に入る。

 不安がせりあがってきて、部屋を訪ねようかと、一瞬だけ足が向く。


 そのとき、扉の内側から、かすかに咳き込む声が聞こえた。


 ほっと胸を撫で下ろす。

 生きている。


 けれど、扉を叩く勇気は湧かなかった。

 顔を合わせれば、また傷つける言葉を口にしてしまうかもしれない。


 私は無理やり踵を返し、私室へと逃げ込んだ。


 扉を開いたかすかな風に、窓辺の祝音花が小さく傾いた。

 細い鈴を振るうような音が、孤独な部屋に広がる。

 けれど、その響きは今にも途切れそうで、弱々しい。


 不思議に思って鉢を覗き込むと、土が乾き、白い花弁が萎れかけていることに気づいた。

 慌てて霧吹きを手に取り、細かな水滴を吹きかけた。

 葉の上に露が宿り、花弁がわずかに震える。


 ほんの半日放っておいただけで、これほど弱ってしまう繊細な花。


 りん、と儚く鳴る花を見つめながら、深く息を吐く。

 ルーカスは、私の知らないところで、ずっとこの花の世話を続けてくれていたのか。


(身体が悪いのに、二年も……)


 私はいたたまれなくなって、視線を逸らした。


 感情を無理やり押し殺して、床に置いていたトランクを引き寄せる。

 パチンと金具を外し、蓋を開いた。

 丁寧に衣服を畳み、小物をひとつひとつ収めていく。


 ルーカスから譲り受けた魔術書も忘れるわけにはいかない。

 机の上に重ねていた本に手を伸ばし、古い表紙を指先でなぞる。


 荷造りをしなくてはならないのに、どうしても読みたくなってくる。

 少しだけ、と自分に言い訳をし、ぱらりとページを捲ってしまった。


 本の余白には、ルーカスの書き込みが残っていた。

 その内容は、私が夢中で話した、あのメリオールの方陣についての考察のメモだった。


 もう魔術師でもなくなった私の話を、ちゃんと聞いてくれていた。

 私が積み上げてきた過去を、価値のあるものとして認めてくれていた。

 書庫に吹き込んだ柔らかな風の感触が、頬に蘇るようだった。


 読書灯に優しく照らされる本棚。

 隣に座るルーカスの確かな気配。

 静かに耳を傾けてくれた横顔。


 あの時の私は――。


 魔力を失った、無能な魔術師でもない。

 ルーカスの元を去った、元弟子でもない。

 相続を目当てに、演じる女でもない。


 ただの、ビビ・メラフィでいられた。


 それなのに、ルーカスはもうすぐ私の前からいなくなる。


「……」


 私は、そっと視線を彷徨わせる。

 壁に立てかけてあった杖が目に入り、喉を鳴らした。


『杖で釣ったんだ』


(……本音は、いつも言わない)


 ルーカスは私にまだ何かを隠しているのではないか。

 それを知らないまま、終わってしまうのか。


(でも……きっと話してはくれない)


 私は引き寄せられるように杖へ近づき、巻き付けていた布を静かにほどいた。


 意を決して、その木肌に触れてみる。

 バチリと、指先に激しい痛みが走った。


 体の内側から、拒絶される感覚がせり上がってくる。

 それでも、私は手を引かなかった。


 そのまま躊躇なく杖を両手で強く掴み取る。

 焼けるような激痛が、手のひらから両腕へ、そして全身へと駆け上った。


 喉の奥から、悲鳴が漏れる。


「くっ……」


 痛みで涙が滲む。

 それでも、離したくなかった。


 これは、私が本当に欲しかったもの。

 決して失いたくなかった、私の一部。


 もう一度、魔術を操りたい。


 けれど、凄まじい衝撃が脳天まで突き刺さった瞬間、堪えきれずに指の力が抜けていった。


 杖が、重々しい音を立てて床へ転がる。

 私は赤く腫れ上がった両の手のひらを見つめた。


 唇が、情けなく震える。


(たとえ相続しても……)


 私が魔術師に戻れたとき――その姿を隣で見てくれるルーカスは、いないのだ。


 あまりにも、やるせなかった。

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