第7話:【歪んだ鏡】
凛香さんの冷たい手が首筋に触れた瞬間、僕はたまらず彼女を突き飛ばした。
「……触るな! おかしいよ、こんなの!」
祭壇のような標本、隠しカメラのモニター、そして僕への異常な執着。 突き飛ばされた凛香さんは、床に膝をつき、バラバラと散らばった僕の写真を見つめていた。だが、彼女は怒るどころか、悲しげに肩を震わせ始めた。
「……どうして? 私はただ、悠真くんを守りたいだけなのに。あの日、裏庭で私を救ってくれた貴方を、今度は私が完璧な世界で愛してあげたいだけなのに……」
「それが怖いんだよ! 三浦さんにしたことも、全部知ってるんだからな!」
僕は彼女の言葉を振り切り、逃げるように階段を駆け下りた。ちょうど玄関のドアが開く音がした。父さんが仕事から帰ってきたのだ。
「父さん! 助けて、お姉さんが、凛香さんがおかしいんだ!」
僕は縋りつくように父の腕を掴んだ。だが、父さんの反応は僕の予想とは正反対のものだった。 父さんは困惑した顔で僕を見つめ、後ろからゆっくりと階段を下りてきた凛香さんに視線を移した。彼女の目には、いつの間にか大粒の涙が溜まっている。
「悠真、落ち着きなさい。……凛香さんから聞いたよ。君が最近、三浦さんのことで情緒不安定になっているって」
「え……?」
「凛香さんは、君が変なストーカー被害に遭わないように、ずっと心を砕いてくれていたんだ。……さっきも、君が彼女の部屋に無理やり押し入って、暴力を振るったって……」
見ると、凛香さんはわざとらしく自分の腕をさすっていた。そこには、僕がさっき突き飛ばした時にできたのかもしれない、微かな赤みが浮かんでいる。
「違う、違うんだ父さん! あの部屋を見てよ、あそこには僕の……!」
「悠真くん、もういいのよ」
凛香さんが、震える声で割って入った。彼女は父の背中に隠れるようにして、僕を怯えた目で見つめる。
「悠真くんが、私を拒絶したい気持ちはわかるわ。……思春期だものね。私の『管理』が、過保護に感じてしまったのね。ごめんなさい、お姉ちゃんが未熟だったわ」
「凛香さん、君が謝ることはない。……悠真、父さんはガッカリしたぞ。こんなに尽くしてくれている彼女を、化け物扱いするなんて」
父さんの目は、冷たかった。 凛香さんは再婚までの数年間で、父さんの信頼を完璧に勝ち取っていたのだ。今のこの家で、狂っているのは凛香さんではなく、「恩人である姉に暴言を吐く反抗期の弟」である僕の方だった。
「……父さんまで、お姉さんの味方をするの?」
「味方とかじゃない。事実を言っているんだ。……今日はもう自分の部屋にいなさい。頭を冷やすんだ」
僕は絶望に打ちひしがれながら、自分の部屋に戻るしかなかった。 カチャリ、と外から鍵をかけられる音がした。
「……嘘だろ」
窓の外はもう暗い。僕は暗闇の中で膝を抱えた。 スマホを確認しようとしたが、ネットワークが遮断されている。凛香さんが家全体のWi-Fiを操作したのだろう。
しばらくして、ドアの鍵が開く音がした。 入ってきたのは、お盆に乗った温かいココアを持った凛香さんだった。彼女の顔には、もう涙の跡はない。鏡のように滑らかで、美しい「聖母」の笑顔。
「……ココア、淹れてきたわよ。少しは落ち着いたかしら?」
彼女は僕のベッドの端に腰掛け、逃げようとする僕の肩を優しく、けれど拒絶を許さない力強さで抱き寄せた。
「父さんはもう寝たわ。……ねえ、悠真くん。わかったでしょう? 貴方の味方は、この広い世界で私一人だけなの」
彼女は僕の耳元で、うっとりとした声を出す。
「貴方がどれだけ私を拒絶しても、周囲は貴方を『おかしい』と思うだけ。……貴方の居場所は、私の腕の中にしかないのよ。……ほら、冷めないうちに飲んで?」
ココアから立ち上る、甘ったるい香り。 その香りが、僕を閉じ込める檻の匂いのように感じられて、僕はただ、震えることしかできなかった。
鏡に映った僕たちの姿。 泣きそうな顔をした僕を、この世で最も美しい怪物が、慈しむように抱きしめていた。




