第16話 また"先生"か――6日目②
ルーカスの姿は、朝から少しも整えられていなかった。
結われていない黒髪も、開いたままの襟元も、そのままだ。
けれど、青白い顔色だけは、朝よりもさらに悪くなっているように見えた。
首元には、あの黒い蜘蛛の痣が隠しようもなく浮かんでいた。
汗で湿った髪が青白い頬にはりついているのに、それを指で払う余力すら、今の彼には残されていないように見える。
今にも倒れそうな身体なのに、放たれる威圧感だけは、こちらの息を止めさせるほど鋭かった。
私はごくりと喉を鳴らす。
「体調が悪かったのでは……」
ルーカスは答えなかった。
ただ、視線だけを私の手元へ滑らせていく。
「読んだのか」
低く、重たい呟きだった。
はらりと、髪が彼の顔にかかる。
その隙間から覗く黄金色の瞳が、まっすぐにこちらを射抜いていた。
こめかみの辺りが、どくとくと強く脈打つ。
「すみません。でも、私……」
封筒を持つ指先に、自然と力がこもった。
「俺としたことが迂闊だった」
ルーカスは組んでいた腕をほどき、預けていた身体をそっと扉枠から離した。
その一動作だけで、彼の呼吸が乱れる。
けれど、苦痛の色は表情に出さず、床を踏みしめるようにして、一歩、また一歩とこちらへ歩み寄ってくる。
靴音は、ほとんど響かない。
「君は俺の言うことを一つも聞かないな」
押し殺した苛立ちが、低い声に滲んでいた。
私は立ち上がることすらできず、封筒の束を固く握りしめたまま、距離を詰めてくるルーカスを見上げていた。
やがて、彼は私の目の前まで辿り着くと、支えを求めるようにソファの背に片手をついた。
痩せた指が、革の生地を強く掴んでいる。
それでも、私を見下ろす眼差しだけは冷え切っていた。
「返してもらおう」
「……」
ルーカスは片手を差し出す。
けれど、私は封筒を背に隠し、首を横に振った。
白い手が、ぴたりと止まる。
ルーカスの眉間に、深い皺が寄った。
行き場を失った手の指先が、ゆっくりと握り込まれる。
「いい加減にしろ……」
彼は痛みを堪えるように小さく顎を引いた。
ギリ、と顎の線が強張るほどに奥歯を噛み締めた、その直後。
「君は、相続が目的でここにいるんだろう!?
だったら、ここにいる間ぐらい、俺の言うことを聞け!」
堰を切ったように、声が昂ぶった。
激しい怒鳴り声に、ルーカスの喉がひくりと大きく震える。
ただ声だけが先に立ち、身体が追いついていない。
それでも荒い息を無理やり呑み込み、私をきつく睨み据える。
十年、そばにいたというのに。
ルーカスがこれほど声を荒げる姿を見たのは、初めてのことだった。
「せん……」
圧倒され、無意識に呼びかけようとした途端、ルーカスの呼吸がまた荒くなる。
「また先生か!
明日には死ぬ相手に、なぜ徹することができないんだ」
怒りを孕んだ声が、鋭く突き刺さった。
けれど、その最後の一音は、力を失って崩れた。
しん、と痛いほどの静寂が落ちてくる。
私は弱気になりそうな膝に力を込めて、背筋を伸ばしながら立ち上がった。
そして、肌を刺すような彼の視線を、真正面から受け止める。
「無理ですよ、そんなの……。
私の知らないところで、こんなことをして……」
ルーカスは何も言わず、ただ固く唇の端を引き結ぶ。
首元には汗が滲み、蜘蛛の痣の上を伝っていた。
「私のために死にかけている人を相手に徹するなんて、
とてもじゃないですけど……」
ルーカスは耐えかねたように顔を背ける。
これ以上の言葉を拒むように、深く、重たいため息を床に落とした。
その姿を見ているだけで、胸が掻き毟られるような思いがした。
堪らなくなって、私は吸い寄せられるように、足を踏み出した。
「どうして、こんなことをしたんです?
自分の命を何だと思っているんです。
私がいつ……こんなことを頼んだんですか」
感情が高ぶり、声が裏返った。
決してルーカスを問い詰めたいわけでも、責めたいわけでもない。
それなのに、膨れ上がったやり場のない衝動を抑えきれず、冷たい言葉ばかりが、歯止めの利かないまま零れていく。
ルーカスは、頑なに口を開こうとしない。
肩から落ちた黒髪が横顔を覆い隠し、表情を窺うこともできない。
身体の奥からせり上がる熱に突き動かされるまま、私は我を忘れて叫んでいた。
「私――あなたの考えていることが、全然分かりません!!」
違う。
こんなことを言いたいわけではなかったのに。
口から飛び出した最低な言葉に、吐き気がした。
どうして私は、これほどまでに愚かなのだろう。
すると、長く沈黙していたルーカスが、ぽつりと独り言のように言葉を零した。
「言ったはずだ。君の価値は、俺が決めたと」
その声からは、先ほどまで広間を震わせていた怒りの熱が消えていた。
「俺の命より重かった。それだけだ」
顔を上げたルーカスの瞳と、正面から視線がぶつかる。
限界まで張りつめていたものが、ぷつりと切れてしまったかのようだった。
彼は鬱陶しそうに、顔にかかった髪を乱暴に払った。
ソファに手をかけた腕へと重心を預けるように前かがみになり、深く、苦しげに息を吐き出す。
「数ヶ月前、君が呪いの後遺症で魔力を生成できなくなったと聞いた」
「……え」
「代替処置にも限界はあるから、危惧はしていた」
ルーカスは、一切の感情を削ぎ落としたような声で続ける。
「俺の命が長くない以上、魔力貸与では意味がない。
だが、死後相続の手続きをしようにも、君は俺に連絡のひとつも寄越さない。
だから、杖で釣ったんだ」
(杖……?)
視界の端が、ぐらりと揺れた。
「まさか……最初から、婚姻契約書も準備していたんですか?」
「……」
ルーカスはテーブルの上に投げ出された契約書を冷ややかに一瞥し、抑揚のない声を響かせた。
「ああ。配偶者にするのが、相続するうえで一番手間が少ないからな」
やけに、手際がいいと思っていた。
魔術で文字を浮かび上がらせていたとしても、あまりにも淀みがなく、不自然だった。
あの分厚い契約書が、完璧に整えられていたのは、ずっと前から――。
自分の身体が、急激に冷えていくのを感じた。
焦りで舌がうまく回らない。
「れ、連絡をしなかったのは……ルーカスさんに失望されたくなかったんです。
無能になった魔術師だと思われたくなくて。
杖も握れなくなったなんて知られるのが嫌で……怖くて……だから……」
「もう終わったことだ」
容赦なく遮られ、私は思わず胸元の服をぎゅっと掴んだ。
「じゃあ……! この七日間は、一体何だったんですか!?」
「……」
「どうして、あんな取り引きを持ちかけたんですか?」
ルーカスは静かに俯いた。
口元を歪め、自嘲の笑みを浮かべる。
「夢だよ」
どくっと、心臓が跳ねた。
「最後に、夢が見たくなったんだ」
ルーカスの長い睫毛の影が、痩せた頬に暗く落ちる。
彼は一度だけ浅く息を吸い、ひどく疲れた様子で弱々しく笑った。
「嘘でも、演技でも……最後まで続くなら、それでよかった。
俺の元に戻る理由が、たとえ魔力のためでも。
君が珍しく欲を出したのをいいことに、俺が利用しただけだ」
ルーカスはソファから手を離し、崩れそうな身体を強引に立て直すと、私をまっすぐ見つめた。
「付き合わせたな」
あまりにも、静かで穏やかな声だった。
「ルーカスさん……」
「茶番は終いだ」
ルーカスはふいに視線を逸らすと、頼りない足取りでテーブルへ近づいていった。
そして契約書を手に取り、ペン立てから万年筆を抜いた。
これから何をしようとしているのか、すぐに察しがついた。
ルーカスは迷いなく契約書の頁を捲ると、空白の署名欄をペン先で叩いた。
「署名しよう。君は、あと二日で魔術師に戻れる」
それを聞いた途端、私は衝動のまま駆け寄った。
手を伸ばし、ルーカスが握っていたペンを奪い取る。
ルーカスは目を見開いて、私を凝視した。
ペンを失った指先が、空を掴む形のまま硬直している。
「こ、こんな形で受け取れません」
「要らないのか」
「……」
要らないはずがない。
喉から手が出るほどに、ルーカスの魔力が欲しい。
けれど。
「……わかりません。
ですが、今は……受け取りたくありません」
私の言葉を聞いた途端、ルーカスは一瞬、息をすることすら忘れたように動きを止めた。
黄金色の瞳にかすかな動揺が走り、きつく細められたかと思うと、すべてを諦めたようにその瞼が閉じられた。
「そうか」
ルーカスは短く告げ、契約書をそっとテーブルへ戻した。
私から目を逸らし、そのまま広間を後にしようとする。
「ルーカスさん」
呼び止めた私の声に、彼は振り向きもしない。
背を向けたまま、ひどく乾いた声で呟いた。
「……正気じゃないことぐらい、俺だって分かってる」
それだけを残して、ルーカスは薄暗い廊下の奥へと静かに消えていった。




