第6話:【秘密の部屋】
三浦さんが学校を去ってから、僕の日常は以前にも増して「穏やか」になった。 嫌なニュースは耳に入らず、困りごとはすべて先回りして解決されている。凛香さんが整えてくれる世界は、あまりに心地よくて、あまりに無機質だった。
そんなある土曜日の午後。 父さんは仕事で、凛香さんは「ちょっと実家に荷物を取りに行ってくるわ」と言って出かけていた。 久しぶりに訪れた一人きりの家。僕は自分の部屋で読書をしていたが、ふと、奇妙な音に気づいた。
――ガサッ、……ガサッ……。
壁を隔てた隣、凛香さんの部屋からだ。 誰もいないはずなのに。泥棒だろうか。不安がよぎり、僕は廊下に出て彼女の部屋の前に立った。
普段は固く閉ざされているドア。けれど今日は、急いで出かけたせいか、わずかに隙間が開いていた。 隙間から漏れてくるのは、あの清潔な石鹸の香りと、聞き覚えのある「音」。
「……悠真、くん……。……好き。……大好き……」
背筋が凍りついた。 それは、録音された僕の声と、それに被せるような凛香さんの、喘ぐような掠れた声だった。
僕は吸い寄せられるように、そのドアを押し開けた。
「……っ!」
目に飛び込んできたのは、僕の知っている「お姉さんの部屋」ではなかった。 整然としたキッチンのような清潔感は微塵もない。そこは、剥製師の作業場か、あるいは狂信者の祭壇のようだった。
壁一面に貼られた、数えきれないほどの写真。 隠し撮りされた僕の登下校、食事風景、さらには眠っている僕の顔。 そして部屋の隅、防湿庫のようなガラスケースの中には、奇妙なものが整然と並べられていた。
僕が小学校の時に失くした名札。 中学の時に片方だけ無くなった靴下。 先週捨てたはずの、僕の髪の毛が入ったビニール袋。 ラベルには、すべて日付と詳細な行動記録が記されている。
「……これ、全部……」
部屋の中央、デスクの上には数台のモニターが並んでいた。 映し出されているのは、僕の部屋、玄関、そして父さんの寝室。さらには僕のスマホの操作画面が、リアルタイムでミラーリングされている。
僕は、家の中にいながら、ずっとこの「檻」の中にいたんだ。 三浦さんの連絡先を消したのも、彼女を追い詰めたのも、全部、偶然なんかじゃなかった。
その時、背後でカチャリと鍵の開く音がした。
「……あら。勝手に入るのは、マナー違反よ? 悠真くん」
心臓が止まるかと思った。 ゆっくりと振り返ると、そこには買い物袋を提げた凛香さんが立っていた。 逆光で顔は見えない。けれど、彼女の瞳だけが、暗闇の中でらんらんと輝いている。
「お姉さん……。これ、何だよ……。なんで僕の物を……」
僕の声は震えていた。恐怖で足が動かない。 凛香さんは一歩、また一歩と距離を詰め、僕の目の前で止まった。彼女は床に落ちた僕の写真を拾い上げ、愛おしそうに指でなぞる。
「言ったでしょう? 貴方のすべてを『管理』してあげるって。……貴方の抜け落ちた髪も、吐き出した吐息も、全部私の一部なの」
彼女の微笑みは、昨日までと同じ「聖母」のものだった。 それが、今の僕にはどんな化け物よりも恐ろしく見える。
「三浦さんも、……お姉さんが何かしたの?」
「彼女? 彼女はただ、貴方の美しさを汚す『シミ』だったから、少しだけ洗剤をかけてあげただけ。……ねえ、悠真くん。どうしてそんなに怯えているの?」
凛香さんは僕の首筋に冷たい手を添えた。
「嫌なものは全部、お姉ちゃんが片付けてあげた。貴方はただ、この綺麗な箱庭で、私だけを見ていればいいの。……それとも、自由なんていう不確かなものが、まだ欲しいのかしら?」
彼女の手が、ゆっくりと僕の喉元へ回る。 力は入っていない。けれど、そこから逃げることは許さないという、絶対的な支配の感触。
「……大丈夫。貴方は何も考えなくていいのよ」
僕はその時、初めて理解した。 彼女の愛は、僕を救ったあの日から一度も止まることなく、僕を飲み込むための巨大な怪物へと育っていたのだということを。




